10.膝枕

 時間がゆったり流れた。

 昼食はいつもより時間がかかった。

 恋人っぽいふざけ遊びをしていたせいだろう。


 穏やかな空気の中、心も腹も満ちるひと時だった。

 他に誰もいない屋上が、世界で二人っきりのように思えた。


「ご馳走様」


「お粗末さまです」


 箸を置く。

 結城が食べ終わった食器をせっせと片付け、重箱を包みに戻す。

 当然の光景として眺めていたが、手伝うべきだと後悔した時にはとっくに終わっていた。


「美味しくて、つい食べ過ぎちゃったよ。なんだか、眠くなってきた」


 重箱弁当の量が、いつもの弁当箱2人分を合わせたより多い。

 結城が僕にばかり食べさせてくるので、腹八分目を超えている。

 デザートのパウンドケーキだけでも遠慮しておくべきだった。


 満腹感と強い日差し、その暑さを殺す涼風が絶妙に眠気を誘う。

 湯上りの感覚に似た火照りと冷却。


 体ごとゴロンとベンチに寝転ぶ。


「食べてすぐ寝たら牛になるよ」


「お腹が苦しいほどなんだ。少しだけ許してよ」


「……あ、そうだ。それなら膝枕してあげる」


 結城が体を寄せる。膝をポンポン叩く。


「え……」


「ほらほら、恥ずかしがらなくても、たまにしてるでしょ」


 迷う。

 ドアノブの器物損壊、屋上への強行突入、禁止されている場所での昼食。

 既に罪状を3つ重ねている。

 この上でベタベタとスキンシップしている所を目撃されれば、午前中のホームルームで持ち上がった懸念が現実とものとなる。


 出入り口のドアを見る。

 まだ誰も出入りしていない、僕ら以外は。


 もしかしたら、不必要に心配しているだけですぐに発覚しないのではないか。

 少なくとも清掃業者が昼休憩中にやって来ることはあるまい。


「じゃあ、してもらおうかな」


「うん」


 結城の太股に後頭部を乗せる。

 無駄な肉付きがないわりに柔らかい。


 仄かに石鹸の清潔な匂いがする。

 うちの風呂場に置いてあるボディソープの香り。


 僕は同じ匂いが消えているのだから、結城はきっと朝風呂に入っているのだろう。

 朝風呂に入って朝食と昼食を作って……急に自分がナマケモノではないかと負い目を感じる。


「結城の太股、柔らかいね」


「やだなぁ、あーちゃんったら」


 彼の細い指が髪を撫でてくる。

 心地良い、落ち着く。

 彼の匂いで、体温で、まるで母親に抱かれた赤子のように心が休まる。


 だがリビングでくつろいでいる時の膝枕とは、何か違う。

 友人や家族ではなく、恋人としての付き合い方。

 関係が変わり、世界の見え方が変わる。


 眩しい。

 結城の笑顔が……笑顔が?


 

 血の臭い。

 恋の沼が自我を窒息させる。

 残忍な独占欲の塊が、脊髄の腐敗する悪臭が、闇から伸びた愛の手が、僕のカラダを引き裂いて引き裂いて引き裂いて引き裂いて……。


「……あーチャん、眠ッちゃいソう?」


 空が、赤黒く染まる。

 彼が黒く染まる。

 耳まで裂けた紅い口が、僕を呑み込もうと……。



「うわっ……!」


 飛び起きる。


 ゴツンッ!

 僕の額と、鼻先にあった結城の額が衝突した。

 眼球裏に火花が散る。白と赤が激しく明滅する。


「いった! いたた……ちょっと、あーちゃん、いきなりなに?」


 上体を起こして彼を見つめる。

 彼に、特に変わったところはない。

 ぶつけた額に手を当て、僅かに涙ぐんでいる。


「あ……えっと……あれ? ごめん、何かおかしな感覚がして……」


 ヒリヒリとした額の痛みが遠い。

 手の平に視線を落とす。

 じっとり汗を掻いている。


 おぞましい……。

 まるで地獄の底から這い出てきた化け物と対峙したような怖気。

 今のは何だったのだろう。


「なによ、おかしな感覚って……。せっかくロマンチックな雰囲気だったのに台無しだよ。いたた……痣になったら責任取ってもらうからね」


 不安……? 懸念……?

 自分で自覚する以上に、憂慮しているのか。

 同性恋愛への畏れ。

 内在的な疑惧が幻覚でも引き起こしたというのか。


「あーちゃんはコブになったりしてない?」


 結城が心配そうに手の平をあてがって擦ってくる。

 誰よりも信頼し何よりも拠り所にしている彼に対して、何故……。

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