187.-Case三郎-心中

「や……やめなよ、そんなに引っ掻いたら痛いだろう?」


 僕は忠告するも、掻き続ける手を掴んで止めるまで出来ない。

 あまりに真に迫っている彼の形相は、とても正気とは言えなかった。

 ありていに言ってしまえば、常軌を逸した様が怖くて手が出せない。


「見てくれだってがんばった! 性格だって変えた! あーくんの好みに寄せたじゃないか!」


 三郎は確実に何かを誤解している。

 外見のみに言及するなら、彼の容姿は僕の趣味から外れている。悪いという意味ではない。

 どこでそう思った。

 あるいは思い込んだ?

 異性に対する好みを誰かに喋った記憶もない。

 なにか、彼の中で僕への妄執が膨らんで誤解を生んでいるのではないか。


「気に入られたくて必死で! 昔の自分を殺そうと努力して! それでも駄目だって言うのかよ!」


 三郎が外見を変えた理由の一つ。

 もしかして鬼三郎の過去を捨てたかったのか。

 原形とは似ても似つかぬ格好をして、僕に近づく理由の一つとしても、忌まわしい昔の自分をなかったことにしたかった。

 架空のさーやという社会人格を作り出した。


 女装の理由は繋がる。

 その痕跡は今日1日の中でも散見された。


 ……彼が鬼三郎であった過去は消えない。

 決してなかったことにはならない。

 今なお街中に破壊の痕跡が残っている。チンピラ達との抗争で凸凹になった河川敷、根元から抜き取られた電柱、ゲームセンターに改装されたヤクザの事務所。

 僕らの記憶の深い場所にも爪痕が刻まれていた。


 見た目と上っ面を変えただけで、鬼三郎の存在性はなくならない。

 それだけ彼は濃密なのだ。

 リアルな恐怖心が伝播する都市伝説の鬼。


 だが彼本人に自浄の意思があるのなら、鬼三郎を封印することだって可能だろう。

 彼が自ら作り出したさーやという第二人格。

 今は上辺だけかもしれないが、本気でそれを三郎の主人格だと信じ込めるのなら、いつか鬼三郎ではない人生だって歩める。

 性格など、しょせんは人間の意識1つによる。


「さーや……恋人が無理でも、友人からなら始められるよ。時間はかかるだろうけど、君が”普通”を望むなら、僕も協力する……さーや?」


 三郎が顔を上げる。

 口元に小さく微笑を浮かべていた。

 笑っているのではないことは明確だった。

 瞳の奥が澱んで濁っている。

 泥のような焔が揺らめいていた。


「……いらねーよ」


 引きつった笑い声と共に、三郎の口からボソリと漏れた。


「……え」


 端の下がった眉。緊張の解けた顔筋。

 一見、穏やかに諦めた表情だが冷静ではない。

 何かの線が一本、切れてしまっていた。


「お情けの付き合いなんか……要るか。あたしは、あーくんが欲しかったんだ。友人でも家族でもない。あーくんの一番近い隣が……さ……」


 非存在の曼珠沙華畑が存在しない風に波打つ。

 ちぎれた花弁が下から宙を舞う。

 赤黒紫の煙が渦を巻いた。


 三郎の胸の辺りから、ドロっとしたヘドロのような液体が漏れ出す。

 粘性が高く、少しずつ腰へと垂れていき、ぼとっと地面に落下した。

 何か、非常に良くない物だと直感した。


「あーくんの隣がそこにいるそいつになるってんだったら、もう……ままごとの関係なんか、いらない!!」


 吐き捨てるような言葉は結城に向けられたものだった。

 彼がすっと後ろから僕の横に移動した。


 三郎がほんの少しだけ足を横に開く。

 たったそれだけのことで、背筋を感じたことのないビリビリとした寒気が走り抜けていった。

 まるで冷たい電気を流されたようだった。


「さぶ……」


 呼びかけようとして、喉が詰まる。

 ひりつく痛い圧迫が三郎から発せされている。

 喉元に刃物を突きつけられるような、霊感などなくても感じ取れる凄まじい殺気。


「ここで一緒に死んでくれ!」

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