179.-挿話-クロストーク

 高原境総合医療センターの20時を回った夜の廊下は静まり返っていた。

 いまだ入院病棟は起きた患者ばかりだろうし、夜勤の看護師も待機している。

 だが本棟は消灯時間を過ぎて明かりが落ちている。

 今活動しているのは救急外来の受付と担当医、それと夜間警備員くらいだ。


 ピカピカに磨かれたウレタン樹脂の床を歩くハイヒールの踵が、静寂を遠くまで響いていく。足音がカツンカツンと。

 点在する避難口標識の頼りない緑色と窓から差し込む月明かりだけが光源だった。

 清潔で飾り気のなさが、逆におどろおどろしさを醸し出している。

 「高原境総合医療センターの廊下に落ち武者の霊が出る」の噂を色濃く信憑性を増させていた。


 S・アビゲイルは幽霊の存在に肯定的だった。

 テレビでホラー番組が放送されていれば最後まで観てしまう。

 コンビニの書籍棚にオカルト雑誌が置かれていれば手に取ってしまい、買うことも稀にある。

 それらは娯楽としての超常現象を楽しむが故である。


 生まれてから自身の周囲に存在するあらゆる情報に、死後やエクトプラズムの陰が散見される。

 メディアは人の訃報を、身近な者の葬式を、加齢による肉体の衰えさえいずれ訪れる死を予感させずにはいられない。

 もはやある種の宗教としてすら、漠然とした死とその後のビジョンが人の認知にこびり付いている。

 一概に非科学的と蹴り飛ばすには、世の中には不透明な真実が多すぎるのだ。


 まぁ、だからといって病院の廊下に幽霊が出る、なんて思わない。

 病院という場で、いったい何人の人間が生き死にしているか。

 無念を抱いて死んだ人間が化けて出るのなら、この廊下は亡霊の大群で埋まってしまっている。

 落ち武者、というのも如何にもサブカルチャーから得た知識が恐怖を形にしたようではないか。


 ふいに、前方から1人の看護師が小走りで駆けてきた。

 入院棟からも救急外来からも外からも、用事で行き来する為にこの本棟の廊下を通る必要はない。

 何か忘れ物でもしたのかも。


 彼女は歩いているアビゲイルを見つけてギョッとした。

 こんな時間の廊下に女医がいるはずがないと思っていたからだ。


 アビゲイルはふっと優しげな笑みを浮かべ、通り過ぎる彼女の肩をポンと叩く。


「おつかれさま」


「え………………あ、はい……お疲れ様、です」


 首を傾げたものの、看護師はアビゲイルを忘れ先を急いでいった。


 暗い廊下を進み、やがて脳神経外科の外来受付付近まで来る。

 この辺でいいか。

 別に場所などどこでも良いのだが、定まったところの方が集中しやすい。


 白衣のポケットに左手を入れる。

 そこには何も入っていない。

 いや、ある。

 あると信じる。


 ポケットの中で小さく中指を動かす。

 終脳に発生したわずか10HZの活動電位。

 脳内を走るインパルス伝導中に無数の乱反射を繰り返させて増幅する。

 シグナル熱がニューロンを焼き尽くさないようにゴルジ染色で数垓に分解しつつ誘導する。

 膨大になった脳波エネルギーを手に集中した。


 その時、アビゲイルの左手に非存在の鍵が握られていた。

 レセプターさえだまくらかして作り上げた意識体の鍵だ。


「ガチャリ」


 見えない鍵を見えない鍵穴に差し込む。

 目の前で超認識の扉が開かれる。

 足を踏み出し、分離したアストラルが現実との境界線を跨いだ。

 全身を微弱な電流が走った。


 白い部屋。

 何もない、地平線の果てまで続く真っ白な部屋だ。

 殺風景で何の色香もない代わりに精神を空白の安定へと導く。


 テーブルもない真っ只中に、13の椅子が円形に配置されている。

 椅子は黒い。

 足先は丸く、背もたれにローリエ葉の彫り込みがされている。

 無装飾のここにおいて唯一の飾り気だった。


 13の椅子のうち、埋まっているのは6。

 大柄な落ち着いた老紳士、神経質そうなスーツの中年男性、若くて活発そうだがみすぼらしい男、ぬいぐるみを抱きしめたゴシックパンクの子供、どこにでもいそうな穏和な主婦、まるで汚染地帯の作業員のような全身防護服。

 集った人々の格好は統一性を欠いていた。


「遅いじゃないですか、遅刻ですよ」


 スーツの男性が咎める口調で言う。

 彼から時間に追われる余裕のなさが漏れている。

 少なくとも表面上は。

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