朱血姫

ガチ無知

第1話 プロローグ

原爆投下、迎撃もかなわぬ高高度からの大量爆撃。生活基盤から誇りに至るまで根こそぎ奪われた敗戦を経て、やっと復興の目処も付いた、日本がまだまだ貧しかった頃。下町の裏通り。木製の電信柱に取り付けられた街灯。金属の簡素な傘がついた白熱球には、一匹の小さな蛾が懲りもせず体当たりを繰り返しながら、踏み固められた赤土の地面に自らの影を映す。薄汚れた下駄を履き、油染み膝の出たズボンに襟首の延びたシャツを着た男がふらふらと歩いてきた。一杯引っかけた帰りなのだろう。首に日本手ぬぐいを掛けている。所々、インク染みの汚れがついている。印刷工の様だ。男は爪楊枝を咥えたままげーふと下品なげっぷを吐いた後、道端に立ち小便を始めた。長い梅雨が明けたばかりの深夜。男の肌を見ると、ところどころが汗でテラテラと光っている。蒸し暑いのは間違いないが、自堕落な生活をしているのであろう。鼻歌交じりに用を足しながら、ふと行く手を見る男。闇から生まれたように少女が立っていた。いぶかしげに周りを見渡すが、自分と少女の他は誰も居ない。


暗闇に浮かぶように見えたのも無理はない。少女は白いワンピース姿で、滑らかで傷一つ無い陶器のような肌をしていた。素足の縁には土がついているが、それ以外汚れているところは見当たらない。肌も不自然で人工物のような白さだ。少女は八歳ほどだろうか。男の腰ぐらいの身長だ。濡れるような艶やかな髪は、真っ直ぐ背中に落ちている。カミソリで真一文字に斬って出来た様な切れ長の瞳をしている。一重なのだが黒目がちの、こちらの精神が吸い込まれるような瞳をしていた。少女の表情は人工物のように無感情だ。男は慌てて小便を切り上げるとズボンのチャックを上げて少女に向かい合った。少女との距離は十メートルほどだろうか。それほど離れているのに、なぜ少女の詳細が見て取れたのか。長年の活字拾いで視力はそれほど良くはない。なぜこの薄暗い道で、これだけ距離が離れていて見えたのか。少女と目があった瞬間、男は理解した。捕食者と相対したことで生存本能に突き動かされて、五感が限界まで集中しているのだと。被捕食時には照れくささに似た感情が起こるのだなと男はぼんやりと考えた。こんな事なら、風呂に入って綺麗な身体にしておけば良かったと思った。既に喰われることを覚悟しているのだった。この瞳からは逃げられない。男はそう直感した。ドッっと音がした直後、目の前に少女が立っていた。焦げたような匂い。少女は一足飛びで、この距離を縮めてきたのだ。


「すまぬな。腹が減ったのでな。血を少し貰うぞ」


少女は言うと、男の両腕を掴んだ。少女の仕草はごく自然に父に甘えて両手を取ったように見えたが、万力で締められたような有無を言わさぬ力強さを男は感じた。。下に引っ張られる腕。抗えない強さの力だった。抵抗する気も従う気も浮かばない、魂が抜けた様に男は堪らず膝をつく。少女は右手を男の肩に置き、左手は男の頭頂に置いた。首をかしげる形になった男の首筋に少女の唇が近づいていく。ゾッとするほど赤い唇が開くと、二本の牙がのぞいた。ぞぶり。という音を残して男の首筋に牙が穿たれる。腰の辺りから脳天に突き抜けるような痛みを感じながら、男はおびただしい量の精液を下着の中に放出した。

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