88.試着
「あ……さーやがさ、浴衣の棚が分からないって……」
「何が、わかんないって?」
結城は片眉を吊り上げ、屈み込むようにして上から三郎を見据える。
僕にではなく、彼に言ったらしい。
それでも三郎は飄々としてとぼけたような声を返す。
「さーや、浴衣の場所わかんなーい。だからあーくんに連れてってもらうんだもーん」
「レディース浴衣はB-2。その棚の番号札見てもまだ分かんないって言うの?」
「ちっ……」
三郎は小さく舌打ちをして、結城の脇を通り過ぎる。
迷いのない足取りで該当の場所まで歩いていき、屈んで見えなくなった。下段の商品を品定めしているらしい。
先ほどの問答はなんだったのか。
「もぉ、なに相手のペースに巻き込まれてるのさ」
「面目ない」
「隙が多いからつけこまれるんだよ」
「ごめんって」
「ま、いいや。浴衣幾つか試着するから、一緒に来てくれない?」
「……三郎は?」
「ほっときなさい。迷うような所でもないでしょ」
冷たい物言いにも聞こえるが、試着室も目と鼻の先である。
付近は視界を妨げる商品棚もなく見通しが良い。
ウロウロしていれば嫌でも目に付く。
縦横1.5メートル、高さ2メートル強。
灰色の台座。正面を仕切る乳白色のカーテン。
背後は壁で左右は板壁で仕切られている。
そんな試着室が3台、連続して並んでいた。
一般的な簡易試着室より大きい。
定型なら床は縦横80cm前後だろうし、高さも190cmと言った具合だ。
ただ衣類を着替えるだけにしては余りある。
板壁は元々あった備え付けを再利用したのか、後から取り付けたのかは定かでないが、広くて天井の高い店内を贅沢に使用している。
「じゃーん! どうかな、これ?」
カーテンを勢いよく開けて、着替え終わった結城が浴衣姿を披露する。
袖先を指でつまんで、両腕を広げる。
よほど嬉しいのか、満面の笑みを浮かべていた。
1着目は青藍色のスタンダードな浴衣だった。
袖口がゆったりして、胸元から下はボディラインが出やすい、ごくごく一般的なそれ。
全体に植物の蔓と、朝顔の花模様が描かれている。見ているだけで夏の涼しい夜風を思わせた。
「ちょっと捻りがなさすぎ?」
結城がその場でくるんとゆったり回る。
足裾が狭まっているので、自然と内股になる。歩く所作など立ち振る舞いを矯正させる為だろう。
そのせいか、動きやすさはあまり考慮されていないようだ。
「いや、良いと思うよ。素朴でシンプルで、ザ・浴衣ってところが」
「捨てがたいねぇ。正道として定着したのは、それだけ洗練されたデザインってことなんだもの」
「それにする?」
「気が早い。他のも試着してみるって。どれがあーちゃんを悩殺できるか検証したいの」
カーテンが閉められる。
中でごそごそと浴衣を脱ぐ衣擦れの音がしている。
振袖と違ってさっと着替えられるから、待つのは長くても5分程度だろう。
昨今の浴衣は帯の後ろ結びも飾りであり、わざわざ結わえる必要もなく、ただ胴に巻いて留めるだけだ。
どこかに腰掛けられる場所はないかと探してみる。
ない。
簡易椅子の1つでもあれば良かったが、生憎周囲に体重を預けられそうな物は見つからなかった。
試着室付近で一服する方が稀なのだから当たり前か。
少し離れた履き物売り場に幾つかあるが、遠すぎる。
あれも腰掛けて靴を試着する為の物であって、くつろぐ為の椅子ではないのだろうし。
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