乙姫

御餅田あんこ

泡沫夢幻

 うたかたにあらわれたゆめまぼろし。




 見渡す限りの花園だった。


 若草色の隙間に、あらゆる季節の草花が咲いている。


 花園の真ん中には、宮殿のようなものがあった。豪奢な金色の門と銀黒の塀とで、ぐるりとそれを囲んでいる。宮殿らしい建物の真ん中からは大樹が突き出ており、その大樹の枝の先には瑠璃の珠が生っていた。


 管弦の音が聞こえる。おそらくは、宮殿の中から。


 門へ向かって歩いて行くと、門は開け放たれ、門番はいない。入ってすぐのところを歩いていた女性が――それはまるで雛人形の三人官女のような装いで――、此方へ寄ってきて、


「ようこそおいで下さいました」


 と言った。


 その女性に連れられて、殿舎へと踏み入る。朧気な光景だった。霞んでいるが、煌びやかで、気後れするほど上等なことを認識している。その一室で、見目麗しい女雛のような装束を着せられて、やがて、管弦の音の元へと案内された。宴の間なのだという。


 上座には、髪も肌も真っ白な男がいて、脇息にもたれ掛かりながら酒を呷っている。その男が微笑んで手招きした。笑った顔はどことなく蛇にも似ている。女性に促されて傍に寄ると、男が言った。


「望みはあるか。言うがいい」


 それで喜んで何事かを言ったのだが、何を言ったのか、自分でも分からない。


 薄々気づき始めていたのだ。


 これが夢だと言うことを、本当は寝床の中にいることを。


 幸福がなんなのか未だ知らぬまま、同じ朝を迎え、似たような一日を過ごし、また眠り、朝を迎える。そしていつか、何が幸福だったのか知らないまま歳をとって、死んでいくのだろう。


 それでも夢は、見ている間だけは、幸福な現なのだ。


 * *




 八月三十一日。


 猛暑。


 日中、沙苗さなえの職場の書店では、バックヤードの温度が三八度を超えた。外の気温も三六度あったという話だが、熱がこもる上に、通気性が悪いバックヤードはことさら酷かった。その上、風通しをよくするためにこの頃は工業用扇風機を稼働させていたが、熱風を行き渡らせ、逆効果だった。


 そのため、呼び出しを受けて入った事務所が、あまりにも涼しくて、世界が違うとすら感じたほどだ。


 連日の猛暑で、最高潮に苛立っていた。


「クレームがありました」


 と、事務員の佐藤が言った。


 沙苗を呼んだのは、どうやら沙苗に対するクレームの電話を受けたためらしい。


 佐藤は、もうすぐ還暦を迎える常ににこにこと笑う女性だった。今日ばかりは、何処か申し訳なさそうな、困った顔をして続けた。


「先ほど、電話があって。お客様には岡町さんの態度が不躾に思えたみたい。店長に報告しておいたから、店長からまた話があるでしょうけど」


「はい。すみません」


 沙苗としては、言葉遣いも丁寧に、マニュアル通りに、客の要望には応えうる限り応じるようにと心がけている。斑のない、最善の接客をしているつもりである。


 ただ、周囲に言わせれば、笑顔が足りないというだけなのだ。これにしたって、『笑顔第一!』といううざったいマニュアルの文言をきっちり守っているつもりでいる。


 だが、不躾だの、笑顔がないだの、根暗だのと、よく言われる。改善の仕方が分からないので、酷く困っている。


 佐藤さんは、「元気出してね」と言った。


 彼女は、困ったような顔でさえ表情豊かに思えた。こういう気持ちが顔に出せる人には苦労も少ないんだろうなと思いながら、沙苗はもう一度、「はい、すみません」と繰り返して事務所を出た。


 瞬時に、サウナの中のような熱気に包まれる。


 売り場に戻ろうとしてバックヤードを歩きだしながら、事務所の通路側に嵌まったガラス――此処には、ブラインドが下ろされていて、隙間から佐藤が緩慢な所作で歩いている様子が見えた――に映り込む自分の顔を眺めた。悲しそうな顔も、申し訳なさそうな顔も出来ないのは、少しもそのように感じられないからだろうか。ならば、笑顔が足りていないというのも、結局、楽しくもなんともないからだろう。


 能面ですら演者の技量やその角度によって多彩な表情を見せるというのに、自分の顔はいつ見てもぼんやりしている気がする。表情がないのだ。試しににこりと笑ってみた自分の顔には、悍ましささえある薄ら笑いが浮かんでいる。嫌気が差してさっさと歩き出すと、バックヤードの何処か、在庫の棚の陰から、ひそひそと笑い合う声が聞こえた。


「また、岡町さんクレームですって」


「あの人、きっと、あれで普通に接客しているつもりだから。仕方ないよ」


「そういえばこの前、白髪のおじいちゃんいるでしょ、ほら、あの人。あの人がね、岡町さんのこと幽霊って呼んでたのよ。笑っちゃう」


「何それ、面白い。あはは」


 クレームの噂は、既に店中に伝わっているのだろう。


 佐藤は、あんな困ったような、申し訳なさそうな顔をしながら、電話をとった傍から言いふらして回ったんだろう。それであの人には、きっと悪気なんてないのが厄介なのだ。


 棚の陰で笑い合っている彼女たちにも、沙苗を貶めてやろうという気は微塵もないのだろう。面白いから話している、ただ、それだけのことだ。


 悪気なんてなくても、いくらでも人は人を不快にすることが出来る。そう思う。不快ではあったが、怒りは沸かない。もう慣れている。


 クレーム自体、なにも珍しいものではない。接客態度についてもままあるが、聞いてやるのも馬鹿馬鹿しいような理由で憤慨している人だってたくさん居る。わざわざ家に帰ってから電話を入れるよりは、怒りを覚えたその場で店員相手に言った方が手っ取り早いだろうに。家に帰っても収まらないほどの怒りに「それが理由なの?」と驚くことはしょっちゅうだ。クレームを入れること自体が趣味なのかもしれない。


 クレームくらいで、何を怖じ気づくことがあるだろう。


 沙苗はもはや、同僚たちの雑言にわななくほどの可愛げも、クレームの一つ二つを省みるような殊勝な心も持てないのだ。


 堂々とした足取りで近くを通り過ぎ、沙苗は売り場へと出る扉を開けた。


 そこで、店長と鉢合わせになった。背の高いがっしりとした体躯の男性ではあるが、女性従業員の多い職場だけに、役職の割に立場の低い人畜無害な人だった。


「ああ、岡町さん、ちょっといいかな」


 そう言って、店長は今し方沙苗が出てきた扉を差して、沙苗を促してバックヤードへ戻った。そこで、クレームの件についてが切り出されると、途端、棚の陰の話し声がひそめて笑い合う息づかいに変わったのだった。


 店長は体躯に似合わないおどおどとした態度で、長々と注意した後、「もう何度目かになるし、態度については日頃意識してください」と念を押してから、売り場に戻っていった。


 これしきのことで塞ぐほど繊細ではなかったが、これで、けちが付いたような気がした。そのうえ、一つ上手くいかないと、どんな些細な問題が生じても、まただ、と思ってしまう。結局、一日仕事を終えたときには、今日はついていなかった、不運な一日だった、という評価を下し、気晴らしに良いものでも食べようと思い立った。


 さらに不運なことに、職場を出るその時になって雨が降り出した。幸い天気予報を見て傘は持ってきていたが、思いの外雨脚が強かった。


 沙苗は、免許は持っているのだが、車を持っていない。


 いつも徒歩で職場に来ている。一五分歩けば着く距離なので、さほど苦にはならないが、車を持たないというのは、この地域では珍しい。


 近くの山の展望台から見下ろせば、平野部の半分以上は田園や耕作地だ。その中に、虫食いのように、店や、住宅がある。展望台から見たときにはスケールが小さく見えるが、実際にそこへ行ってみると店から住宅へ、あるいは別の店へ、歩いて移動するのは、距離があるし時間もかかる。重い荷物を持ちながらその距離を、というのは苦痛だ。ゆえに、この辺は車社会なのだ。高校在学中から免許取得のために自動車学校に通うし、社会へ出れば一人一台あって当然と考えられている。


 アパートには駐車場がなく、隣接して月極駐車場があった。他の入居者はここを利用しているが、当然安くない賃料がかかる。傍に生活必需品を買い求めるにはちょうどいいドラッグストアとスーパーがあったので、車を持たないことにしたのだった。


 今日は、少しだけそれを後悔している。


 良いものを食べようにも、飲食店は国道沿いまで出ないと無いので、雨の中、一時間近く歩いて食事をして、また同じだけの時間をかけて帰ってくることになる。さすがにそれは億劫だった。


 沙苗は道中、コンビニで数品の総菜とお菓子を買って、アパートへと向かった。


 アパートの前には公園があって、ここを通り抜けていくのが近道だった。子どもが多い時間帯は迂回するが、日が暮れて、雨も降っているとなると、誰も――。


 ふと、目を留めた。


 ベンチに人影があった。どうやら、傘は差していないようだ。


 日が沈み、刻一刻と闇は深くなる。しかも、空は厚い雲に覆われている。外灯が照らす範囲にないものは、黒い影のようにしか見えない。公園には、ブランコの傍に外灯が一本あるばかり、ベンチに掛けたその誰かの靴の先が、僅かに光を映しているだけだった。身体は、ほとんど見えない。


 おかしな人がいる、そう思った。


 気味が悪かった。よりによって土砂降りの夜に、どうやら項垂れるような格好で座っている。狭い公園なので、ここを突き抜けていくならばベンチの前なり後ろなり通らなければならない。


 なんだか怖いので、迂回するつもりだったが、あまりにその人影が微動だにしないものだから、まさか死んでいるのでは、とさえ思えてきた。


 もしもそうなら、厄介だ。


 不審死体と関わり合いになるのは真っ平ごめんだったが、もし微かにでも息が合って、急な病などで動きたくとも動けないのならば、沙苗は知っていて見捨てた事になってしまう。あとでニュースになったら寝覚めが悪いし、そもそも良心の呵責に耐えきれず眠れないのではないかと思い、前を通って様子だけでも見ることにした。


 近づくと、髪の長い女だということが分かった。


 白い長袖のブラウスを着ていて、黒いスカートと、黒いストッキングを身につけていた。遠目には何処かのオフィスレディのようだったが、ブラウスもスカートもきっと余所行きなのだろう、シンプルながら細部に拘ったデザインが施されているようだった。残念なことに、こんなにも濡れていては、衣服のデザイン云々よりも服が張り付いて浮き彫りになった身体の形しか分からない。


 よく磨かれたエナメルのパンプスを履いているのだが、靴先や踵は、一体どこを歩いてきたのか、泥に汚れている。バッグなどは持っていないようだった。


 沙苗が近づいても、彼女はぴくりともしなかった。


 やはり死んでいるのかもしれない。そんな不安を抱きながら、ベンチの前に立って、沙苗は傘を傾けた。


「あの。大丈夫ですか。何処か、お悪いんですか」


 靴は泥が付いているものの、衣服には汚れた印象はない。髪も、濡れて額に首筋にと張り付いて、どこかおどろおどろしい印象を受けたが、よく手入れされた艶髪のように思えた。浮浪者ではないだろう。


 女は、ゆっくりと顔を上げた。


 窶れ果て、虚ろな目をして、沙苗を見上げた。顔立ちは日本人だったが、その目は琥珀色に輝いていた。こういう色の目を、アンバーと呼ぶんだったか。


 誰かに似ている、と、思った。


 その人はたしか、黒い目をしていたけれど。


 その人はたしか、もっと、柔らかに笑ったけれど。


 誰だっけ、と思い巡らす束の間、沙苗と女は傘の下で視線を合わせていた。人と目を合わせることが苦手な沙苗が、その琥珀色の瞳から、目を逸らせなくなっていた。その目には、感情がまるで無かった。ガラス玉でも見つめているみたいだった。


 その人はたしか、こんな目はしなかった。でも、この目元を、どことなく覚えていた。


 その人は、たしか――。


「――鱗子りんこさん」 


 思い出した拍子に、その名が、口をついて出てきた。


 鱗子であるわけがない。よく似た人だ、と沙苗は思った。しかし、彼女は、沙苗の口から零れた吐息のような呟きを聞いた途端、目が、ガラス玉から人間の目になった気がした。琥珀色の瞳が、揺らめいた。


 言葉にならないような声を上げながら、彼女はびしょ濡れの手で沙苗にしがみついた。


「わたしを知っているの? わたし、鱗子よ。市島鱗子!」


 沙苗に縋り、嗚咽をあげ、肩を震わせながら頭を垂れた。鱗子よ、鱗子よ、と繰り返した。


 雨ではない温かな滴が、沙苗の手に垂れた。


 市島鱗子であるはずがないと思った。


 市島鱗子以外の何者でもないと思った。




 沙苗は、事情を知らぬまま、長雨に晒されて身体を冷やした一人の女性を家に上げた。


「――着替えとタオル、ここに置いておきますから」


 少しだけ、声を張る。


 浴室内のシャワーの音が止んで、「ありがとう、さっちゃん」と返事があった。


 沙苗の住まいは、単身者向けの1DKのアパートだ。玄関を入ってすぐに、台所と、通路を挟んだ位置に浴室とトイレが並んでいる。壁は薄いし広くはないが、一人で生活する分には不便すぎると感じたことはない。


 脱衣場と呼べるようなものはないので、浴室のすぐ外にバスマットを敷いて、その横にタオルと着替えを並べた。それから沙苗は居室の方へ戻って、通路との仕切り戸を久々に閉めた。


 ここに住み始めて、確か五年になる。


 実家からは車で二〇分程度の距離にあるが、盆と正月にしか帰らない。徒歩と公共交通機関に頼って帰るのが億劫だ、と、家族には言っている。本当のことを言えば、家族と過ごすのが億劫なのだ。


 大学を卒業してから、しばらくは家から職場に通っていたのだが、いつしか漠然と、自分の居場所ではないような気がしてきてしまったのだ。家族とは不仲ではないが、居心地はいいとは言えなかった。この手狭なアパートより、窮屈な場所だった。


 沙苗には、友人は少ない。


 この五年で、家に上げたのは、母を除けば鱗子がはじめてだった。


 幼い頃から人前に出ることは大の苦手だったが、長ずるに及んで、人付き合いがそもそも上手くいかなくなった。自分の考えをうまく伝えられず、喜びも怒りも、どのように表情を作っていいのか分からない。こんなだから、他者の沙苗への評価はおよそ、根暗の一言で片付けられた。家に招くほど親しい友人はいない。無神経な同僚たちなど、乞われても入れてやろうとは思わない。


 沙苗は、人を家に入れることには慣れていない。だから、どうして鱗子を家に入れたのか、どうしてそのことに何の抵抗も感じなかったのか、それが少し不思議だった。


 同情したからではある。知らぬ仲ではない人が、行く当てもなく、途方に暮れていて、全く何も手を差し伸べてやらないというのは薄情に過ぎるだろう。しかし。


 気休めにテレビを付けてみたが、まったく内容が入ってこない。色が騒がしく動き回り、音がけたたましく鳴る。映像も音も、ノイズのようにしか感じない。内から沸き起こってくるぞわぞわとした不安感を、そのうえ、やすりで撫で付けられるような心地だ。とても気休めにならないので、他にチャンネルを回すこともなく、テレビの電源を落とした。


 扉の向こうから、微かなシャワー音が聞こえていた。どうにも落ち着かなくて、沙苗は自分の膝を抱いて、かつて鱗子と過ごした日々を思い出そうとしていた。


 しばらくして、引き戸ががらりと開いた。


 入浴を終えた鱗子が、バスタオルで髪を揉みながら居室に入ってくる。


「お風呂ありがとう、さっちゃん」


 ようやくすっかり安堵したという表情を浮かべて、鱗子は言った。


 寝間着として貸したTシャツとショート丈のルームパンツからは、若葉のように瑞々しく、柔らかな四肢が覘いている。陶器を思わせる白さと滑らかさと、完成された娘盛りの美しさ。夏場であっても長袖のブラウスや黒ストッキングを身につけて、肌を晒していた印象のない鱗子だっただけに、いっそう目を惹かれた。


「鱗子さん、来て。髪を乾かしてあげる」


 鏡台からドライヤーをとりだして、所在なさげにしている鱗子を呼び寄せる。


 かつて姉のように慕った鱗子を、今は沙苗が、姉が妹にしてやるように、世話を焼いている。不思議な心地がした。


 湯上がりの肌は熱を持って温かい。頬はほんのりと桜色をしている。髪の先からは既に熱が失われて、ひやりとした滴が、沙苗の膝にも垂れた。


 鱗子の髪は、長い。へそほどまで長さのある髪を、たっぷり時間をかけて乾かしたあと、黒々とした艶髪に櫛を通した。


 髪を梳きながら、沙苗は僅かに既視感を覚えていた。記憶にはないが、こうして髪を梳いた事もあったのだろうか。


 沙苗にとって、鱗子と過ごした記憶というのはひどく曖昧なものだ。鱗子とは確かに一緒に過ごしたが、長らく鱗子は沙苗にとって写真の中に自分と一緒に写っている人物でしかなかった。鱗子の顔を覚えていたのは、折に触れて写真を目にしていためだ。声も、仕草も、記憶にない。鱗子についてを思い出そうとするとき、鱗子の部屋の雑多にして膨大な書籍群や、飲み物を入れて貰ったコップの柄なんかが断片的に浮かび上がってくるばかりで、何をして過ごしたのか、何について話したのか、全く覚えていない。ただ、憧れていた、好きだった、そんな気持ちが今でも沸き起こるのだ。


 髪を梳き終えて沙苗が手を止めると、鱗子は身体ごと振り返って、「ありがとう、さっちゃん」と微笑んだ。


 鱗子の双眸は、日本人離れした琥珀色をしていた。


 これだけは写真と違う。写真の中の鱗子は、黒々とした瞳の持ち主だったはずだ。記憶にもないことだった。


 沙苗は鱗子に聞きたいことが、聞くべきことがたくさんあった。濡れそぼった鱗子を拾い、家に上げ、風呂に入れ、髪を乾かして、はじめ捨て猫のように惑い怯えていた鱗子は、やっと表情が柔らかくなってきたという気がする。聞きたいことを聞くならば今だ。しかし、聞きたいことが、なかなか言葉にならなかった。


 ややあって、鱗子の方から口を開いた。


「わたしに聞きたいこと、山ほどあるでしょう?」


 そして、次いで、その唇が告げた。わたしも、と。


「わたしも、たくさんあるの。どうしてなのか分からないことが、たくさん。……二〇二〇年に、東京でオリンピックをやるんでしょう。公園まで来る途中にね、スポーツセンターの張り紙を見たの」


「うん」


「そんなのって、おかしいわ。だってわたしにとってはね、次の夏季オリンピックはシドニーのはずなんだもの。おかしいでしょう? ……さっちゃんも、そう思うでしょう」


「……うん」


 鱗子は唇を震わせて、吐息混じりの微かな声で「そうよ、とってもおかしい」と呟いた。戸惑っているのではない。言葉よりずっと冷静に、諦観を滲ませた瞳を曇らせていく。その様子が、ひどく痛ましかった。


 夢だと思っていた。


 こんなことは、有り得ないはずだからだ。


 だが、沙苗の眼前には鱗子がいる。二十年前の幼い沙苗と並んで写真に写っていた、二十二歳の鱗子がいる。彼女は、二十年間の月日をすっ飛ばして此処に居て、自分が失った月日に震えていた。


「去年出来たばかりのスポーツセンターが色褪せていて、川には見覚えのない橋が架かっている。わたし、家にも行ったのよ。わたしの家、空き地になってた。お母さんは、わたしの母は、何処へ行ったの? さっちゃんちはあったし、ご近所さんの家はそのままだった。誰かに尋ねようかと思ったけど、わたし、わたし、とっても怖かった。ねえ、お母さんは……」


 鱗子は、沙苗の言葉を待つまでもなく、答えに思い至っているようだった。その上で、沙苗が否と答えることに、一縷の希望を抱いたろうか。沙苗の視線と、鱗子の視線が僅かに交わったその瞬間、鱗子は静かに瞳を伏せた。


「お母さん、もういないのね」


 鱗子は、緩慢に目を瞑り開き、やがて沙苗に視線を移し、柔らかに微笑んで見せた。その唇がわななく。眦がひくつく。


「さっちゃん、大きくなったのね」


「そうよ。もう、鱗子さんより年上みたい」


「おかしいね、ほんと、ほんとに」


 琥珀色の双眸が揺れる。


「わたし、浦島太郎になっちゃったみたい」


 無理に笑って細められた瞳から、珠のような滴が零れていった。




 * *




 市島鱗子、二二歳、学生。


 一九九八年、七月二九日、失踪。




 沙苗にとって、鱗子は姉のような存在だった。


 金沢への一週間ばかりの旅行へ行くと言って家を出たが、一週間を経て、鱗子は戻らず、連絡もなく、これはおかしいと鱗子の母が捜索願を出した。しばらくして、近くの沢へ至る道に不似合いな旅荷物が転がっていたのが警察に届けられた。それは市島鱗子の荷物であると判明したが、どうやら出立したその日のままの荷だろうと思われた。事件性が高いとして周辺の捜索が行われたが、その時には既に、鱗子失踪からひと月が経過していた。


 何の手がかりもないまま月日が過ぎ、やがて捜査は打ち切られたそうだ。


 鱗子の母は、老夫婦を看取った後、自身も病に倒れて間もなく亡くなった。四年前のことだ。葬儀の際は彼女の遠方に住む弟が来て喪主を務めたが、その後、住む人のなくなった家は取り壊されて、空き地になった。


 幼い頃、沙苗は下校すると、市島の家で世話になっていた。沙苗の家には七時頃母親が仕事から帰るまで大人がいなかったので、母親が帰るまでの間、市島の家に身を寄せていた。母の帰りがさらに遅い時には、夕食を御馳走になることもあった。面倒を見てくれるのは鱗子であり、鱗子の母であった。


 当時、市島家は、祖父母、母、鱗子の四人暮らしで、父親は既に亡かった。鱗子は大学生だったが、沙苗が学校から帰ってくる時間にはいつも家にいた気がする。子供心にも分かる美人で、そのうえ博識だった鱗子に、沙苗は強い憧れを抱いていた。


 鱗子失踪以後は迷惑が掛かるだろうからと、学校に居残ったり、図書館に通ったり、様々だったが、市島家とは疎遠になってしまった。久々に鱗子の母を目にしたのは、お棺の中に横たわった姿だった。鱗子の母は、やはり写真の中の鱗子にどことなく似た雰囲気はあったが、痩せこけて、年齢よりもさらに老いて見えた。


 子どもだった沙苗に、大人たちは事の経過をつぶさに語って聞かせたわけではない。沙苗は、鱗子が失踪したというただ一点のみを漠然と、しかし衝撃をもって記憶していた。それを補完したのは、葬儀の場だ。親戚たちはアルバムを開いては、故人と、行方知れずになった鱗子の事を語った。そして、鱗子についても、既にこの世に亡い人のように言った。


 無理もない話だろう。


 鱗子失踪について、子どもの頃には聞かなかった話を耳にし、家にあったアルバムを開いたこともあった。小学生だった沙苗と一緒に映っていて、互いに打ち解けた表情をしていた。本当の姉妹のように過ごしていたのだろう。けれど、日を追うごとに、市島鱗子という存在は過去のものとなり、最近はめっきり思い出すこともなかった。 


 それが、こんな形で再会することになろうとは思いもよらなかった。


 二十年前の姿で、二十年前からひょっこり現れた鱗子。


 誰もそんなことを信じはしないだろう。


 彼女の母の葬儀の時にいた親戚たちの連絡先は、おそらく沙苗の母ならば知っているだろうと鱗子には伝えたが、鱗子は親戚には連絡したくない様子だった。始めは動揺していた鱗子だったが、自分が何かの間違いで二十年後の今にまろび出てしまったことを理解した今、鱗子は市島鱗子として騒がれるよりは、誰でもない人間として生きることを望んでいた。




 鱗子と住まうようになって一週間が過ぎると、鱗子は沙苗の部屋から一歩も出ずに、二十年間の認識の差の大部分を埋めていた。


 沙苗が仕事で不在の日中、沙苗のパソコンを自由に使えるように扱いを教えた。始めはマウスを握ったことすらなく、「機械に疎いから……」と困ったように言っていた鱗子が、僅か一週間で料理のレシピを調べたり、鱗子のスマートフォン宛てにメールを送ったりするようになっていた。


 平日は家事全般を鱗子がしてくれているのだが、夕食の材料に足りないものがあると、帰りに買ってきて欲しいという旨のメールがくる。


 退勤後、ロッカールームで帰り支度をしてから確認すると、


『さっちゃんへ。


 今日はカレーにしようと思うので、カレールーを買ってきてね。福神漬けもよろしく』


 と、メールが来ていた。文末には、いつ覚えたのか顔文字まで添えられている。それを見て、思わず顔がほころんだ。


「――アッ、おつかれさまですー」


「おつかれさまですー」


 同じ時間に退勤する何人かの従業員が、談笑しながらロッカールームに入ってきた。おつかれさまです、と、沙苗も挨拶を交わし、荷物を纏めて出て行こうとすると、その中の一人が沙苗を呼び止めた。


「岡町さん」


 高橋という、はきはきした快活な女性で、人当たりがいいので客からも好かれていた。年齢は沙苗と同じくらいで、同じ年に採用されたため、年上の従業員たちからはよく真逆だとからかわれている。そのため、彼女に対して不快だと思ったことはないが、彼女と、他の従業員がいるときには、あまり一緒に居たくなかった。


「今日、これから加藤さんの歓迎会ですけど、よかったら参加されませんか。コースじゃないので、飛び入りも大歓迎です」


 その話は知っている。


 従業員の情報共有用ノートに書いてあったし、参加者はそこにサインしてと書かれていた。参加する意思がないのでサインしなかっただけだ。


 沙苗は飲み会らしいものには参加したことがない。一度断ってしまうと、なんだか参加しないのが当然のように思っていた。わざわざ訊ねてくれたのは、沙苗を気遣ってくれたからなのだろうが、そもそも酒の席の空気は苦手だ。


「すみませんが、今、ルームメイトがいて」


 沙苗が返答すると、一緒に居た別の従業員、田中が「カレシですかァ」と言って茶化した。


 沙苗は、田中のことが好きではなかった。


 年齢も勤続年数も沙苗の方が上なのに、沙苗のことを下に見た口を利く。コミュニケーションとしての枠を超えているというか、彼女自身、思っていることが言葉に滲み出ていることに気づいていない節がある。


「違います、女性です」


「じゃあ、カノジョさんだ」


 言って、田中は品のない笑い声を上げた。嫌な気分だった。


 高橋が眉を顰めて田中の方を見たが、意にも介さず笑っている。


「そういうのじゃないです」


 悪いとは少しも思っていないのだろう。


 女というのは大抵、色恋の噂話が好きで、特に醜聞ともなると大いに興奮するものだ。此処ではいろいろな年代の女性が働いているが、老いも若きも変わらない。中には、当人を前にずかずかとそういった話題に踏み込む人、そして、そんな話をしているわけではないのに、すべて色恋沙汰につなげようとする人がいる。田中に限らず、そういう人は苦手だし、沙苗に関係ないところだったとしても、人の醜聞で盛り上がっているのを見るのは不愉快だった。


 たとえ前日の昼食時間に楽しそうに談笑していた相手についてでも、愉快な話題があれば別の従業員と盛り上がる。そこには、相手に悪いと思うような気持ちは微塵もないのだろうな、と見ていて思う。語られる側がその噂を聞いてどう思うかなど関係なくて、語る側が愉快ならそれでよいのだ。そして、次の日には、また当の相手と昼食を共にし、心の底から分かり合った友のように笑い合う。


 もちろん、そんな人ばかりではない。


 高橋はなんかは、女の例に漏れず、やはり噂話などは好きなようだが、あまりに品のない醜聞で盛り上がっているのを付き合いで聞かされているとき、なんだか居たたまれないような表情をしているのを見る。それが人を害しているかもしれないということに思い至れる人間だが、人付き合いに縛られてそこから離れられないでいる。難儀だと思う。


 明日には、きっと沙苗のルームメイトが面白おかしく語られるのだ。性別も、年齢も、美醜も、様々に姿を変えて、妄想のままに盛り上がるに違いない。


 沙苗は、彼女たちを口だけが達者な愚かな生き物だと思う。女のこういった一面を嫌悪している。


 しかし、彼女たちは沙苗にない、女性としての幸福と安定を持っていた。あんな愚かな人たちが世間的にまともで、何の取り柄もない沙苗は一段劣った人間として見られている――そんな劣等感を抱いていた。


 だから、自分が一番嫌いなのだ。普段は、考えないようにしているだけ。


 一緒にいると、どんどんと内側から自分を嘲弄する言葉が溢れ出てきた。


「お先に失礼します。お疲れ様でした」


 言って、沙苗は足早にロッカー室を出た。背中に「お疲れ様でした」「でしたー」と、声だけの挨拶を浴びた。




 鱗子に頼まれた通り、スーパーに立ち寄ってカレールーと福神漬けを買ってからアパートへ帰った。


 アパートの外側にある階段を上り、いくつかの部屋の前を通り過ぎる。扉の前に小窓があって、それを開けている人が多いのか、そこら中からいい匂いがしている。何処かの部屋からは揚げ物の匂いがする。


 自分の部屋の前からも、食欲をそそる香りがした。


 呼び鈴を鳴らすと、すぐにドアが開いた。


「おかえり、さっちゃん」


「ただいま、鱗子さん」


 鍋が蒸気を噴いている。炊飯器からも炊きあがるご飯の匂いが立ち上っている。フライパンでは、作りかけの野菜炒めが油とタレと絡まりながら、激しく音を立てている。


 くたくたになって仕事から帰ってきたときに、誰かが食事を用意してくれている。そんな光景が、今では当たり前になっている。なんだか嬉しくなって、ドアの前に立ったままキッチンを眺めていると、それを見た鱗子が黒目を細めてふっと笑った。


「さっちゃん、そんなところに立っていないで、早く入ったら。さっちゃんの家なんだから」


「あっ、うん」


 沙苗は鱗子に買い物袋を手渡し、靴を脱いで上がった。


 ルーは、甘口と中辛を一箱ずつ買ってきた。二人で数食分食べる量なら、二箱分は要らないのだが、鱗子の辛さの好みが分からなかった。沙苗は甘口が好きだったが、実家ではもうちょっと辛い方がいいという意見が多数派で、いつも中辛を食べさせられたものだった。


 手渡した袋を覘いた鱗子は、甘口の箱をとって笑った。


「さっちゃん、昔は甘口が好きだったの、覚えてる?」


 鱗子にとっては、ほんのこの前の記憶だ。市島の家ではきっと、小さな来訪者である沙苗の口に合わせて料理を作ってくれていたのだろう。


「今でもだよ」


「じゃあ、なんで中辛買ってきたの?」


「鱗子さんが辛いの好きかなって」


「気を遣ってくれたの? いいのに。優しい子ね。わたしも辛いのあまり好きじゃないから、甘口だけでよかったの。もったいないからちょっと混ぜる?」


「うん」


 自分のことを理解してくれている人がいる。


 それが嬉しくて、喜ばしくて、うきうきとしてしまう。


 この人は何も変わっていない。いつまでも、沙苗にとって鱗子はおねえさんのままだ。たとえ、沙苗が幾つになっていても、鱗子と沙苗の関係は姉と妹のような関係で在り続ける。


 沙苗がまるで汚濁のように感じ続ける人間関係のしがらみも、この部屋の中にまでは入ってこない。この部屋の中は、二十年前の二人が過ごした部屋に立ち戻っているのだから。


「もうすぐできるからね。さっちゃん、疲れてるとこ悪いけど、食器を拭いてくれる?」


「うん」


 水道で手を洗ってから、布巾をとって水切り籠の中に溜まっていた食器に手を伸ばした。


 鱗子が身の振り方を考えるしばらくの間、ここに鱗子を住まわせることにした。入所の時に規定にはなかったので、駄目で元々、と、ルームシェアについて大家さんに聞いてみたところ、他の住人の迷惑にならなければ良いという許可を貰えた。


 沙苗の給料は多くはない。


 だが、一週間暮らしてみて、切り詰めていけば鱗子を養うことは不可能ではないと思い始めていた。鱗子は沙苗の金銭事情を把握して、食材を無駄なく管理して食事を作ってくれている。出来合いの品を買ってくることが減った分を考えると、二人分の食事をつくってはいるが、食費は倍というほどに増えたわけではない。


 鱗子と一緒なら、二人で暮らすことも不可能なことではない。沙苗はそう思えた。


 鱗子の横顔に目をやる。窓から差した西日が、鱗子の顔へと掛かっている。


「どうしたの、さっちゃん。手が止まってる」


「鱗子さんに見とれてたの。鱗子さん、綺麗だから」


「うふふ、さっちゃんたら」


 鱗子さんの瞳の色が、斜陽を取り込んだように輝き始めた。日没の時間帯になると、鱗子の目は黒から琥珀色に変わるのだった。




 食事を済ませて片付けも終えると、鱗子は沙苗の書架から本をとって、それを広げながら窓辺に座った。月を見ている。本を読む時間より、月を見上げている時間が長かった。


 鱗子は本を読むのが好きだった。


 それは、沙苗が鱗子について覚えている幼少期の数少ない記憶だ。


 鱗子の部屋には、とにかくたくさんの本があって、沙苗も一緒になって本を読んだ。沙苗が本を好きになったのは、きっと鱗子の影響を受けたからだろう。読んでも読んでも読み尽くせないほどの本に囲まれて、時には鱗子の本を借りて、家に持ち帰って読み、その感想を鱗子に伝えたりした。


 当時小学生だった沙苗が、その本に書かれたことの意図を何処まで理解出来ていたかは分からないが、沙苗がどんな感想を言っても、鱗子は微笑んで頷いてくれた。そして、自分の書架から本を選んで、今度はこれはどう、と言って貸してくれた。


 鱗子は、沙苗の書架を見て、読んだことがない本がいっぱいあると言って喜んでくれたが、かなり緩やかなペースで読んでいる。本を開くものの、なんだか集中できない様子で、頻りに月を見上げるのだった。


 月を見上げるとき、鱗子はどこか不安そうな顔をした。


 それなのに、見ずにいられない、どうしても気になってしまう、そんな様子なのだ。窓辺に座らなければいいのに、と思うのだが、月の見える時間は必ずそこに座った。


「月が気になる?」


 訊ねると、鱗子は困ったように笑った。


「落ちやしないかと思って」


「大丈夫、落ちたりなんかしないわ」


「そうね」


 鱗子は、そしてまた月を見上げた。


 しばらくしてから、沙苗は鱗子に日曜の予定を切り出した。


「日曜日、ショッピングモールに行こうと思って。鱗子さん、どうかな。鱗子さん、ネットで服の画像とか見てたでしょう? きっと目新しいものがあると思うの」


 一週間、鱗子はこのアパートから一歩も外へ出ていなかった。 沙苗がたまにはスーパーやドラッグストアで手に入る以外の物を眺めたかったということもあるが、鱗子のことが気懸かりだった。こんな娯楽の少ない狭い部屋に閉じこもっていたのでは、だんだんと気が鬱屈するのではないかと心配にも思っていたのだ。スペアキーを渡してあるので、日中に外出しようと思えば出来るのだが、一人は不安だから外に出たくないのだと鱗子は言う。結構な両の食材が買い溜めしてあったので、日々のお遣いメールで食材も事足りていた。


 鱗子は不満など漏らしたことはないし、ネットで画像や通販サイトを眺めたりしているようではあったが、食材以外のことで何が欲しいと言ったことも、何処へ行きたいと言うこともなかった。


 沙苗と一緒なら、あるいは外へ出る気にもなるかもしれないと誘ったのだが、鱗子の顔は浮かなかった。


「さっちゃん、ごめんね。わたし、外が恐いの」


 鱗子はもう一度、ぽつりと「ごめんね」と繰り返した。


「いいの。気にしないで」


 外へ出るのが恐い。


 その言葉に、沙苗はほんの少しの安堵を感じていた。


 恐いのなら、鱗子は何処へ行ってしまうこともないはずだ。沙苗を一人にすることもない。だから、ずっと、守ってあげようと沙苗は思った。




 * *




 眠る鱗子の横顔が、白く浮き立っていた。


 窓から差し込む月明かりのために、普段より室内が鮮明に見えている。


 鱗子は眠っている。身体が呼吸に合わせて僅かに動く。


 柔らかな頬、華奢な首筋、Tシャツの隙間から覗く柔らかな肉の谷間。月が太陽の光によって美しい姿を現すように、月光を浴びたシルクのような肌は夜に映えた。


 肌の隆起の陰、鎖骨から乳房の膨らみへと視線を移すと、シルクの肌に、僅かな瑕を見つけた。編み目のような小さな瑕。微細な隆起の羅列。それはまるで、白い蛇ののたうつような。


 沙苗はおそるおそる手を伸ばし、気づけばそれに触れていた。鱗子の神秘を見たのだ。


「――さっちゃん、ねむりなさい」


 金色の瞳が、ガラス玉のように見えた。


 この目の色が変わる秘密についても、まだ鱗子に訊ねたことはない。


 社会人になってしばらくして、大人になったと実感した。


 以来、辛いことは数え切れない。でも、鱗子と再会した日から、沙苗の生活は変わった。鱗子の存在は沙苗の生きがいになった。唯一の癒やしになった。鱗子の居ない虚無にはもう戻れないとさえ思う。


 それでも、抗えないものはある。


 鱗子の胸には、神秘に蓋する鱗があって。


 それは何よりも、美しい光を放っていたのだから。


「鱗子さん、ずっと竜宮城にでも行ってたの?」


 鱗子の指が沙苗の目蓋に触れた。その手のひらが視界を覆い隠す。


 吐息が告げた。


「そうよ」




 * *




 陽炎のような、水面に浮かぶ月のような。


 それは、うたかたの夢。




 真夜中に、ふと、眠りから醒めた。


 何か幸福な夢を見ていたはずなのに、醒めた瞬間、それをすっかり忘れてしまっている。漠然とした幸福感の名残が、頭の片隅にこびり付いていた。それを忘れてしまったがために、今となってはじわじわとした喪失感を感じ始めている。


 傍らの布団には、向こうを向いて横たわった鱗子がいる。


 沙苗はそっと置きだして、水を飲みに寝床を出た。


 明るい夜だった。


 月明かりの青白い光が窓から差して、暗い室内にもぼんやりとした明るさをもたらしている。未だ月も高いのに、夜明け前の明るさにも似ていた。


 台所へ行って水を飲んで戻ると、物音に目が覚めたのか、鱗子も身を起こしていた。目が合うと、鱗子はふっと笑った。


「ごめんなさい、起こしちゃった?」


「なんだか眠れなくて」


 目映い月明かりが、部屋の薄闇に注ぎ、窓の形だけ白く切り抜いている。その白く切り抜かれた中に、布団から抜け出して座った鱗子の姿がある。鱗子の異様なほどに白い肌が、余計に白く浮き立って見えた。


 灯りがなくても、お互いの顔がよく見えた。


 鱗子の琥珀色の瞳が、まるで宝石のようだった。


「ねえ、さっちゃん」


 どことなく心細そうな顔をして、鱗子が呼ぶ。


「もし」


 鱗子は言い淀む。


 膝をつき合わせ、向かい合う。


 美しい人だった。


 くすんだ石ではなくて、磨き上げられた珠のような人だった。変わらない美しさを持っているのに、その珠は既に真円ではなく歪な形に変わってしまっている。今や彼女には、人と呼ぶのを躊躇うほどの瑕がある。


 ひどく惜しい気持ちになる。


「どうしたの、鱗子さん」


 言葉を促すと、ややあって、鱗子はようやく口を開いた。


「もしも、わたしがいなくなったら、さっちゃんは寂しい?」


「寂しい。とっても、とっても……」


 沙苗は、その日が来るのを恐れ、震えている。


 そんな日など来なければいいと、祈っている。


 鱗子の慈愛に包まれるとき、沙苗はこのうえなく満たされていた。その幸福を失って、今さらどのように生きれば良いのだろう。


「何処へも行かないで」


 乞い、願う。


 すると鱗子は答えた。


「いつか、何処かへ行かなくてはならない日が来るわ」


 その言葉は、これっぽっちも、突き放すような冷淡さを含んでいない。温かで優しくて柔らかで、それなのにどうしてだろう、こんなにも苦しいのは。


「何処かって、何処?」


「さっちゃんの知らないところ」


 それから、鱗子は寂しげに笑って、囁くように言った。


「竜宮城よ」


 その言葉の意図を、沙苗には理解出来なかった。ただ、自分の知らないところへ行ってしまうのは、嫌だった。


 沙苗は、この部屋からすら、鱗子を外へ出したくなかった。鱗子と出会って以来、鱗子と居る喜びを感じると共に、自分の中の醜さが芽吹こうとしているのを感じていた。鱗子を独占するためなら、平然として、鱗子の孤独を願ってしまえる自分が居る。


 そんな怪物のような心さえ、鱗子が去ってしまえば霧消するような他愛ないものなのだ。出来ることは一つしか無い。


「わたしを、一人にしないで」


 ただ、縋る。それだけのこと。


 鱗子の手が、沙苗の頬に触れる。


 その手は、冷たくて、固い。温かだった柔肌が、今となっては見る影もなかった。形はひとのそれだが、表皮は白蛇のようだった。異様な程の白さと、無数に浮かぶ鱗模様。


 鱗子に一体何が起きたのか、それは沙苗にも分からないことだ。聞いても答えず、答えないことをさらに問うほど、沙苗は踏み込めずにいる。ただ、鱗子はだんだんと異形へと姿を変えていく。徐々に、皮膚を覆う鱗の面積が大きくなる。


 頬に触れた鱗子の右手を、沙苗は手の平で包み込んだ。


 何処かへなんて、行けはしない。


 鱗子を受け入れられるのは、沙苗以外にいないのだ。


 沙苗しか、市島鱗子が生きていることを知らない。誰に伝えることも、鱗子自身が拒んだのだ。鱗子が市島鱗子その人であるということが、鱗子の暮らしを脅かすのならば、いっそ誰でもない女でいたい、と。だから、沙苗しか知らない。この人のことも、この人がこんな姿に成り果てたことも。


「何処へも行かなくていいの、鱗子さん。鱗子さんの面倒は、わたしがずっと見てあげる」


 だから、ずっと、傍に居てほしい。


 沙苗は鱗子がたとえどんな姿になっても、見放したりはしない。だから、そのかわり、沙苗を見放さないでほしい。ただそれだけなのだ。


 鱗子は沈黙した。


 慈愛に満ちた瞳が、その琥珀色の輝きが、沙苗を見つめていた。視線が交わり、やがて、目蓋が琥珀色の瞳を覆い隠した。長い睫毛が揺れている。


「変なこと言い出してごめんね、さっちゃん。ええ、何処へも行かないわ」


 優しい声が、沙苗に告げた。


 確かに、沙苗はその声を聞いて、安堵した。


 鱗子の右手は沙苗の頬に添えられたそのままに、左腕で沙苗の身体を抱いた。


 鱗子の身体は月明かりを受けて光放つようだった。


 その肌に、ふっと視線を落としたその時、異形の鱗に変質した表皮が、泡だった。


 ふつ、ふつ、――一つ二つ、泡が立つのを、沙苗は唖然と眺めていた。スローモーションのように、泡の質感までしかと見ていた。それは、水の中にたつ気泡に似て、澄んでいて、不快な気はしなかった。


 そこからは、あっという間だった。


 数多無数の泡が立って鱗子の身体を包んだかと思うと、鱗子の形をした泡を残して、忽然と、触れていた質感が手の平から消えた。泡は溶け、鱗子は跡形もなく、始めからいなかった者のように消えた。

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