第2話 懐かしき悪夢
……これが悪夢だということにリコウトは気付いていた。
栗色の長い髪。目の覚めるような空色の瞳。そして無邪気な微笑み。
懐かしい妹の笑顔。
「お兄ちゃん!」
「こっちには来るなと、何度も言ってるだろう。スレイ」
リコウトであってリコウトでない、過去の自分が何度もなぞった言葉を口にする。
「でもね、ハンカチを落としたの」
「ハンカチ?」
リコウトはあたりを見渡した。
ここはクックハンの王都。その中でも中流階級――富裕な商人層が暮らす界隈だ。スレイが住んでいるスラムに比べれば治安は格段にいいはずである。
だが、すでにスラムの顔役の一人であったリコウトの妹となれば、危害を加えるような馬鹿はスラムにはいない。
むしろ縄張りが違う、こんな場所の方が危険だった。
「落とすにしたって、一度は黙ってここに来たんだろ」
「うん……」
「それに今は持っている」
確かにスレイの手には、リコウトが以前に贈ったハンカチが握られていた。特に上等なものではないが、それでもレースで縁取られ、刺繍の施された絹製の白いハンカチは、スラムでは十分に宝物だろう。
その時に二人の着ていた粗末な麻の着物なら、十着ずつ揃えることが出来るぐらいの価値はある。
「これはね、さっきお姉ちゃんが探してくれたの」
「お姉ちゃん?」
「金色の髪で、スミレ色の瞳で、きれいな服を着たきれいなお姉ちゃん」
「ああ」
そう言えば、スレイを探している時に、そんな容貌の貴族の令嬢とすれ違った。思い出してみると随分きれいな女の子だったとは思うが、貴族がこんな庶民の女の子のためにハンカチを探すだろうか。
首をひねるリコウト。
「本当だよ。黒い服のおじさんに命令して、私のハンカチを探してくれたの。エリアンお兄ちゃんに命令する、お兄ちゃんみたいだったよ」
言うことがやけに具体的だ。
何か、勘違いしているわけでもなさそうに思える。
「そんな貴族がいるのか」
「私もあんなお姉ちゃんが欲しいな。きれいでやさしくて……」
子供の言うことに脈絡を期待するのは間違いだとわかっていても、リコウトは思わずめげる。
「わかったわかった。んじゃ、家に帰るぞ」
家と言うほどたいそうなものではないが、とりあえず夜露は防げる。
「じゃあ、お姉ちゃんにしてくれるの?」
「違う。無理なのわかってるだろ」
スレイの手を引いて歩き出すリコウト。
「でも、お兄ちゃんがお姉ちゃんと結婚したら、お姉ちゃんはお姉ちゃんになるよね」
ちまちまと足を動かしながら、リコウトの横に並ぼうとするスレイ。
「……誰にそんな話を聞いた」
「東のかっぱらいのお姉ちゃん」
「よくわからんが、そいつの運命は決まった」
「結婚してよ、お兄ちゃん」
「無理なの。貴族様は貴族様同士で結婚するの」
「貴族って何?」
顔をしかめるリコウト。単純に言えば敵だ。しかし、そう答えると次の質問は「どうして敵なの?」ということになるだろう。
ここは難しいことを言って、煙に巻いた方が得策だ。
「貴族っていうのは、爺さんのそのまた爺さんぐらいがもの凄く偉かったんだ。だから昔っから仲が良くて、その子供達もずっと仲良くしようっていうんで、貴族同士で結婚することに決まってるの」
――自分たちの獲得した権力を守るために。
という本当の事情は置いておく。
「じゃあ、結婚できるね」
「何で!?」
「お兄ちゃんもすごく偉いでしょ」
確かに、スラムではすでに敵なしだ。まだ年が若いので上に長老達もいるし、粋がってリコウトに喧嘩をふっかけてくる者もいるが、正面切って事を構えようという者はいないだろう。
偉い、と言えなくもないが、貴族のそれとはレベルが違う。
「なんだって、そんなにそのお姉ちゃんを気に入ったんだ?」
逆に尋ね返すリコウトに、スレイは頬を染める。
「あのね、私がねハンカチをね……」
「探してくれたんだろ」
「違うの。私がハンカチがお兄ちゃんなのって言ったらね」
「…………」
どういう事だとつっこみたいが、ここは我慢する。
「お姉ちゃんはね『お兄様にいただいたのね。大事なものなのに悲しかったでしょう』ってわかってくれたの。お兄ちゃんみたいにすっごく頭がよくて、やさしいお姉ちゃん。きっとお兄ちゃんとお似合いだよ」
無邪気に笑うスレイ。
――そろそろやめておけ。
そして、覚醒へと向かうわずかばかりの時の中で、あのまぶたの裏に焼き付いた光景がフラッシュバックする。
ハンカチを自分だと信じて、握りしめたまま無惨な姿で命を落とした妹の姿。
上半身を起こす。
世界は未だ宵闇の中。何も見えない中で目を凝らす。
妹の無惨な姿を網膜に焼き付けるために。
忘れるな。忘れるな。忘れるな。
――時よ、俺の傷は癒さなくてもいい。
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