第109話 俺は(偽)彼女さんを見送りたい
『文化祭が終わった後、笹倉さん、両親のいるベトナムに行ってしまうそうよ』
あの時の薫先生の言葉が脳内に反響する。
俺はどうして今まで忘れていたんだろう。いや、演劇の前までは、確かにその事で頭がいっぱいだったはず。忘れていたのはその後か……。
きっと、笹倉との仲直りが上手くいったせいで、嫌な未来から目を背けていたんだろう。そんな自分が自分でも嫌になる……。
確かに今日は忙しかった。演劇の代役に、魅音の人見知り克服、
巻き込まれた同然のものもあったが、どれもこれも大事な事だった。だが、何と比較しても、笹倉の方が圧倒的に大事に決まっている。そんなことくらいわかっているはずなのに、忙しさの下にその大事なことを隠してしまっていた。
俺的には、あのまま何も知らずに、思い出さないまま終わったなら、こんなにも悩まなくて済んだのかもしれない。その方がずっと楽だったのかもしれない。
でも、その楽さはきっと幸せには繋がらないだろう。何もしなかったことへの後悔は、これからもずっと残る。笹倉との思い出がある限り、影のように延々と付きまとってくるはずだ。
俺はそんなこと、耐えられない……。
「……笹倉だ」
だから、この一言を切り口にして、俺は進むことを決心した。直後、彼女の勝利の決定に、猫カフェ一帯が盛り上がる。だが、俺はそんな気分にはなれなかった。
臭いものには蓋をしろ。ならば、臭くないものは蓋をしなくていい。俺達の思い出は……臭くなんてない。だから存分に開きっぱなしにさせてもらう。笹倉と離れ離れになっても、いつでも気軽に帰ってこられるように、全開にしておくんだ。
…………それが彼氏である俺の役目だろ?
「笹倉!ちょっと話したいことがある!」
まるで戦国武将が自らの名を告げる時のような、ハキハキとした口調。笹倉は勝利の喜びに少し頬を赤く染めながら、「なにかしら?」と首を傾げた。俺はそんな彼女に歩み寄り、その手を握る。
「……え?」
彼女は不思議そうな顔でこちらを見た。きっとこれから俺が言おうとしていることに思い至っていないのだろう。なら、この一言で気づかせてやる。
「笹倉、ベトナムに行くらしいな」
「……ああ、知っていたのね」
彼女は、知られちゃったかぁ……というような顔をすると、「秘密にしてって言ったのに、薫先生、話しちゃったのね」と言った。
「しばらくベトナムに行くから、その間は碧斗くんに会えないわ。電話はするかもしれないけれど」
「そうか……しばらく、か……」
やっぱり薫先生が言ってたことは本当だったんだな。具体的な日数はわからないが、この言い方だと相当だろう。彼女も日本を離れることに対しては、辛いという気持ちも持っているはずだ。ならば、せめて別れの時くらいは笑顔でいてやりたい。
「こんな時に言うのもなんだが……楽しめよ、ベトナム」
そう言って笑いかけると、笹倉もまた、「ええ、楽しんでくるわ」と笑い返してくれた。この思い出だけで、俺はずっと彼女を想っていられそうだ。
「あ、ベトナムついでに聞きたいのだけれど、いいかしら?」
「なんだ?」
笹倉はふと思い出したかのようにそう聞いてくる。彼女は、続くであろう言葉に耳を傾ける俺から一度視線を外し、スマホを取り出していくらか操作すると、ひょいっと画面をこちらに向けた。
そこにはベトナムで売られている衣装や布、置物などが表示されていて……。
「お土産は何がいいかしら?」
「……え?」
俺は思わずおかしな声を漏らす。いつ帰ってくるかもわからないのに、お土産の話をするのか?おかしな奴だな……。
「笹倉、しばらく帰ってこないんだろ?それなのにお土産なんて決めちゃうのか?」
そう言って首を傾げると。
「だって5日間も帰ってこないのよ?」
笹倉はそう言って表情を曇らせた。でも、あれれ〜?今、おかしなことが聞こえたような気がするなぁ……。
「えっと……5日間ってどういう……?」
俺の戸惑いながらの質問に、笹倉は眉をひそめつつ答えた。
「そのままの意味よ?ほら、明日から代休も合わせて5連休でしょ?それを利用してベトナムに行くの」
あ、そう言えば明日から休みなのか。忙しかったからすっかり忘れてた。それにしてもベトナムに行くのが5日間だけだなんて――――――――――――って。
「はぁぁぁぁぁ!?待て待て、5日間のどこがしばらくなんだよ!」
確かに人それぞれに長さの感覚はあるが、いくらなんでも5日間をしばらくだなんて……。
「だって、碧斗くんと5日間も会えないのよ?この1ヶ月間は、毎日学校で顔が見れたから耐えれたけれど……それも無理だなんて、耐えられないわ……」
笹倉はそう言ってブルブルと身震いをした。そんな彼女を間近で見る俺の心は……大荒れだ。
いや、理由が可愛すぎるだろ!反則もんだぞ、これ!!!確かに俺も、笹倉と5日間会えないし話せない状態になったら、干からびて死んでしまうかもしれない。彼女もそれと同じ気持ちなのだろう。
それがわかった瞬間から、俺はしばらくを否定できなくなった。そして同時に、彼女と離れるのが寂しくなってしまった。無意識に涙が溢れてくる。
「笹倉ぁ……早く帰ってきてくれよぉ……?」
らしくない泣き顔を見せたせいか、彼女は心配そうな表情で俺の頭を撫でてくれる。そして、優しい声で言ったのだ。
「お土産は催涙スプレーでいい?」
「俺の気持ちが伝わっていない!?」
「いや、碧斗くんの泣き顔、予想以上によかったから……」
「マトリョーシカでお願いします……」
彼女のSな部分が垣間見えた瞬間だった。
ちなみにその後、「マトリョーシカはベトナムじゃなく、ロシアの民芸品よ」とマジレスされたことは秘密だ。いや、知ってたけどな?
その後、少し働いてから俺達はカフェ業務ネコを卒業した。つまり、シフトの時間が終わったってことだ。
後で聞いてみると、笹倉がベトナムに行くのが5日間であることを、唯奈は知っていたんだとか。どうして教えてくれなかったんだ、と聞いたところ、「いや、あおっちとあやっち、別れたフリしてたんじゃん?だから声掛けづらくてね〜♪」と言われた。はい、ごもっともです。
店を出てからぶらぶらと敷地内を歩き回り、気になる店を巡っていると、少しずつ時刻も進んで、空もほんのり赤みを帯びてきた。
他校から遊びに来た学生達、保護者の人達、招待されて来た地元の友達などの中には、十分に堪能したと満足そうに帰っていく人もいる。
まあ、俺には招待できるような距離に母親もいなければ、他校に友達もいない。親戚ならいるが……彼女らも招待したいとは思わないな。そもそも最近会ってないし。
「咲子さんは来なかったのか?」
向かいから歩いてくる人を避けつつ、なんとか俺の隣を歩こうとついてくる早苗にそう聞くと、彼女は残念そうな表情で首を横に振った。
「朝早くに担当編集から呼び出されたらしくて……。来ようとは思ってたんだけどって……」
「ああ、だから今日は朝から家にいなかったのか」
売れっ子小説家様も大変なこった。まあ、仕方ない事とはいえ、親が来れないというのは、早苗も少し気にしているのだろう。彼女は晩年甘えたがり期だからな。
マザコンとまでは行かなくても、俺は2人が喧嘩しているところを見たことがない。もしかしたら知らないところで1、2度はあるのかもしれないが、普通の母娘にしては少ないと思う。
咲子さんもあんなだが、母親としてはしっかりした人だからな。きっと来れないことを本当に悔やんでいるだろう。だから、これは彼女へのプレゼントだ。
俺はポケットからスマホを取り出すと、カメラアプリを開いて――――――――――――カシャッ。
「……え?」
曇りがかった早苗の顔を撮影した。そして、それを咲子さんへと送る。
「『あなたの代わりに俺がこいつを笑顔にしときます。だから安心していい小説書け』っと……」
送信が完了してから5秒後、早くも返信が返ってきた。
『それは早苗を嫁に貰うってことでいいわね?よし、結婚式の準備よ!』
『んなわけねぇだろ。小説の書きすぎで思考ぶっ飛んでんのか?あ?』
『あ、碧斗君が怖いわ……。結婚式の話はまた後日ということで……』
最後の返信に、『未来永劫その話をすることは無いだろうな』と送ろうとして、ふと手を止めた。もしも、なにかの弾みでこの文章を早苗がみたとすれば、彼女はどう思うだろうか。きっと悲しむだろう。
『今は保留にしといてください』
そう文章を変更して送信した。直後に何か返ってきた気がするが、気にすることなくポケットにしまう。
「あおくん、どうかした?」
早苗にそう言われて、俺は無意識に口角が上がっていたことに気がつく。
「……気持ち悪いわよ、碧斗くん」
笹倉には腕組みまでして睨まれてしまった。
「なんでそんな毒舌キャラ!?もしかして怒ってるのか?」
「知らないわよ!ほら、行くわよ!私、まだ綿菓子食べれてないんだから!」
何故か突然不機嫌になってしまった笹倉。彼女を追いかけるように、俺と早苗は屋内店舗を見るため、校舎へと踏み込んでいった。
その後、わたがしは売り切れてしまっていて、笹倉が更に不機嫌になってしまったのだが、それはまた別の話である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます