黄昏

よしや

黄昏

『おはよう、お父さん、朝ですよ。起きてください。えーっと今日も張り切って仕事に行きましょう』


 躊躇いがちなノイズの混じった女の声が、ぼんやりと夢と現を彷徨っている意識を揺らした。その後に続くはずの遠ざかるスリッパの音も、薬缶が笛を吹く音もトースターの音も聞こえてこない。

 襲い来る睡魔に打ち勝ち眼を開くと、七時半を差している時計の文字盤が現実を突き付けてきた。仕事に行くには出社時刻さえ疾うに超えている。


 妻が他界して二年。生前に声を吹き込まれた録音機能付きの目覚まし時計は、その性能を今でも十二分に発揮している。妻が平日に友人と泊りがけの旅行に行く際、私の遅刻を懸念してわざわざ買ってきた物だ。


 油断しながら何気なく聞きつつ意識が浮上してくると、その過程で妻の死を思い出し、慌てて飛び起きる。二年前にはそんな調子で起きていた。仕事は去年に定年を迎えたのに、未だに目覚ましが手放せないでいる。きっとあいつはあの世で笑っているに違いない。


 仰向けの状態からゆっくりと体を横に動かし、両手で支えながら何とか体を起こす。若い時分には腹筋のみで起き上がれたが、今はそんな芸当は出来ない。軋む体をほぐすように動かしながらふと下を見ると、汚れが目立たないように柄物のカバーをつけている枕には白髪が何本か落ちていた。憂鬱になりながらも拾ってごみ箱へ捨てる。

 洗面所では自分の姿、主に頭頂部を見て軽くため息をつく。完全にはげるのが先か死ぬのが先か。

 昨日使っていたタオルを新しいものに取り換えて、手を洗いうがいをして顔を洗う。前は気づかなかった心遣いの一つ。知らずに数日放って置いたらかなりのにおいになってしまった経験がある。


 スクランブルエッグという認識の炒り卵とウインナーを一本、それからもやしを少しだけ炒めて皿にのせる。狐色どころか狸色になったトーストとコーヒーが準備出来たら、妻の座っていた場所に並べて自分は向かいの席に腰を下ろした。

 影膳の真似事だ。と言っても四十九日どころか三回忌が間近ではあるし、遺影は位牌と共に隣の部屋の箪笥の上だ。

 二人分を胃袋に入れる余裕はないので、そのまま自分の方へと引き寄せた。


「いただきます」


 無言生活の妥協策。食事時の挨拶だけは相手がいなくても声を出すことを許された貴重な時間だ。テレビを見ながら独り言を話すような年寄りにはなりたくない。

 天気予報のみを見るために毎朝決まった時刻に数分だけテレビをつける。消すころには朝食も終えているので、そのままの洗い物を済ます。

 定年を過ぎたら家事は半分ずつ。生前に話し合っていた約束事だ。結局は定年前から始めざるを得なかったが、こんな形で半分をすることになるとは思わなかった。


 洗濯ものは二日に一度。毎日しようと思っていたら葬儀の後に一泊した娘に怒られた。曰く、水道代と洗剤がもったいないと。二人分だったら毎日でも構わないけれど一人ではその頻度で十分らしい。

 娘は一人暮らしの先輩だ。素直に従うことにしている。

 だから今日は誰が何と言おうとも洗濯物を干さない日。カーテンを開くとよく晴れていたので、出かけることにした。


    ◇     ◇     ◇


 時折痛む足をかばいながら、昭和のにおいのする商店街の本屋へたどり着く。十数件あったこの辺りの本屋もほぼ壊滅状態に近い。定年を過ぎたらもっと本を読もうと思っていたのに、それに合わせるかのようにどんどん潰れていった。


「すまないね、うちも今月で閉店だ」


 筆者は亡くなっているのに、何故か未だに新刊が出されている時代劇のシリーズ物を探し出してレジへ持って行くと声を掛けられた。

 週に一度は通っているのですっかり顔なじみになったのだが、ここも多分に漏れず時代に逆らえなかったらしい。人間らしく生きる最後の砦だったのに退路を断たれてしまった。


「参ったな。歩いて行ける範囲は全滅だ」

には敵わんよ。よほど古いもんじゃなきゃ確実に手に入るらしいからね」

もパソコンも持ってない。参ったなぁ」

「電車に乗って三つ行けば大型書店があるよ。あとは……本屋としては言いたかないが、古本屋のチェーン店にいってみたらどうだい?」

「ありがとう。出来れば今月中にもう一回来るよ」

「ははは、毎度あり」


 本屋を出ると、そのまま商店街の中の蕎麦屋に入る。向かいの洋食屋には妻が死んでからは滅多に行かなくなってしまった。一度は一人で入ったのだが、若い、と言っても娘と同じくらいの愛想のいい店員が、気を使っているのか時折話しかけてくる。それがどうにも気恥ずかしく、有り体に言ってしまえば介護を思わせるので二度と行かなくなった。自分はまだまだそんな齢ではない。


 蕎麦屋は昼時だと言うのに全く客はおらず、不愛想な女将が一人。水の入ったコップがテーブルの上に雑に置かれるとの同時に「ざる、一枚」と言うと、こちらには返事もせずに大将に取り次いだ。味は、天ぷらさえ頼まなければそこそこ。

 最近は蕎麦をすすることにすら躊躇する。麺についた汁が気管支へ入ることもあり、ゆっくりとすすらなければ咽てしまうこともしばしば。

 死を恐れているわけではないが、みっともない死に方はしたくない。


 勘定を済ますと余所の総菜屋で弁当を買い、商店街を後にする。


    ◇     ◇     ◇


『もしもしお父さん、元気?』


 娘から毎週水曜日に生存確認の電話がかかってくる。きっかり八時、この日は風呂も飯も早めに済ませておく。

 妻に似てきた声に不意を突かれて、返事が遅れた。


「ああ、そっちはどうだ」

『聞こえるでしょ?』


 娘の沈黙の向こう側で、孫たちがはしゃぎまわっている声が聞こえる。婿殿の注意する声が聞こえるが、火に油を注いだように激しくなった。じいじと話したいと嬉しい声が聞こえてくる。


「ははっ、元気そうだな」

『来月はお母さんの三回忌ね。こっちでお寺さんに連絡入れとくから』

「ああ、頼む」


 それから少しだけ世間話をする。いつも娘からの報告なのだが、今回は珍しく話題を提供できた。商店街の本屋は、娘が子供の頃によく通っていたので残念がっていた。

 話題が尽きると、毎回同じく体調の気づかい。血圧の薬を飲んでるかの確認と『もう齢なんだから』と釘を刺す声。面倒臭くなって返事が投げやりになると、向こうも話を切り上げにかかる。


「ああ、ああ、大丈夫だ。元気でな」


 最後までにぎやかな受話器の向こう側。ぞんざいな対応をしたにも拘らずこちらからは切りがたくて数秒待つと、無情にもぷつんとはしゃぎ声は切れた。手垢で汚れた受話器をおろせば途端に耳が痛いほどの静寂が家の中を支配する。

 空間を共有していたかのように錯覚していた。目覚まし時計の妻の声と同じ。覚めずにいれば幸せだったものを。


 集合住宅にも拘らず物音一つしない六畳二間。じわり、じわりと今日過ごした一日さえまるで幻であったかのような感覚に囚われていく。

 数十年前は自分の物だった受話器の向こう側の家庭を取り戻したくて、妻がそこにいるかのように振る舞う。


「なあ母さん、そろそろ寝ようか」


 生前にはついぞ掛けたことのないような優しい声色が、無機質な部屋の中でやけに響いたのち、再びの静寂。冷蔵庫が気遣ったのかブオーンと作動音で返事をした。


 今更。


 今更ありがたく思っても、約束通りに家事をこなしてもこの家には誰もいない。妻が生きていれば感謝されただろうが、とそこまで思って自分は感謝の言葉すら怠っていたのだと気づく。

 後は眠るだけとなってしまったこの時間が、一番つらい。家族の一員としてのいたらなさを少しずつ自覚できてしまう過去より、独りで生きねばならない未来が心を蝕んでいく。


 明かりの届かない隣の寝室が暗渠を思わせる。そのまま進めば黄泉路を辿れるだろうか。たとえ妻が黄泉醜女になっていたとしても、声がそのままなら構わない。手招くだろうか、それともしっしと追い払うだろうか。

 意を決して電気を消し、暗い中を進む。足裏の感触は、残念ながら引きっぱなしにしていた布団だった。鈍い動作でしゃがんで寝床を手で探り、腰の痛みを我慢しながら何とか冷たい布団へ潜り込む。

 仰向けになる際に吐き出された長い息は微かに震える。顔を両手で覆い、喉の奥の熱いものを堪えること数秒。落ち着きを取り戻したら、枕元を手で探る。


 ただ生きると言う目的だけで明日一日を過ごす、生き残りの責を果たすために目覚ましをセットした。


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