第204話 幼馴染ちゃんは柴犬に命名したい
「この子の名前、なんて言うんだろ?」
早苗がそう言って首を傾げた。俺に懐いてくる黒い子犬は、首輪に『クロ』と書かれてあるが、柴犬の方には何も書かれていない。
俺は近くにいた店員さんに聞いてみることにした。
「この犬の名前、なんて言うんですか?」
すると店員の女性は「ああ、その子……」と一瞬目線を落とす。
「実はその子、2週間前に私が拾ってきたんです。元の飼い主に怪我をさせられたみたいで、人に慣れるようにとここに連れてきているんですけど、やっぱり自分からはどうも……」
確かに、よく見てみれば右耳の先端が少しだけ欠けている。隅でじっとしていたのは、人見知りとかじゃなく、俺たちに怯えていたのか。
人間はあいつは好き、あいつは嫌いと区別できるが、犬にとって人間はみんな人間だ。同じ人間なら、同じように叩いてくるんじゃないか。そういう風に考えてしまうのは当たり前なのだ。こんな子犬なら特にだ。
「ただ、名前がまだつけられていないんです」
店員さんは柴犬に歩み寄ると、その頭を撫でようと手を伸ばす。だが、柴犬は早苗の手のひらから離れると、彼女の背中へと隠れてしまった。
「私、怖がられてるんです。だから、私には名付ける権利がないなって思うんですよね……」
こんな場所で働くような人だ。犬が嫌いなはずはない。むしろ捨て犬を拾って助けてあげるくらいだから、彼女はきっと犬が大好きなのだ。
ただ、柴犬の方はそれを知らない。ただただ怖い人間だと思って、その行動一つ一つを恐れている。
人間でも、叩かれ続けた子供は頭を撫でようとしても、叩かれると勘違いしてしまうと聞いたことがある。それと何ら変わらないことが、柴犬の中でも起こっているのだ。
「……でも、お客様なら出来ると思うんです」
店員さんは早苗の目を見つめ、そして深く頭を下げた。
「お願いします、その子に名前をつけてやってください!」
おそらくもう二度と言われることがないであろうお願いの言葉。それを受けた早苗は、柴犬をそっと抱き上げた。
抵抗はしない。その小さくて愛らしい瞳でじっと早苗を見つめている。まるで、名前をつけられることを待っているかのように見えた。
「わかりました、私がつけます!」
早苗は大きく頷くとその場で立ち上がり、そして柴犬高く掲げる。
「キミには私の名前をあげる!今日からキミは『サナエ』だよっ♪」
早苗がサナエをぎゅっと抱きしめると、サナエは嬉しそうに鳴きながら彼女の鼻をぺろぺろと舐めた。
人を怖がる子犬が、信頼出来る人間に出会って名付けられる……実に感動的な話だ。ただ、俺は水を差す覚悟でひとつ言いたい。
「早苗、それじゃその子犬を呼ぶ時に困らないか?」
早苗とサナエ。わかりやすく例えるなら、同じ苗字のやつがクラスに2人いるパターンだろう。
『○○、これを解いてみろ』と言われたら、2人とも立ち上がっちゃうやつだな。
「ふふふ♪サナエ、くすぐったいよぉ〜♪」
まあ、2人が幸せそうならいいんだけど。
俺たちはその後、サナエとクロとひとしきり戯れ、幸せいっぱいな気持ちで店を後にした。
「また明日来よっ!」
早苗の言葉に、俺も満面の笑みで頷く。きっと明日も楽しい一日になるだろう。俺たちはそう信じて疑わなかった。
翌日の日曜日。俺と早苗は、またあの犬カフェを訪れた。カランコロン♪という耳障りのいい音が、また店内へと響く。
「店員さん!サナエはどこですか?」
「あ、昨日のお客様……」
店員の女性は早苗に話しかけられると、少し表情を暗くした。これはサナエに何かあったんだろう。俺も早苗も、反射的にそう感じ取っていた。
「実はサナエ、引き取られたんです。お客様のこともありますし、初めは断ったのですが……」
そこで店員さんは言葉を濁らせる。
「も、もしかして、無理やり連れていかれたんですか!?」
サナエに会えない悲しみと、知らない誰かに連れ去られたという悔しさが入り交じって、早苗は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「いえ、サナエがついていったんです」
「……は?」
「……へ?」
思わず俺も変な声が漏れた。それって、サナエが自分から着いて行ったってことだよな?早苗以外に懐く対象がいたとは……。
「そのお客様、黒い子犬を連れていらっしゃったのですが、サナエはどうやらその子に一目惚れしたようで……」
内気に見えて、恋に関しては積極的。そういう所も早苗そっくりだったとは……。
「申し訳ありません!あんな幸せそうなサナエを見るのは初めてだったもので……」
店員さんは早苗に向けて頭を下げた。早苗がサナエに会えなくなってしまったのだから、それに対する謝罪だろう。
確かに早苗は傷ついた。仲良くなって、名付けたその翌日に突然のお別れなのだから。でも、早苗なら分かるはずだ。好きな人について行きたくなるサナエの気持ちが―――――――――――――。
「サナエが幸せなら、私も幸せです♪」
早苗はそう言って、店員さんの手を握った。顔を上げた店員さんの目は少し潤んでいて、彼女も早苗と同じように、サナエのことを大切に思っていたんだと伝わってくる。
「サナエの幸せを止めないでくれて、ありがとうございますっ!」
早苗は笑顔でそう伝えると、店員さんはついに堪えていた涙を溢れさせた。優しさで悲しみを押し流してあげることが出来る。早苗のいいところだよな。
「お客様の髪、なんだかサナエと似ていますぅ……」
背中を撫でられた店員さんは、その頬に触れる早苗の髪に対してそう言葉をこぼした。
確かに早苗とサナエの毛質って近かったよな。というか、そもそも早苗の髪が犬っぽいってのもあるのか。
「……?私は早苗ですから、早苗の髪が私のと似てるのは普通ですよ?」
「……はぃ?」
やっぱり分からなくなってるじゃねぇか。
その後、俺たちは何も注文せずに犬カフェを出た。
目的はサナエだったからな。俺は悲しそうに見つめてくるクロを「また来るからな」と撫でてやってから、先に外に出た早苗を追う。
彼女は近くのベンチに座っていた。俺もその隣に座り、一つため息をついた。
「……早苗」
「……」
呼び掛けても返事はない。俺の中で『ああ、やっぱりか』という感情が芽を出した。
「……早苗、よく頑張ったな」
「……」
辛かったのは店員さんだけじゃない。早苗だってたくさん辛かったはずだ。なのに、彼女は店員さんの前で泣かなかった。グッと堪えてみせたのだ。
「……泣いてもいいんだぞ?」
「……」
彼女は首を横に振る。
「幸せを祝いきれないことが、サナエに悪いと思ってるのか?」
「……」
今度は小さく首を縦に振る。おそらく彼女の中では、サナエと会いたかった気持ちと、サナエに幸せになって欲しい気持ちとが葛藤しているのだろう。
そして少しでも自分側の幸せを考えてしまったことに、罪悪感を覚えている……。
「早苗、大丈夫だ。この店で犬を引き取るくらいなんだから、新しい飼い主もきっと近くに住んでるはずだからな。いつかまた会えるだろ」
「……そうかな?」
「ああ、きっとな」
俺が頷いて見せると、それまで強がっていた彼女の表情が一気に崩れた。
「サナエぇぇぇ……」
「よしよし、好きなだけ泣け。俺が泣き止むまでそばにいてやるから」
彼女を強く抱き寄せ、髪を優しく撫でてやる。彼女が顔を埋めた俺の胸元は、色んな液体でびしょびしょになっていたが、そんなことも気にせずに俺は彼女を抱きしめ続けた。
「泣き止んでも、ずっとそばにいて……」
彼女の囁きは、俺の耳には届かずに消えた。
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