181.-挿話-根源愛
手をパンと叩いてわざとらしい音を鳴らす。
全員がひととき口を閉じ、こちらを注視した。
「みなさん、恋愛経験はおありですか?」
主婦が白々しい目を向けてくる。
しかしその奥にほんの僅かに燃える好奇心を見逃さない。
「それは今この場で必要な話なのですか?」
アビゲイルはハッキリとした口調で答えた。
自信満々に。
「いいえ、まったく。初恋、馴れ初め、あるいは今現在の恋愛事情。みなさんはいかがです?」
停止する時間。凍る空気。
全員の表情が固まった。
だが誰ともなしにふっとついた一息をきっかけに、それまでの冷徹な仮面が嘘のように剥がれ落ちる。
柔らかく破顔した。
「恋模様ですか。照れますね。いやいや、私は妻を愛してますから声を大にしては言えませんけれどね、これでも昔は中々どうして多くの恋をしてきたもので……」
「私は初恋が旦那ですから、語るなら馴れ初めからですね。お互い会社の同僚で、当時上司だった私が仕事を通して……」
「私! 私! 私に言わせて! ちょうど近所で気になっている子がいるの! 昨日ちょっと挨拶できたんだけどね……」
「この前知り合ったパン屋の娘がさ、俺に気があるらしいのよ。今度デートでもって話なんだけど、金ないんだよね。誰か貸してくんない? 相手に払わせるのも悪いしさぁ……」
「ちょっと! 口々に勝手に発言しないで。長話になるなら順番を決めないと。まず私からでしょう……」
「なんでよ! 私の方が接触機会が少なくて話す内容が少ないのだから、私が話し終わってからにして!」
「いや、君はお喋りだ。1つのことを100で語るじゃないか。それに年長者の話の方が有意義だとは思わないかね? 長年の知識と経験に裏付けされた重厚な人生観は学ぶべきところが多いだろう。ほら、私からじゃないか」
「年功序列なんて古臭いぜ。そんなに話したければ棺桶に入ってからお釈迦様にでも聞いてもらえよ」
目の色を変えて我先に自分の身の上を語りたがる彼ら。
恋は万人共通の話題。
どんな人生を歩もうとも、自分の色恋に自己観のない者など存在しない。
だから誰もが話したがる。
恋とは時代普遍の物語。
人の数だけ出会いと別れがある。年齢も住処も分け隔てがない。
そして愛はさらに根源に根付いた本質だ。
人の精神のさらに奥、幾世代も繋がれた生物生命願望を支える中核となる概念である。
いかに人ならざるモノに、人を超越しようとも、根幹である本能から逃れる術はない。
もっとも、彼らの食いつきっぷりは異常であり、人間らしさの過剰な純粋を投影しすぎているとも言える。
まったくの演技ではないにしろ、人という像そのものに入れ込み過ぎだ。
冷徹にして純粋。
それこそがS・アビゲイル”ら”の底知れぬ探究心の原動なのだろう。
ここは意識の加速された共有超思考空間。
終わらぬ恋バナが数万年間されようとも、現実の実時間ではマイクロ秒にも満たない。
我々に時間は馬鹿げたほど余っていた。
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