166.浄水

「良いじゃないの。やりたくないならそれでさ。神様はきっと素直な子だけ願いを聞き届けてくれるもの。ボクみたいにね。この神社は恋愛成就のご利益もあるけど、誰かさんは要らないみたいだし。ほら、あーちゃん。ボクが水かけてあげようか?」


 ふざけて濡れた指をからめてくる結城。

 ひんやりした細く白魚のようなそれが、蛇のようにまとわりついてきた。

 水に浸かって僅かにピンク色のさした指の腹が爪を擦る。


「……やっぱりやる。さーやもやるよ、手洗いうがい」


 それまで足が根を張っていた三郎が、ズカズカと大股で手水舎に近づいてくる。

 結城を押しのけて僕たちの間に割り込んできた。

 水溜に橋渡しされた木材の柄杓台から、1本をむんずと掴む。


 柄がピシリと小さく悲鳴を上げる。

 柄杓は手作りの竹製であまり強度がない。

 普通に使う分には問題ない耐久度はあるものの、ヤンチャな悪戯っこが力を込めれば折れてしまうほどには脆い。

 実際に今までも幾つか破損したことがある。


「あーくん、どうやるの?」


「この看板の通りだよ」


 と、柱に針金で括りつけられた看板を指差す。

 手水舎の使い方を4工程で、文字と巫女さんの図入りで掲載されている。

 そこまで丁寧に書かなくても、手順自体は一言でも言い表せるほどに単純だ。


「よくわかんない。手とり足とり教えて」


 チンパンジーでも解読できそうな説明がわからないとはどういう了見だ。

 などと一々反発するのも馬鹿らしい。


「じゃあ一緒にやってみようか。まず左手に柄杓を持って、水を汲んで右手にかける。今度は右手で持って左手にかける。最後に手に水を溜めて口をゆすいで吐き出す」


「ふぅん……」


 三郎の所作は緩慢だった。

 手とり足とりでなかったことへの不満ではなさそうだ。

 おそるおそる柄杓の水を手にかける。

 思い切りが足りず手腹まで濡れなかった。

 特になんてことのない動作だったにも関わらず、水をかけた手がびくんと大げさに痙攣する。

 彼はシワを寄せて、酷く嫌そうな顔をしていた。


 それは、手水舎の水が不衛生だから嫌っているとかではなく、もっと自分に害のある物に汚染された嫌悪の仕方だった。

 不快感というより痛み。

 しかし水をかけた手に外傷はない。傷が付いたり荒れたりもしない。

 健康そのものだ。


「……おえっ」


 最後に口をゆすぐ時も、含んだ水をすぐにえづいて吐き出していた。

 水に異常はないはずだ。浄化槽で多少カルキが含まれているかもしれないが、健康に害はまったくない。

 僕も口に入れたが変な味もしなかった。

 この場でそんな異常があるのは、三郎だけだ。


「あーちゃん、はいティッシュ。よく考えたらボクも、ハンカチさっきトイレで使っちゃったや」


 自分の用を済ませた結城がティッシュを差し出してくる。

 ローズマリーの香りが付いた匂い付きだった。


「ありがとう……これ1袋もらっていい?」


「……いいけど?」


 三郎もティッシュを持っていない様子だった。

 結城が彼を気遣う確信はなかった。

 濡れ鼠のままでいろと言いかねない。


「う……あー……」


 案の定、三郎は手と頭を振って、獣の行水後のように水を振り落としていた。

 彼から発射された水滴が飛び跳ねる。

 周囲の手水舎客が迷惑そうに身を引いた。


 そうまでしても水分は肌から撥ね切らない。

 新品の浴衣であることなどお構いなしに、水濡れした手と口元を袖口で拭おうとしている。


 僕は自分の手を拭いてから、三郎にティッシュを差し出す。

 借り物を我が物顔で渡すのは気が引けるが致し方ない。


「……こういうの、苦手だった? はい、これで拭いて」


「……別に。ありがと」


 三郎は目をつぶっていてティッシュが見えていないようだった。

 うがいの時に水滴が目に入ってしまったのだろうか。

 そんな刺激物でもないのに大げさだ。

 物欲しそうな手が宙をふらふら彷徨う。


「あっ……」


 やがて、三郎が掴んだのは僕の浴衣だった。

 そのまま袖をタオル代わりに使われた。

 顔をゴシゴシ手をゴシゴシ。

 彼が気づいたのは最後に鼻をかんでからだった。


「ん? あ、ごめん」


「いや、いいよ……」


 手水舎を離れる時、三郎に気づかれないようにティッシュでこっそり拭いた。

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