第36話 俺は露天風呂に入りたい

 夜、ホテルの大風呂にでも行こうかと、着替えの準備をしていた時のこと。

 部屋の中にインターホンの音が響いた。それに続いて、ハードボイルドっぽい声が聞こえてくる。ハードボイルドが何なのかは知らないけど。

「あお坊、ちょっといいか」

 大和さんの声だ。彼は確か、一つ下の階に泊まっているんだったっけ。わざわざ来るってことは、何か大事な用事でもあるんだろうか。

「いつから俺はあお坊になったんですか」

 そう言いながらドアを開けると、大和さんはニコニコなのかニヤニヤなのか、よくわからない表情で立っていた。

「いいだろ?前の正月に彩葉をあや坊って呼んだら、なんでか1ヶ月口を聞いてくれなかったんだよ。兄貴面したいだけなのによぉ〜」

「そりゃそうなるでしょうよ……」

 この人、どこか抜けてるんだよな。笹倉への家族愛が強いからこそなんだろうが、拒絶され続ける大和さんを想像すると、ちょっと痛々しい……。

 痛々しいといえば、大和さん、いつの間に回復したんだろうか。

「呼吸停止してましたけど、もう大丈夫なんですか?」

「ああ、もう元気モリモリだ。ほら!」

 大和さんはそう言いながら、その場でスクワットを始める。確かに元気そうで良かった。ただ、部屋の前を通り過ぎる人に2度見されてるから、ちょっとやめて欲しい。

 俺は大和さんを部屋の中に押し込み、ドアを閉める。これで筋トレを始められても大丈夫だろう。

「元気なのはわかりましたから。どうして来たんですか?」

 俺がそう聞くと、大和さんは「あ、そうだった」と、腕立て伏せをしようと床についていた手を上げ、近くにあったベッドの端に腰かけた。そして、お前も座れとベッドを軽く叩く。

 ボディビルダー顔負けの肉体を持つ大和さんの隣ということに、少し躊躇いを感じたが、俺は素直に座ることにした。

 俺が隣に座ると、大和さんは小さくため息をつくと、決心したように大きく息を吸ってから俺の方に顔を向けた。

「あお坊は彩葉とどこまで進んだんだ?」

「……は?」

 思わず声を漏らした。どこまで……とは、どういう意味だろうか。

「いや、変な意味じゃないんだ。手を繋いだとか、ハグしただとか……」

 なるほど、そういう意味か。なら、そうだな……。

「キスまでですかね」

「き、きききききキスぅぅぅぅぅ!?」

 まあ、キスと言ってもほっぺにだけどな。嘘は言っていないからセーフだろう。これが嘘をついたということになって、閻魔様に下を抜かれることになったら、俺は最高裁に訴えてやるつもりだ。地獄に裁判所なんてないだろうけど。

 俺の回答は大和さんの予想の範囲外だったらしく、驚きすぎて開いた口が塞がっていない状態だ。ちょっとからかいすぎたかもしれない。

「キスと言ってもほっぺにですよ」

「な、なんだ。唇かと思った……。ちなみに、それはあお坊からか?それとも彩葉からか……?」

「後者です」

「…………」

 大和さんの表情は、効果音をつけるとすればまさに『ガビ―――ン!』だろう。

「お、俺でもしてもらった事ないのに……」

「いとこにはしないんじゃないですか?」

「赤の他人のお前にはしたのにか?」

「彼氏ですから」

「ぐふっ……」

 胸を抑えてベッドに仰向けに倒れる大和さん。また呼吸停止かと思ったが、今度はちゃんと息をしている。

「大和さんって、本当に笹倉のことが好きですよね」

 起き上がろうとはせず、天井を見つめている彼に、俺は何気なくそう言う。だが、その瞬間、明らかに大和さんの表情が変わった。

「……彩葉は大事な家族だからな」

「それってどういう…………いえ、なんでもないです」

 家族という言葉にやけに気持ちが込められているような気がしたが、目を閉じて黙る大和さんの表情が、『これ以上何も聞くな』と言っているような気がして、俺は出かかっていた言葉を、腹の奥に飲み込んだ。

「そうだ。あお坊、風呂はまだだろ?一緒に大風呂でも入りに行くか!」

 ベッドから勢いよく起き上がった大和さんは、さっきとは打って変わって、明るい表情と声で俺に言った。

「……いいですね!行きましょうか!」

 大和さんが、笹倉の何を隠しているのかは分からないが、伝えないということは、今はその必要がないということだろう。ならば、俺も知る必要はあるまい。

 そう自分に言い聞かせるように心の中で呟いて、俺は着替えとタオルを手に取って、大和さんと一緒に部屋を出た。

 部屋のカードキーも忘れずに持ち、大和さんの部屋に着替えを取りに寄ってから大風呂へと向かう。

 最近は銭湯にも行ってなかったし、広い風呂に入るのはかなり久しぶりでわくわくする。露天風呂もあるらしいし……と、俺は胸を躍らせながら男と書かれた暖簾のれんをくぐった。



「ふぇぇ……いい湯だなぁ〜」

 肩まで湯に浸かりながら、俺は思わずおじさん臭い声を漏らした。

「やっぱり露天風呂は違いますね」

「そうだなぁ」

 大和さんもすぐ隣で満足そうに頬を緩めている。

 室内にある泡風呂だとか、電気風呂だとかを堪能した後だと言うのに、体の奥底に残っていた疲れが、露天風呂の湯に溶け出していっているような気がする。やっぱり俺、疲れてたんだな……と実感させられてしまう。

「なぁ、あお坊」

 露天風呂の縁に背中を預け、ゆったりとくつろいでいる大和さんが顔だけをこちらに向ける。

「なんですか?」

「お前、彩葉のどんなところが好きなんだ?」

「ひゃうっ!?」

 思わず情けない声を上げてしまったのは、答えるのが恥ずかしいことを聞かれたからではない。大和さんの指が俺の背中をツーっと撫でたからだ。

 大和さんの顔を見てみれば、意地悪な笑顔を浮かべている。この人、絶対わざとやっただろ……。

「や、やめてくださいよ……」

 温泉の熱に当てられたのか、はたまた変な声を聞かれて恥ずかしいからか、顔がすごく熱く感じる。

 大和さんはそんな俺を見て大笑い。性格いいのか悪いのか、わかんなくなってきたぞ……。

「で?そんだけ恥ずかしい思いしたら、答えられるだろ?彩葉のどこが好きなんだ?」

 なるほど、大和さんなりに気を遣ってくれたのか。……って、そんなことされなくても答えれたんだけどな。

 まあ、ここは彼の面子を保つためにも、何も言わないでおこう。

「そうですね……。普段はクールでかっこいいのに、時々見せる子供っぽさだったり、女の子らしい可愛さだったり……そのギャップですかね」

 俺は今までに見た笹倉の可愛いシーンを思い出し、思わず頬を緩ませる。だが、大和さんも全くの同意見だったらしく、「そうだよな!」とテンションが急上昇。

「あいつ、いつもは俺のことを嫌ってる風に見えるんだが、時々優しいところを見せてくれるんだよな」

「すごいわかります!」

 俺が大和さんに砂をかけた時も、笹倉は砂を払ったりして、優しい一面を見せていた。そのあとはずっと不機嫌だったけどな。

「あ、そういえば笹倉って――――――――――」

 笹倉トークに火の着いた俺達は、もう止まることを知らなかった。

 周りに誰もいない貸切状態ということもあり、俺と大和さんは、のぼせるまで笹倉について語り合ったのだった。




「さすがにのぼせすぎたな…………あ、笹倉」

 大和さんはもう少し休んでから部屋に戻るということで、先に着替えて男と書かれた暖簾を反対からくぐると、女湯側から出てきた笹倉と偶然鉢合わせた。濡れた髪とパジャマというラフな格好が、どこか色っぽく見える。

「あ、あら……碧斗くんも入ってたのね……じゃあ……」

 そうとだけ言って部屋に戻ろうとする笹倉。何か様子がおかしいと思い、肩を掴んで止めさせる。

「おい、何か変だぞ……って、顔真っ赤じゃねぇか!」

 振り返った彼女の顔は真っ赤になっていた。

「な、なんでもないわよ……」

 笹倉はぷいっと顔を背ける。

「そんな顔でなんでもないわけないだろ!ほら、よく見せてみろ」

「え、いや、その……」

 彼女の頬に手を添えて俺の方を向かせるが、目を合わせてくれない。彼女の顔の赤さは良くなるどころか、耳まで真っ赤になってしまった。

「わ、私は部屋に戻るから……おやす……あっ」

 俺の横を通り過ぎて部屋に戻ろうとする彼女は、ふらっとよろけて壁にぶつかってしまう。

「大丈夫かよ……」

 慌てて彼女に駆け寄り、肩を支える。

「歩けるか?」

「……」

 笹倉は無言で首を横に振る。

「ったく……仕方ねぇな……」

 俺は廊下を見渡し、誰もいないことを確認すると、笹倉の前でしゃがむ。

「ほら、乗れ」

「……うん」

 彼女の体重が背中に乗ったのを感じると、俺はゆっくりと立ち上がる。そして、そのまま部屋まで戻った。

 シャンプーの匂いと彼女の体温をいっぱいに感じられる幸せな時間だった。もう少し続いてくれてもよかったんだけどな。

 部屋の前で別れる前、笹倉に「碧斗くんはクールな私の方が好き……?」と聞かれ、思わず聞こえなかったふりをしてしまったが、彼女の顔が赤かった原因ってもしかして――――――――。

 そう言えば、露天風呂って女湯の露天風呂に声が筒抜けだったんだよな。

 やっちまったぁぁぁ……やばい、恥ずか死にそう。

 でも、過ぎたことは仕方がない。寝たら忘れてるかもしれないしな。

 俺はそう思い直し、とりあえずは熱くなった顔を洗って冷まそうと、早足で自分の部屋に戻る。

 だが、ドアを開けたところで、俺は思わず手に持っていたカードキーを床に落としてしまった。

「お、お前……」

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