黄昏
れなれな(水木レナ)
おはよう
私の朝は、午前の4時から始まり、次の日の午前2時に終わる。
いつごろからか、落ち着いて睡眠がとれなくなった。
妻がなくなった今では、気遣う相手もないので、目がさめたらそのまま起きる。
酒は呑まない。煙草もやらない。なのに、今年の健康診断では腎臓が、肝臓が、血糖値が、とちくちく刺された。
おかげで、ますますストレスが増した心地がする。
がらんと――一人では広すぎるリビングでは、TVの砂嵐が鳴っている。
夕べ墜落するようにソファで――気絶同然に――眠ったため、つけっぱなしだったのだ。フローリングに直接置かれた、KIRINのペットボトルは、口に残る甘さを裏付けるかのように、水滴を含んでたたずんでいる。
のどが渇いた。
冷蔵庫に保存しておいた、ボトルの水は味気なかった。
仕方なく小銭入れを開け、50円玉を数個取り出し、狭い廊下をつたって玄関へ向かった。
温泉付きマンションのホールには、安い飲料の自動販売機が置かれている。
昨日から同じスポーツ飲料しか飲んでない。
私はキッチンの脇にすえられた、ペットボトルの林立を思い出し、やはり同じものを買った。
その場でキャップを回すと、きりりときしんで数回まわる。
のどが渇いたのだ。
スポーツ飲料は、やけに酸っぱく感じた。
今度は、お茶を飲もう。お茶が飲みたい。
やはり、今買おう。小銭は――部屋だ。
悪態をつきたい気分になりながらも、歩いて数歩と自分に言い聞かせ、大股で行って、戻ってきた。
自販機が地団太を踏むようにがなり、受取口へ緑のペットボトルを吐き出す。
あけると渋い。一体私の味覚はどうなってしまったのか。
すべてが味気ない。納得いかない。
落ち着かない。
ひとっ風呂浴びてこよう。ほとんど二十四時間、自由に風呂を使えるのがこのマンションの良さだ。
9月もすぎ、虫の音が高く、遠くと近くでしているというのに、部屋に置きっさらしになっている扇風機を避けながら、チーズのような石鹸と垢じみたフェイスタオルを二本、脱いだままの衣服の間からとってくる。
やけに目にきらきらしい照明の輝く、脱衣所で作務衣を脱ぐと、生ぬるい熱気の余波が襲ってきた。
まあ、待て。
頭から水をかぶればいいさ。そして湯につかる。
シミュレーションを行ってから、引き戸を開けた。
誰もいない。これは幸甚。大っぴらに水シャワーを浴びて、タイルを踏む。
ぬめるような空気の流れとは裏腹に、熱い湯気が全身を濡らして……。
気持ちいい。
この風呂があれば、あいつももっと長生きしたかもしれないな。
定年後に、リゾートマンションを買うなんて、と反対したあいつはこっけいだ。
死んでせいせいしたよ。
湯につかって顔をなでると、しょっぱいものが目にしみた。
ガラス張りの窓から星が見える。
ばかめ。
あいつの幻でも見えはしないかと、どこかで期待している私もこっけいだ。
娘と暮らしたいと言って、夫婦別居をすすめたのはあいつなのだ。
15の年に地元を離れ、就職してあいつと暮らし始めて、40余年経ったころ。
もうじき、自由になれるというときになって、あいつは脳卒中でころっと逝った。
苦しみもしなかったろう、幸せな人生だったさ。
置き去りにされた私のその後の人生など、あいつはさらさら考えもしなかったはずだ。
都心の住宅を娘に明け渡して、故郷の地元にあった、開発されてほっぽり出された――まるで私みたいな――マンションを買った。終の棲家に。
さらさらと、熱い湯が波紋を乱しながら流れていく。
今更、世間の荒波に嘆くようなメンタリティは持ち合わせてはいない。
薬効のある温泉につるりとする腕の感触を確かめ、ぎゅっと筋肉を絞る。まだまだしょぼくれちゃいないさ。勝手に言わせておけ――人でなしだと。
おまえを育てるためにどれだけ金を払ったと思ってる。
勤めて寿退社するのが夢だと語ったあの会社を突如として辞め、子供ができたと言ったときは笑わせるなと――子供が子供を産むのか、と思った。
しかしあのタイミングでなければ、あいつは初孫の顔を見られなかった――ある意味、親孝行だった――娘は元気でやっているだろうか。
じいじの顔は、ちゃんと憶えているだろうか――孫はまだ、頑是ない子供であった。
そのうち会いに行こう――そのうち、そのうち。
いつにしようか。孫は何歳になるのだったか。6つか7つ、そんなところだったはずだ。まあいいさ。すくすく育てば。
考えているうち、頭がぽっぽとのぼせてきた。上がるか。
ふらり、足元がゆれる。
くらり、体がかしいだ。
おっと、まだまだ早い、まだ早い。
あいつのもとへはゆくまいぞ。
せいぜい、指をくわえて待っているがいい。たくさんの――土産話をもってきかせてやるぞ。それまでは死なない――決めたのだ。死なないと。
やれ、老骨と呼ばれようとも。孫の二十歳の誕生日までは生き延びよう。
それくらいなら、まだ持つだろう。
男やもめに蛆がわき――などとは言うが、一向にかまわない。
飾る必要のない生き方をしてきた。そういう生き方を目指していた。
少女趣味なあいつには、申し訳なかったが、私はこれで普通なのだ。
もっとも、別居にあたって、女のほうが先に逝くとは――そういった統計は――聞いていなかった。
なんにせよ、骨は拾った、成仏せえよ。
神様にでも仏様にでも、祈っててやるから。
ふらふらしながら、部屋にもどると、テーブルに置きっさらしでぬるくなったペットボトルを飲み干した。
彼岸の明けまで、冷蔵庫に入れっぱなしだったお萩を頬張ると、ひからびたもち米の硬い感触がした。
ああ、此岸は煩悩のありかを指し示す。いくつになっても、腹は減る。
あいつが、パート先で憶えてきた、お萩はこんな味ではなかった。
きなこをまぶして、もち米の中、さらに粒あんが入っていた。
うまかった。介護施設の年よりは、こんなうまいものを食ってるのかと思った。
かたくてぼそぼそとしたお萩を、適当に咀嚼して飲み下すと、またのどが渇いた。
自分で入れるお茶は、味がよくわからない。
味なんて、なくてもいいと、思っているからかもしれない。
ちょっとしょんべん。
あいつが淹れたものは、なんでもうまかったのに。
わずかながらの感傷にふけると、さっさと手を洗ってしまう。
昨日、甥っ子がおいしいからともってきて、そのままだった梨があったな。
私はなんでも一人でやってきたし、できるのだと言っても、あいつは一切、刃物を触らせなかった。
実は私は包丁が使えるのだぜ、と思っても、披露する相手がいないので、梨は洗って、丸のままいただくこととする。
がぶり、しゃぶり、とあふれ出る果汁を、そのまま嚥下する。のどが渇く。
大きいな。結構食べでがあるぞ。
豊かな秋の実りを捧げ持つ、左手につゆがしたたる。ちょっとべとつくから、チリ紙ちりし。
あわてて、手を当てがった顎にも、ひげのざりざり感とべとつき。チリ紙が破けた。気にしない。
カーテンを開けると、陽が昇っていた。朝だ。本物の朝だ。
さあ、寝よう。
リビングの横の和室に入り、敷きっぱなしのままの布団に入る。
今更、私を恋しいと、思っても遅いぞ……。でも布団なら二組あるんだ。
お客が来た時のためだ。
おまえのためじゃないぞ。ん?
今日もまた、夢枕に立つのか?
私はまだまだ、こちらにいるぞ。
おまえが、いない休日を満喫してやる。
もう、ここのところ、毎日が休日だ。
うん、うん……ちゃんと食べてるよ。わかってる。
買い物くらい、私にだって、ちゃんとできると言ったろう。
年よりあつかい、するんじゃないよ……まったく。
まったく……。
おまえの顔は、見飽きたんだ……。
むにゃむにゃ……。
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