60.春機発動期

 コンコン。

 風呂場の出入り口の引き戸をノックする音で、トリップしかけた頭が現実に戻ってきた。

 すりガラスのような透明度の低い向こう側に、誰かの人影がある。


「あーちゃん、お風呂入ってるの?」


「あぁ……うん、ちょうど着替えるところだったからさ」


 ガチャリ。

 引き戸が軽く開けられ、結城がヒョッコリ顔を覗かせる。


「湯加減どう?」


「……開けないでくれよ。湯加減は夢見心地だよ」


「それは上々。パジャマって1回着ちゃった?」


「いや、手に取っただけ。そこに置いといてくれれば、出た後に着るよ」


「そっか。お風呂出た後はまた寝ちゃう? 夕飯作ってるから、食べるなら準備しとくよ」


 体調は随分と快復している。

 そういえば昼の後は食べていない。

 意識すると急に腹が空腹感を訴えかけてきた。


「食べる食べる。お腹と背中がくっつきそうだ」


「ふふ、あーちゃんのウエストがなくならないように、なるべく早く食べられるようにしておくね」


 そう言って結城が顔を引っ込める。


「ふぅ~~~……」


 空きっ腹を自覚すると、先ほどのようにトリップするほど風呂へ堕ちていかない。

 だがずっと浸かっていたい欲求もなくならない。


 あとどれくらい入っていようか。

 今日の夕飯はなんだろう。

 どれくらいに出るのがちょうどいいかな……。


 ガチャリ。


「あーちゃん」


 再び結城が顔だけ覗かせた。


「どうしたの? 何か忘れ事?」


「んー……やっぱりボクも一緒に入ろうかなって」


 彼がニヤリと笑い、少し身を乗り出す。

 白い肩が見えた。


「うわっ……ぶっ……」


 不意打ちで湯船の中で足が滑る。

 水しぶきを立てて上半身が沈没した。

 気管支に水が入り、床に手を立て慌てて浮上する。


「げほっ……ごほっ……」


「あはは、大丈夫?」


 結城が浴室内にいて、苦笑いで僕を見下ろしていた。

 服は、しっかり着ていた。

 上は丈の短い、白のチューブトップだった。肩とヘソが露出している。


「ごめんごめん、ちょっとからかうだけのつもりだったんだ」


「……足を滑らせただけだよ」


「ボクの裸を想像して?」


「うっかりだって……。そんなことの為に、わざわざ?」


「ううん、シャンプー切れそうだったから補充しておいて」


 彼が手に持った詰め替え用を、シャンプーボトルの横に置く。

 本当にそれだけらしい。


 風呂場を出ていく彼を見送った後、湯の中に頭全部を潜らせる。


 幼馴染にほんの僅かでも性を感じた罪悪感に苛まれた。

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