168.過密

 賽銭箱手前10メートルに渡って行列ができていた。

 人だかりの頭が無秩序に、秩序だって順番待ちをしている。 

 表門から始まった人波はここへきて、密度のピークを迎えていた。


 噎せ返る緑と熱と汗と抹香の匂い。

 人気の充満が異様な熱気を産み、静かに体感温度を上昇させている。

 夏場の熱、人の熱、そして祭り特有の得体のしれない熱が籠っている。


 場はうるさくない。

 静寂でもない。

 雑踏がここに満ちていた。

 時折遠くで大声が上がっても、すぐにどこかへ吸い込まれていく。

 輪を乱さまいとする、無言の圧力が支配していた。


 左右どこを見回しても人、人、人。

 いまだ背丈が大人に及ばない僕らには、囲まれると暗天の星と人工の光しか目に入らない。

 かろうじて方向だけがわかり、人の流れに身を任せていれば脱線しないだろうという安心しかない。


 宵闇の中に群がる集団を、境内端の設置された白熱ライトが煌々と照らし出している。

 目の眩むような光と、より濃く落ちる影。

 光が強ければ強いほど、闇はより色深くなっていく。


 日常において、この神社にこれだけの人口が集中することは少ない。

 誰に言われた訳でもなく、ほとんど無意識に皆が拝殿へと歩を進めている。

 ここまで来たついでにと。

 ついでというだけの理由で、こんな人密度の中で順番を待っている。


 きっと途中で引き返したい人もいるのだろうが、無理やり流れに逆らって逆走する者はいない。

 そうまでするくらいなら、お参りをして終えて流れに任せて下流に戻ろうと諦める。

 変な話だが、世の大きな流れとは得てしてそんなものなのだろう。


 誰ともなく作られた流れ、その流れは無理に逆らうほどの抵抗感はない。

 だから余計に流れから抜け出せなくなる。

 大勢の人がそうである。

 やがて大きな流れは周囲を巻き込みながら拡大を続け、誰も不審に思うことなく、それ自体が普遍の常識となる。

 いつしか誰も不思議に思わなくなる。

 それが常識という物の正体なのかもしれない。


「あっつ……」


 隣で結城が胸襟を指でつまんで振り、空気を入れて熱を逃がしている。

 白い肌と鎖骨が目に映り、気まずくなって視線を逸らす。

 首と胸元で肌色がグラデーションしていた。

 色白だとは思っていたが、この夏で多少は日焼けしていたらしい。

 闇と光の中に浮かび上がる柔肌が妙に艶かしい。


 男の胸板に過ぎない。

 仮にも男の結城の肌を見たところで何を気負う必要がある。と自分に諭しても、左脳と右脳は意見を一致させない。

 外見がほとんど女性であるのだから、どう理屈をこねくり回しても、視覚的に恥ずかしさを感じてしまう。

 無防備な相手を一方的に盗み見るのも良心の呵責があった。


「これだけ人が集まってるとね……」


「何もみんながみんな、ガン首揃えてお祈りしなくったっていいのに」


 その通りだ。

 そして僕らもまた、その中の3人である。

 考えることは皆、さほど違わないということだ。


「せいぜい10分ってところだから我慢しようよ」


 人の多さに比べて、列の動く速度は速い。

 済ませる用事が、賽銭をして手を叩いて礼をするだけだからだ。

 加えて両の向拝柱(こうばいばしら)の間隔が広く、賽銭箱と吊り鈴は2組設置されている。

 1列1人で4列ずつ横に並んで進んでいるから、人数に比べて参拝客はずっと早く捌(さば)いていかれる。

 仮に満員御礼の最後尾にいたとしても、15分~20分程度で順番は回ってくる。


「待つのは嫌いじゃないんだけど、こう蒸し暑いとね……汗もかくし、肌も荒れそうだし」


 結城はハンドバッグからコンパクトを取り出す。

 鏡に映した自分を確認しながら、指先で皮膚をちょんちょん触っていく。

 今日はいつもより化粧が少し濃いらしいので崩れが気になるらしい。

 それでもナチュラルメイクなので、傍目にはどう違っても差はわかりにくい。


「えーと、あれなんだっけ……水に強いやつ。あれ使わないの?」


 海水浴やプールの記憶を引っ張り出す。

 確か耐水性化粧の話を結城がしていた、ような気がする。


「……ウォーター? してないよ。水に強くても汗の油で落ちちゃう。だからノーマルのパウダーだけ。崩さないより崩れても直せる方がいいもの。あ、でもライナーとブロウはしてるか。マスカラはやめたけど」


「……ふぅん」


 相変わらず化粧のことは何を言っているのかわからない。

 聞かなければ良かった。

 自分の無知を自覚させられたようで恥ずかしい。

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