196.-Case三郎-魔滅
だがそんなことはどうでも良かった。
他のことに気を取られている場合ではない。
自分の為すべきことを為すだけでいっぱいいっぱいなのだから。
僕はようやく鬼の背面に辿り着く。
背後を取ってわかる。
冗談みたいに背高でバカみたいに広く黒い背中。
恐怖で頭がクラクラしてくる。
鬼が背を丸める。
その一瞬をついて、後ろから飛びかかる。
恐怖で硬直しなかったのが救いだ。立て続けの異常事態に脳の危機回避の回路が麻痺してしまっているのかも。
鬼の太ももに後ろから手をかけてよじのぼる。
あまりに太い脚で木登りをしている気分になる。
「うわっ……うわわ! なんだこれ!」
鬼の体表面は何かに濡れていた。
ヌルヌルしている。汗?
油ほどに滑らず油以上に粘性の高い液体。おそらく黒く濁ったタール状。
ただでさえ暴れる鬼にしがみつくのは困難を窮めた。
振り落とされないようにするだけで精一杯だ。
しかし生理的嫌悪に集中を乱すべきではない。
筋肉の凹凸を手で探りボルダリングのようにして足をかける。
鬼の体はあちこち盛り上がっており掴む場所に事欠かない。
触ってみて分かるが、明らかに人間の筋肉とは異なっていた。
本来膨らまないべき場所に隆起がある。
骨格からして人型であっても人間と違っている。
また石のように硬い。
脈動し熱を持っているから肉と分かるが、弾力がほとんどなくてカチカチだった。
大型哺乳類でもこんな硬さは持ち得ない。
背中から這い上がり、首に手を回してかぶりつく。
鬼がこちらに気付いた様子はなかった。
なんとか目的のところまで上り詰めた。
さほど身体能力が高くない僕が、鬼の暴れる体とぬるぬるの体表面を振り落とされずに上れたのは随分と不思議ではあった。
幸いにも僕が掴みかかったことを鬼は知覚していない。
依然として結城との格闘に集中している。
巨体と怪力ゆえに、多少重量が加わったところで重さを感じないのか。
「あーちゃん! 早くして! こっちももう限界!」
なんとかしろ、そう言われた。
鬼をなんとかする、つまり戦意喪失させろと。
倒す、逃げさせる、拘束する、気絶させる、元の三郎に戻すなど。
いずれも現実的ではない。倒すのも気絶させるのも殺すのも無理だ。
と言うより実行方法が分からない。
如何なる損傷を与えればこの巨大な異形を打ち取れるというのか。
それが出来ないから今まで逃げていたのだ。
ただ、何も思いつかなかった訳でもなかった。
三郎の弱点、せめて苦手な物。
今用意できる中で唯一のそれっぽい物。
社務所で彼に渡そうとして断られた物。
甘納豆。豆だった。魔滅だった。
豆は退魔の食べ物。
鬼は外、福は内なのだ。
これしかなかった。
他に可能性のありそうな物がなかった。
効くかどうかなど知らない。
それでもやらないよりはマシだ。
「三郎! あーんしてくれ!」
などと間の抜けた要求を叫んだ。
鬼に僕の声が届いたかは定かでない。
それだけ錯乱していた。
僕は懐から残りの甘納豆の小袋2つを取り出す。
包み紙を破っている余裕はない。
片手で鬼の首根っこにしがみついているだけでは振り落とされるのも時間の問題だったからだ。
手を前に回して小袋を鬼の口に放り込む。
虎にも似た、鋭く長い牙が生え揃った口腔。
上に6本、下に8本。噛み合わせなどまるで無視していた。
食いつかれたらひとたまりもない。
まさに鬼一口。
小袋の1つは目測を外れた。
牙にぶつかって阻まれあらぬ方向へ落下する。
2つ目が口に入る。
紅い舌べろをバウンドし、奈落のように真っ暗な喉を転がり落ちていった。
喉を鳴らすでもなく、すっぽりと胃に落ちていった。
食べたことにも気づかない。
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