第266話 俺はコーンスープをすすりたい

 ……あれ?ここは……あ、薫先生の家か。


 目を覚ました俺は、真っ暗な部屋の中でぼーっとする頭を少しずつ回転させ始める。

 そうだ、俺は薬で暴走した薫先生と、もう少しでおかしくなりそうだった自分を止めるために、強行手段に出たんだっけ……。

 自分で殴った箇所の腫れを確かめるため、そっと額に触れた瞬間、ズキンと鋭い痛みが走った。さすがに力を入れすぎたらしい。

 薫先生の顔に傷でもつけてしまっていたらどうしよう……。そんな不安が脳裏を過る。

「お目覚めですか?」

 カチッというスイッチの音が聞こえると同時に、部屋の中に小さな灯りが点る。ダウンライト……寝る時に付けておく用の暗めの照明だ。

「二兎里……お前……」

 重い体を起こして、声の主を視界の中心に捉えた。あんなことがあった後だ、体も無意識に身構えてしまう。

 だが、彼女の表情からはどこか哀色を感じられて、視線も申し訳なさそうに下を向いていた。

「こちら、どうぞ」

 二兎里はそう言うと、カップを手渡してきた。中身は……コーンスープだ。

「そんなに怖がらないでください。寝起きで冷えている体を温めてもらおうと思って用意したんです」

 彼女は俺が警戒しているのを察したのか、そっと両手で包み込むようにして、俺にカップを握らせる。コーンスープの温かさが、じんわりと伝わってきた。

「さっきまでの私、どうかしてました。薫叔母さんのためとはいえ、関ヶ谷さんの意志を無視するなんて……」

 見たところ、どうやら反省してくれたらしい。俺が寝ている間に頭を冷やしてくれたのだろうか。

 俺はコーンスープをひと口すすると、体全体に行き渡る温もりを感じながら彼女に向かって微笑んだ。

「美味しいな、このコーンスープ。二兎里が作ってくれたのか?」

「は、はい!市販の粉をお湯に溶かすタイプのですが、少しアレンジしてみたんです!」

「なるほど、確かに後味もスッキリして飲みやすいな」

 俺がそう言いながらもうひと口飲むと、彼女の表情はパッと明るくなり、視線もしっかりと俺を捉えてくれた。

 俺の『許す』という意思が、しっかりと届いてくれたのだろう。

「そう言えば、薫先生は……怪我したりしてなかったか?」

 思い出したようにそう聞くと、二兎里は首を縦に振ってくれた。

「心配いりませんよ。少したんこぶが出来たくらいで、残るような傷はありませんでした」

「よかった……」

 俺はそれを聞いてほっと胸を撫で下ろす。その様子を見ていた二兎里は、クスリと小さく笑った。

「関ヶ谷さんは優しいんですね。起きてすぐ薫叔母さんのことを心配してくれるなんて」

「そ、そりゃ……怪我させたら後味悪いだろ?」

「本当にそれだけでしょうか?」

 にひひ♪と歯を見せていたずらに笑う彼女。なんだ、ちゃんと笑えば可愛い女の子じゃないか。

 少しばかり自分の叔母への気持ちが強すぎて、危ないことをしてしまうけれど、そこを除けば十分普通の女の子だ。

 これで薫先生からのお願いは達成できたってことに―――――――――――「あれ?」


 俺は体に異変を感じて、思わず首を傾げる。先程まで普通だったはずなのに、手足の先からピリピリと電気が流れるような感覚を覚え始めた。

 その感覚は少しずつ強くなって、やがて体全体に強い電気が流れる。そしてある瞬間を境目に、俺は体に力を入れられなくなった。

 起こしていた体は自分の意思に反してベッドに倒れ、一切の身動きを封じられる。

 起きてからしばらくしているんだ、金縛りなんかじゃない。この感覚はきっと……痺れだ。

 だが、健康体の俺が突然痺れを感じることなんてほぼありえない。思い当たる節はたったひとつしか無かった。

「コーンスープ……」

 先程口にしたコーンスープ。あの中に何かが入っていたに違いない。

「ふふっ……ふふふ……」

 俺の焦りを嘲笑うかのように、すぐ近くにいる少女悪魔が笑い始めた。それはもう楽しそうに、見下すように。

「動けませんよね〜♪かなり強いのを使ったので、3時間くらいは全く動けないと思いますよ〜?」

「やっぱりお前か……二兎里!」

 二兎里はスカートのポケットから何かが入った透明な袋を取り出すと、中を確かめるようにそれを覗き込む。

「私が突然反省するなんて、おかしいなって思いませんでした?人が良すぎるのも罪なものですね〜」

 ケラケラと笑い、袋を投げ捨てる。あの中身はおそらく痺れ薬的な何かだろう。一体どこでそんなものを仕入れてくるんだ……。

「薫先生は俺と結婚なんて嫌がってるだろ!なんでこんなことするんだよ!」

 体が動かせない分、目の前の存在に感じる恐怖は大きくなる。俺はそれを紛らわせるために、唯一動かせる口で精一杯の反抗を示した。

 だが、二兎里は深いため息をつくと、乱雑に俺の顎を掴んで強制的に目線を合わせさせる。

「嫌がってる……?そんなわけないですよ。だって薫叔母さん、関ヶ谷さんの写真用のアルバムまで作ってるんですよ?」

「…………え?」

 俺の信じられないという反応を見た二兎里は、机の引き出しの奥の方からアルバムを取りだし、それを開いた状態で俺に見せつける。

 そこには確かに、授業を受けている俺、体育を受けている俺、居眠りしている俺、女装している俺……色んな関ヶ谷 碧斗の写真がびっしりと貼り付けられていた。

「待て待て……こんな写真、いつ撮ったんだよ……」

 女装の写真は身に覚えがある。だが、他は全くだ。そもそも、授業中の写真なんてどうやって撮ったんだ?

 写っている角度的にも、教室内から撮影されているっぽいが……。

「これで分かりましたよね?薫叔母さんは関ヶ谷さんのことが好きなんですよ。それを否定したら、叔母さんの気持ちはどうなるんですか」


 確かに二兎里の言う通りかもしれない。誰かの自分への気持ちを否定するのは、気持ちを向けてくれている相手にあまりにも失礼な行為だ。

「でも、薫先生は教師だ。生徒の俺と結婚なんて無理だって、本人もわかってるはずだろ?」

「関ヶ谷さん、それは今の話です。結婚というのは今後何十年も続いていくものですよ?卒業してからなら、元生徒とでも結婚はできるんです」


 ……そう言えばそんな話をどこかで聞いたことがある。教師と生徒の恋愛が禁断とされているのは、愛するがゆえにその生徒を贔屓したり、卒業させてあげるためにテストの成績を書き換えてしまったりするのを防ぐためなんだとか。

 もちろん、恋愛という形でなくてもそういうことは起こりうるが、もし公に知られる関係であれば、周りは『あいつは先生と付き合っているから贔屓されている!』と思うだろう。

 そんな風評被害を防ぐための暗黙の了解でもあるのだ。

 だが、逆に言えば『贔屓されない立場』になれば、暗黙の了解は必要なくなる。あくまで『学生の時は恋愛感情がなかった』と言い張れば、教師と元生徒の結婚は十分許されるものとなるのだ。

 そう、薫先生との結婚は、俺が高校を卒業してからなら法的にも世間的にも許される行為となるのだ。


「いや、それでも俺は断るぞ!俺には好きな人がいるんだ!」

「……あの二人、ですか」

 俺の言葉を聞いた二兎里の瞳から、スッと光が消える。な、何だかやばい予感がするぞ……?

「安心してください、あの二人のことはすぐに忘れますよ。薫叔母さんと結ばれれば」

「ど、どういうことだ……?」

 俺が問い返すが早いか、二兎里は背を少しかがめると、スカートの中からスムーズな動きでパンツを取り出す。

 ちなみに、イルカのアップリケのついた水色のやつだ。……あ、どうでもいいか。

「待て待て待て!いきなり何やってんだ!」

 彼女が何をしようとしているのか、ある程度の察しが着いた俺は抵抗しようと体に力を入れる。

 だが、まるで何かに吸収されるかのように、入れたはずの力はどこかへと消えてしまうだけだった。

「私、気づいたんです。どうして関ヶ谷さんが薫叔母さんを受け入れてくれないのか……」

 二兎里はそう言いながら、脱ぎたてのパンツを無造作に放り投げた。そしてミシッという音を立てて、ベッドの上の俺に跨る。

「きっと、関ヶ谷さんが女の子の体を知らないからですよ。一度知れば、受け入れやすくなりますよね?」

 もう正気じゃない。頭のネジが数本……いや、数十本は飛んでる。きっと何を言っても、今のこいつには届かないだろう。

「ほ、本気……なのか……?」

「もちろんです。薫叔母さんのためなら、私の体くらいいくらでも捧げますよ」

 その言葉で俺は確信した。


 ……もう、逃げられないと。

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