49.記憶の海の濁り

 皮膚の毛穴から噴き出した汗を、シャツが吸いきれずに吐き出す。

 地面に滴り落ちる。


 足元に、何か落ちている。

 手帳より一回り小さい、緑地の長方形。

 表面はザラザラした合成皮革で、文字も何も書かれていない。


「何だろう……生徒手帳?」


 どうやら裏面を上にして落ちていたらしい。

 ひっくり返してみると、校名および校章が金文字で記名されていた。


 不気味な校章だった。

 目だけが大きい痩せ細った蛇、それも胴体の下半分が千切れている。


「えーと……じ……じゃ、くずれ……? なんとか……学園?」


 隣から覗き込んできた結城が代わりに読み上げる。


「蛇崩衾(じゃほうぶすま)学園って読むんだよ」


「へぇ、聞いたことない名前だ。近いところ?」


「うーん……隣県だったかなぁ。電車で1時間くらい。あれ? でも蛇崩衾って、確か……」


 結城が唇に人差し指を当てて思案に耽る。

 眼球がほんの僅かな振れ幅で振動していた。

 彼が深く何かを思い出そうとする時の癖である。


 時に、この学生証をどうしようか。

 その蛇崩衾学園へ郵送で送り付ければ良いのか、それとも先ほどの少女に直接会って手渡しするべきか、あるいは警察に押し付けてしまうか。


 生徒手帳を何気なく開いてみる。

 人の物だから、勝手に見るのは失礼だから、という倫理観が働くほど僕も出来た人間ではなかった。

 他人の生徒手帳というだけの好奇心にすら勝てない。


 デザインが違うだけで、機能美に差はない。

 ごく普通の生徒手帳だ。


 開けば学生証の三文字が上部に印字されている。

 同校に在籍しているという注意書きもある。


 左半分がバストアップ写真が貼り付けられているのも普通だ。

 明らかな私服であったり、何故かその表情が不満げなのが気になったが、概ね証明写真とはブサイクに映りやすい。


 氏名も書いてあり、生年月日や住所もしっかり記載されている。


 ……氏名?


 おにが……の三文字から先を読めたかは自信がない。


 一瞬で、頭が停止した。

 脳細胞が活動を一斉にストライキした。


 頭の中が真っ白になる、という表現がしっくりくる。

 それほどまでに、ここがどこで今が何月何日で自分が誰なのか、真夏の暑ささえ忘れてしまったくらいだ。


 ポトリ、と手から生徒手帳が滑り落ちる。


 結城が不思議そうにそれを拾い上げて、当たり前のように開く。


「どうしたの、固まっちゃって。何々、鬼瓦 三郎(おにがわら さぶろう)? あー、なんだ。あいつも男だったんだ」


 さしたる驚きも興味も見せず、彼は生徒手帳を指先で摘まんでヒラヒラと振り回す。

 ぞんざいな扱いから、あのさーやという人物への嫌悪感が伺い知れた。


 しかし結城の機嫌の有り様などどうでもいい、と思えるくらい今の僕の心境は尋常でいられない。

 この猛暑の下、紫外線の雨を浴びおびただしい汗に塗れながらも、冷水風呂に浸かっている錯覚を起こす。


 手足の先端が認知外の不随意運動で震える。

 止めようと脳からシグナルを送っても、彼らは無視を決め込み、指の局所的反乱で抵抗した。


「あーちゃん?」


「お……鬼三郎……」


 それはいつしか忘れていた名前の再認。

 古い潜在記憶の一部と化していた忌み名。


 既知性から忘却しようとしていた。

 それは僕だけでなく、きっと知る人ぞ全員が。


 だが、彼の存在は長期記憶から消えていなかった。

 音や符号ではなく、傷として、スキーマの奥深くへと刻みついていたのだ。

 限りなく薄く引き伸ばされたとしても、消えてなくなった訳ではない。

 ソーンダイクはクソして寝ろということだ。


 僕の中央実行系は、たった一度の音韻記憶へのアクセス一発で膨大な知識の海から彼にまつわる情報を総サルベージした。

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