4.登校
『仮心市』。
東海地方の南部に位置する海沿いの中核市。
人口約43万人。県内では政令指定都市に次ぐ規模である。
主産業は漁業と養殖、茶畑、電子楽器部品など。
特に水産物の一つであるウナギは、遺伝子工学を中心としたバイオニクスによる養殖が成功し、国内シェアを伸ばしている。
これは国内有数の某製薬企業が、市内の生物工学研究所と行った共同事業の成功に起因していた。
同企業によれば、特殊な技術を用いて成魚の遺伝子データを丸ごとコピーし、幼体の塩基配列を健康な同一状態に保つのだという。
その結果、稚魚の致死遺伝子が排斥され、生存率を飛躍的に高めている。
ただし、この『特殊な技術』への情報開示が求められる世論の渦中、同社は詳細を明らかにしていない。
『姫街』。
仮心市のとりわけ南側に位置する住宅街で、僕らは暮らしている。
件の製薬会社の工場が在る以外は、取り立てて観光名所もないありふれた場所。
だが静かで、海が近く、穏やかな街である。
玄関で靴ひもを結び終える。登校の準備が整う。
家の奥から物音がしている。
結城がまだ戸締りや火の元の確認をしているようだ。
「結城、まだ出られない?」
和室の辺りから返事が戻ってくる。
「もうちょっと待ってー。今、終わるからー」
玄関ドアを、そっと半分だけ開ける。
室外から生暖かい空気とセミの鳴き声が流入してきた。
結構暑い。わずかな時間でも暑気を避けたい。
ドアを閉める。
結城が早歩きでやってきた。
土間の段差に座って、足を自分のローファーをつっかける。
彼はヒールカーブを指で整えながら、軽い調子で謝罪する。
「ごめーん、部屋にクモがいて追い出すのに時間かかっちゃった」
「そんなの、ティッシュでさっと摘まんで窓から出せばいいじゃないか」
「やーん、結構おっきいクモだったんだもん。丸めた新聞紙でパタパタってやって、窓から出てってもらったの」
彼が靴を履き終えて立ち上がる。
片足立ちし、つま先で床をトントン叩いてズレを直す。
ドアを開けて2人で出る。
「そんなに怖いもんかね」
「あーあ、そんなこと言うんだ? あーちゃんが戸締りだけでも見てくれたら、もっと早く終わってたのになー」
「う……ごめんなさい」
結城の好意に甘えすぎだろうか。
親しき中にも礼儀あり。
当たり前に思ってしまっているのは罰当たりかもしれない。
今後は2階の戸締りだけでも自分が担当しよう。
6月初旬。
外気温27℃。晴れのち積乱雲。
今年は妙に夏が早い。
今月頭に大きな台風が通り過ぎてから、気候がグッと春から移り変わった。
エアコンが温度を自動調節していた室内から出ると汗ばんでくるほどだ。
それになんといっても、まだ6月にも関わらずセミの鳴き声がする。
幼虫が羽化し、成虫が羽ばたく時期は概ね7月から。
例年と比べてずいぶんと気が早い。
これも台風で気候が変わった影響なのか。
自宅を出る。
結城が施錠確認をした後、僕が靴先をつっかけて転びそうになった以外は問題なく登校の路につく。
ゆっくり朝食を摂っていたわりに、何故かいつもより5分早い。
「ねぇ、あーちゃん。忘れ物ない?」
「大丈夫、ないよ」
恋人になったが、一歩外に出るといつもの関係だった。
いつもの朝、いつもの登校経路、いつものような談笑。
無闇にベタベタ引っ付いたりもせず、変わらぬ日常がそこにある。
僕の頭も定常へ戻っていた。今日1日の授業で何があったか、昨夜見た時間割を想起する。
二時限目に数学があったことを思い出す。
一昨日最後の授業で何かプリントを配られたような、そうでないような……。記憶が曖昧だ。
隣を歩いている結城に問いかける。
「今日、何か課題出てたっけ?」
彼はそれまで覗いていたコンパクトミラーを畳んで懐に仕舞う。
やや呆れた半目でジーッと睨みつけてくる。
「数学じゃない? ほら、二次方程式の。昨日釘を刺しておいたのに、もしかしてやってこなかった?」
「新作のゲームに夢中で……」
「言い訳じゃない。はいこれ」
そう言って結城が鞄から、クリアファイルを取り出す。中の数枚のうち、2枚のプリントを渡される。
直筆の原紙ではない。問題文に答えが記入された物のゼロックスコピーだった。
書いた後にわざわざ印刷してくれたらしい。
「学校着いたらコッソリ写して。くれぐれも、そのまま出さないでよね。コピーを失くしたり誰かに見せるのもダメ。あ、帰宅まで捨てるのも禁止。見つかったらボクまで怒られちゃうから」
「あ……ありがと」
どこか、いつもの彼より優しい気がする。
課題を忘れた時、見捨てられないが大抵は解き方を教えてくれるだけ。あくまで自主性を重んじる教育方針だ。
丸々写させてくれるのはかなり機嫌が良い時だけ。
鞄にプリントを大切に仕舞っていると、結城が俯き加減で歯切れ悪く切り出す。
「あのさ……」
「なに?」
心細げに、そろそろと左手が差し出された。自信のない眼が下から見上げてくる。
「あ……あの……課題、写させてあげるんだからさ。その……手……繋いでよ……」
「手? あぁ、良いよ」
課題写しの対価が手繋ぎとは、ずいぶん控えめな要求だ。手くらい、子供の頃に何度も繋いだというのに。
僕は自分の右手を彼に向ける。
「えへへ、やった!」
差し出された左手と無関係に、両手で握られる。
ぎゅっ。
思いの外、握力が強い。咄嗟に小さく呻き声を上げてしまった。
「あ、ごめん……」
両手を緩め、彼が左手でそっと握り直す。
結城の手は小さい。
柔らかいが、余分な脂肪が付いていない。体温は低めで、少しひんやりしている。
折れてしまいそうなほど白く小さい指、にも関わらず内側に力を感じる。
外見で華奢に見えても、本質は男性なのだ。
「んー……」
「どうしたの?」
「いや、往来で手を繋ぐのがちょっと恥ずかしくてさ」
自宅で引っ付くことはよくある。だが屋外で最後に手を繋いだのは、確か小学生の半ば頃だ。
僕も結城も成長するに従って、人目に付く場所で自然と距離感を気にするようになった。
「気にすることないよ、恋人同士なんだから」
結城が繋いだ手を前後に元気良く振る。
確かに堂々としていた方が、幾分か羞恥が身を潜める。
「そ……そっか」
と言いつつも、僕たちは学校に着くまでの道のり、普段より口数が少なかった。
お互いの顔を直視しないよう、極力視線を外して。
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