時計台のみがそれを知る
新田五郎
中編です、すぐ読み終わります
病室。
夢の中のの山岸ユタカは、小学生になっている。
そして、ベッドに寝ている。
「手術なんか、したくない」
わがままを言う、少年となったユタカ。心配そうな母親の顔。やがてノックの音がすると、出入口の上部に頭をぶつけないよう用心しながら、長身の黒人が入ってきた。
その男は高級そうな紺色のスーツに身を包んでいた。彼は、流ちょうな日本語で、こう言った。
「やあ、キミが山岸ユタカくんだね。ぼくが次の試合でホームランを打ったら、手術を受けると約束してくれるかい?」
そうだ、この人はプロ野球選手なんだ。ユタカは思い出した。自分が小学生の頃に憧れていたいわゆる「助っ人外国人」選手だ。
ユタカの顔は、喜びに輝いた。
彼は勢いよく「はい」と返事をしようとして、口を開けた。
すると、それと同時に、すさまじく大きな鐘の音が、病室に飛び込んできた。
ユタカもそこにいる彼の母親も、紺色のスーツを着た黒人の野球選手も、思わず耳を覆った。
そして、ユタカは目が覚めた。
1
ユタカがフクロウ型の置時計に目をやると、午後五時だった。夕方である。
昼寝のつもりが、こんな時間まで眠ってしまったようだ。
ひどくリアルな夢を観ていたらしいが、鐘の音だけは本物だった。
街の時計台から、午前十時と午後五時の二回、鐘の音が流れるようになっているのだ。
この時計台を管理するのが、山岸ユタカの仕事だった。
この時計台は、ユタカの祖父・山岸豊三郎(とよざぶろう)がずいぶん前に建てたものである。これには人が一人住める程度の居住区域があり、ユタカは、そこに住んでいる。
時計台の内部は、昔の映画に出てくるような、大きな歯車がいくつも回っているようなものではない。コンピュータ制御できるようになっており、白い巨大な柱のようなものがてっぺんの時計までつながっている。
つまりこの時計台は、外壁と、時計を動かすための機械が詰まった「白い巨大な柱のようなもの」の二重構造になっている。
この白い「柱のようなもの」の外側に、広めに取ったスペースがある。時計台全体は人間が動き回れる個所として一階から五階まで、天井と床で分断されている。それに階段が通っており、それを登って行けばいちばん上まで行くことができるし、各階でそれぞれ、「白い柱のようなもの」に付けられたドアで中に入り、メンテをすることができる仕組みになっている。
ユタカの居住部分は、一階の片隅にあった。四畳半くらいの広さだから、逆に時計台内部の人間が動き回れる「幅」も、四畳半の部屋の一片くらい、ということになる。
山岸ユタカの祖父・山岸豊三郎は、この街の名士だった。
そして晩年、自分の業績を讃えるかのように、自らこの時計台を建てたのである。
この時計台の管理は、たいした仕事ではない。ここ半世紀もの間、何段階かの改良を経て、時計はコンピュータで管理されるようにしたし、そのコンピュータも外部からシステムエンジニアを呼んで定期点検している。建築自体も、非常に頑丈にできていた。
建物全体のデザインは非情に古めかしいもので、昔の童話にでも出てくるような外観だった。てっぺんの、赤い三角形の屋根などは、郷愁を誘う。
ユタカがだれかに聞いたところによると、「どこかの国にありそうで存在しない」不思議で巧妙なデザインだということだった。
この時計台管理の仕事にやりがいはあるか? と問われたとしたら、それに答えるのはユタカにはなかなかむずかしい問題だ。
この仕事を始めてから三十年間、自分の人生の違う可能性について考えてみたが、ユタカに答えは出なかった。
彼は、目覚めた後も自室のベッドに横になったままだった。何となく動けなかった。むろん、夢の中のように現実の山岸ユタカは小学生ではない。
もう四十代後半の、ただの中年の独身男だ。
いつの間にか、横になったまま二時間が経過していた。
さらにもう一時間経った頃、ユタカはようやく起き出して、枕もとのペットボトルから水をひと口飲んだ。
午後八時、窓の外は真っ暗だった。
2
楠本(くすもと)サオリは、山岸ユタカの祖父の時計台の管理にあたって、ごく短期間、アルバイトとしてユタカが雇っていた女性だった。
「時計台の管理は簡単」とは言ったが、五十近くなって、ユタカにはだんだんきつくなっていったことは事実だったし、コンピュータ部分について知識のあるアシスタントが欲しいと思っていた時期でもあった。
だから、彼女を雇った。
確か、サオリは二十代後半くらいだったと思う。
化粧っ気がなく、着古したTシャツにGパンというラフな格好で面接にやってきたことをユタカは覚えている。
明らかに流行遅れの、赤いフレームの大きなめがねをかけていた。彼女の顔には少し大きいサイズで、心理的に顔を隠したいがために、大きめのめがねをかけていたのではないかと山岸ユタカは思ったが、勘違いかもしれない。
彼女は不愛想だったが、ユタカに悪印象はない。仕事はテキパキやった。山岸ユタカは彼女に好感と呼べる感情は持っていなかったが、とくに嫌いだとも思っていなかった。
ところが、アルバイトも三か月を過ぎた頃、突然、彼女は失踪してしまった。
いつも来るはずの時間にやって来ず、こちらから彼女のアパートに電話したら、母親が出た。そして「姿を消してしまって、ここ数日、帰ってこなくて困っている」と言われたのだった。
ユタカは、単に彼女とは雇い主とアルバイトとという関係でしかなかったけれども、そのことに動揺した。
人が一人、何の前ぶれもなく消えてしまうことに恐怖をおぼえたのだ。
数日して、楠本サオリには捜索願が出されることになったと、彼女の母親からユタカに連絡があった。
その後もしばらく、彼女の両親やら、きょうだいやら、友人やら、警察官やらがユタカのところに来ては事情を聴いてきた。とくに彼女の父親は印象が悪かった。こちらに何の落ち度もないのに、電話で怒鳴りつけられた。言い返そうと一瞬思ったが、無駄なエネルギーを使うのもバカバカしいと思い、やめた。
もちろん、彼には何の心当たりもない。失踪の動機も、いつまで調べてもはっきりしないようだった。
山岸ユタカは生意気にも、失踪前の彼女を「救えた」のではないかと考え、苦しんだこともある。その失踪には何ら、前向きなものが感じられなかったからだ。どうせ、どこに棲み処を移したところで、都心部の近郊には、似たような光景が広がっているだけなのだから。
むろん、都心に行っても、地方に行っても同じことだ。
しかし、やがて自分が何をどうしようと、彼女の失踪は止めようがなかった、というふうに、ユタカの気持ちは変わっていった。
何しろ、彼女がふだん何を考えているのかさえ、彼にはわからなかったのだから。
彼女の両親、きょうだい、友人、あるいは警官たちは、それぞれ彼女が行方をくらました動機について、予想したことをユタカに語った。
孤独だったのかもしれないとか、大きな失恋をしたらしかったとか、生まれつき人生に虚無感を感じていたとか。
そう語る彼らは、自分で語りながら、何らかの納得を自分の中で得ていたようだったが、ユタカには腑に落ちるような動機は、少しも見当たらなかった。
3
午後八時になり、ようやく起き出したユタカは、夜の街に出てみる。
祖父の建てた時計台がいちおうのシンボルになっているこの街は、騒がしいところのない、昼間から夜まで、ずっと静かなところだった。都心から離れているのがその理由のひとつだろう。
午後八時頃の外の世界は、会社から帰宅を急ぐサラリーマンやOLなどが多かった。繁華街から一本、そしてさらにもう一本、はずれた裏路地を歩くと、小さな飲み屋やバーなどがたくさんあり、大きな窓から人々が楽しそうに酒を飲んだり料理を食べたりしているのがはっきりと見える。
そこを歩いて通り抜けていくと、店内の笑顔の人々が、ユタカにはひどくうらやましく思える。
しばらく歩くと、長かったその路地も終わる。そして路地を抜けたところに大きな公園があり、その片隅に、奇妙な建物があった。
それはどう見ても空飛ぶ円盤、UFOにしか見えない建物だった。
球体を縦につぶしたような外観で、楕円形の窓が横向きに、七つか八つ、開いている。
窓にはガラスが入ってはいなかった。中は真っ暗で、何も見えない。
内部には大人なら五、六人、子供ならもう少し入れるだろう。
八本の細い鉄の脚に支えられ、公園の隅っこに、それは存在していた。
もともとは一九六〇年代、組み立て式の「別荘」としてアメリカの住宅会社が発売したそうだが、思ったよりも売れず、すぐに発売中止になった。
ものすごく先走った未来的デザインが、受け入れられていた時代のしろものである。
その中のひとつが、半世紀を経て、どういうわけかここにあるというわけだ。
日本人の金持ちがうっかり個人輸入してしまい、思ったほど使い勝手が良くなく、かといって他に使い道もないので公園に寄付したのではないか、というのがユタカの予想だった。
ドアが下部の蝶番で開閉し、そのままタラップになる仕組みである。昼間は公園の管理人が入り口を開け、中に入れるようにして子供たちの遊び場になっているが、夜になるとタラップを上げて鍵を閉めてしまう。
発売当初は「未来っぽさ」が大きな売り物だったのだろうが、六〇年代当時はトイレもなく、エアコンを取り付けるにもたぶん面倒があって、かなり住環境は悪かったのではないだろうか。今となってはデザインも、建材そのものも風化してしまい、遊びに来る子供たちにもさして人気がないのは、ユタカも知っていた。
どうせ、入ってみても内部には何もないのだ。
「どうも、こんばんは」
ユタカがそのUFO型の建物を眺めていると、不意に後ろから声がした。
振り返ると、上質なスーツを着た、長身の黒人男性が立っていた。
夢の中に出てきた、あの野球選手だった。
その男が、目の前に立っている。
ユタカは驚いて、しばらく言葉を失っていた。
「驚かせてしまってすみません。私はビリー・デクスターという者です。アメリカ人です。あなたは、この建物に興味があるのですか?」
黒人男性は、こなれた日本語でユタカに訊ねて来た。
まず名前が違っていた。顔も、よく見ると似てはいるが、微妙に違う。そして物腰からして、この人は何となくスポーツ選手ではないな、とユタカは直観的に思った。
「あ? ああ。私は山岸ユタカ、と言います。興味があるかと問われると……何とも言えないな」
ユタカは曖昧な返事をして頭をかいた。本当に、ただ何となく眺めていただけだから、ウソを言ったわけではない。
「あなたはこの建物に興味があるんですか? 建築評論家か何かですか?」
ユタカが逆に質問すると、ビリーと名乗った男は照れもせずにこう言った。
「私は、UFOの研究家なんです」
4
山岸ユタカとビリー・デクスターは、公園のそばにあるチェーン店のカフェに入った。ホットコーヒーが一杯二百円の店だ。店内は、仕事を終えた人々でそこそこ混んでいた。
ふだんなら、公園で知り合った人間といきなり喫茶店に入るようなことは、人見知りのユタカにはあり得ない。
だが、夢に出て来た男がそのまま現実世界に出て来たのなら、話は別だ。
彼はこの街での案内人を探しており、ユタカにはその時間があった、というのも理由の一つだが。
「UFOっていうと、宇宙人が乗って地球にやってくるという……アレですか?」
ユタカがそう切り出すと、ビリーは下を向いてくすりと笑った。もう何百回も聞かれている質問を、またされたという顔だった。そしてこう言った。
「私は、その見解をとっていません。UFOとひと口に言っても、さまざまな説があるんですよ。成層圏のあたりを飛んでいる未知の生物だという説まであります」
「すると、あなたはどんな説を取っているんです?」
ユタカは、すかさず聞き返した。
「UFOは異次元から来ている、という説です」
ビリーはまっすぐに目を向いて、ユタカにそう言った。彼は、ビリーが何を言い出すか緊張していたが、それを聞いて一気に拍子抜けしてしまった。
「宇宙から来た」を「異次元から来た」に変えたところで、ユタカに言わせれば、それは何も言っていないのと同じである。ますます検証しにくくなるだけではないか。「蓬莱山から来た」とか「竜宮城から来た」と言うようなものだ。
「はあ」
思わず、落胆がユタカの顔に出てしまったらしい。ビリーはそれを見てとって、すぐに説明をつけくわえた。
「『異星人が科学力によって、UFO……空飛ぶ円盤をつくり、それを飛ばして地球に来ている』というのは、やはりちょっとありえないと思うんです。いろいろな事例を調べると、それに当てはまらないような不思議なことが、たくさん起きているんですよ」
ユタカはビリーの真剣な顔を見ながら、考え込んでしまった。彼が社会的にまともな人間であることは確信できた(本業は貿易商だとか言うことだった。英文で書かれた名刺ももらった。後に検索してみると、きちんとその会社は存在していた)。しかし、UFOに関しては、言っていることが荒唐無稽すぎる。
「それで、なんでこの街に来たんですか」
ユタカは、そう聞き返すしかなかった。
「半年前に、このあたりにUFOの集中的な目撃が起きていたからです」
5
UFOの、ある時期、ある地域での集中的な目撃の増加を、「フラップ」というらしい。彼は、そうビリーから聞いた。ユタカはまったく知らなかったが、半年ほど前にそういう「集中目撃」がこの街であいついだらしいのだ。
「それで調査に来た、というんですか」
「そうです」
ビリーはうなずいた。
「しかし、短期間での調査には、この街をよく知っていて、案内してくれる人が必要です。UFOの出現と、その地域性とは決して無縁ではないからです。市役所に行っても当然、まともな対応はしてもらえなかったし、このあたりをカバーするUFO研究団体も日本にはもうなくなっていて(UFO研究家自体が減少の一途をたどっているという)、困っていたところをあなたに会えたのは、ラッキーでした、山岸ユタカさん」
「そんなもんですかね。あまりお役に立てないと思うけど……」
会えてよかった、と言われて照れくさくなり、ユタカは頭をかいた。他人に必要だと面と向かって言われたのは、ひさしぶりだった。
気をよくしたユタカは、ビリーにこの街の歴史を簡単に説明した。
この街は、終戦直後にはほとんど何もない焼け野原だった。それを立て直したのが、山岸ユタカの祖父、山岸豊三郎である。祖父は優れた実業家であり、後に市長に当選して行政にもその能力を振るった。少々自分勝手なところが、山岸ユタカの両親や幼少期の自分を閉口させた。
ユタカが幼い頃から精力的に活動していたせいか、祖父は彼にとって、父の山岸イサム以上にけむたい存在だった。
さて、この街のいちばんの特徴は、都心部の他の地域と比較しても、自然が少ないということだ。UFO型の建物があるあの公園も、よその公園に比べると、緑は少ない。ちなみに祖父にはあの世代の老人特有の園芸趣味がいっさいなかった。それが街の「緑の少なさ」に関係しているのかもしれない。
また、焼け野原から始まったこの街には、伝統的な神社仏閣のようなものがなかった。それらはすべて戦争で焼けてしまったのだ。お祭りなどもあるにはあるが、いかにも形式的なものであり、あまり盛り上がってはいない。自然や伝統的なものから切り離され、きわめて人工的なのが、この街の特徴と言えるだろう。
山岸ユタカの言葉を、ビリーは熱心に聞いていた。聞き上手なビリーに乗せられたユタカは、失踪してしまった楠本サオリのことまで話してしまった。
すると、ビリーの表情がかすかにこわばった。
「クスモト・サオリですか? 失踪したのは、本当にそういう名前の女性なんですね?」
「そうですけど……それが何か?」
「楠本サオリは、まだ若いですがそこそこ名前の知られた孤高のUFO研究家ですよ。実は日本に来る前に彼女に連絡を取ったのですが、音信不通となってしまっていました。この街に引っ越していたことも、今、知りました」
ビリーは考え込むような表情で、そう言った。
確かに、楠本サオリは親元を離れて、この街のアパートに住んでいるのだと言っていた。彼女はUFO研究家だったのか。そう言われれば、そんな雰囲気もないではないな、とユタカは思った。
「孤高、というのは?」
ユタカは、好奇心からビリーにたずねた。彼は即座に答える。
「他の研究団体とは距離を置いていたということです。彼女は「死者がUFOに乗り込んで消えていくのを目撃する」という、レアな事例を収集・研究をしていたのです。それは、山岸ユタカのUFO異次元飛来説とも関連するので、彼女の研究に興味をはらってきたのですが、まさかその彼女が失踪してしまったとは……」
6
ビリーの説明によると、UFOの目撃事例というのは、いわゆる「臨死体験」とも似通っていて、その中間形態として「死者がUFOに乗ってやってくる(あるいは去って行く)」、「エイリアンが死後の世界のようなところから出現する」と言った事例が存在するのだそうだ。
普通なら、このような中間的な事例は、UFO目撃事例にしろ、「死後の世界の目撃」にしろ、どちらかに分類されてしまうらしいのだが、ビリーや楠本サオリは、その事例の中間性そのものに注目しているのだという。
ユタカには何を言っているのかよくわからなかったが、「個人的で特別な体験」を取り戻すというか、なんだかそのようなことを考えているのだろうな、と好意的に解釈することにした。
それは人間の本能、とまでは言わないが、文化的な欲求の一部であり、ビリーや楠本サオリの心の中にある「補完装置」のようなものが作動しているということではないか。あるいは納得できないものを「不思議体験」として自分の中で昇華する、そのような行為なのだろうと、ユタカは思った。
普通、そのようなことはお祭りのような伝統行事などで補うはずが、この街にはそのようなものが希薄だ。というか、この街にはお祭りもなければ神社も、お寺もない。
だからこそ、二十一世紀になってからも「UFOの集中目撃」があるのかもしれない。
そんなことを、ユタカは思った。
7
近くのホテルに宿泊しているというビリーと連絡先を交換して帰宅すると、もう十二時近かった。ユタカはもう一度眠ることにした。
8
さて、そこから先が夢なのかうつつなのか、ユタカにははっきりしない。
気が付くと、ユタカは公園の、UFO型の建物の前に再び立っていた。
夜中の二時頃だったと思う。
UFO型の建物の楕円形の窓すべてにガラスが貼られており、中から強い光が発せられていた。
ドアが下部の蝶番を基点として、ゆっくりと開き、そのままタラップになった。
その様子はまるでユタカに「入ってこい」と語りかけているかのようで、彼は自然に階段をのぼって中に入った。
中は、ごくたまに中に入ってみるときの感じより、ずっと広かった。もともとの広さは、六畳間くらいしかないはずなのである。本来は子供がケガをしないように、余計なものは何もなく、マットレスが無造作にひかれているだけだったが、今は違う。
昔のSF映画で観たような、キラキラした宇宙船の内部が、ユタカの眼前に広がっていた。
高度に発達しているらしい機械類があり、計器がチカチカと明滅を繰り返している。天井からは、光源のはっきりしない、優しい光が降り注いでいる。
部屋の中心には白い大きな丸テーブルがあり、そのそばに先ほど別れたばかりのビリー・デクスターと、失踪したはずの楠本サオリが並んで立っていた。
「ようこそ、山岸ユタカさん。私たちは、そろそろ異次元世界に行かねばなりません。その前にご挨拶をしたいと思い、待っていたのです」
ビリーは笑顔で歓迎してくれた。
「山岸さん、何の説明もなく姿を消してすいませんでした。実は、今日まで準備をしていたのです、異次元世界に行くための準備を」
ビリーの隣の、楠本サオリがそう言った。あいかわらず、流行遅れの赤いフレームのめがねをかけ、伸びかけたTシャツにジーパンといういでたちだった。よほど「異次元世界」に行くのが嬉しいのか、ふだんは見せない、はにかんだ笑みを顔に浮かべていた。
「ちょっと待ってくれ」
ユタカは二人にあわてて言った。
「ビリーは、地球人のはずだよな? だからUFO研究のためにこの街に来たのだと思っていたんだが」
ビリー・デクスターは、さわやかな笑顔で返す。
「私はあなたの知るビリー・デクスターではありません。彼の姿をコピーさせてもらった異次元からの使者です」
「じゃあ、楠本サオリ、きみも……」
ユタカは驚いてサオリの方を見る。
「私は楠本サオリ本人です。正真正銘の人間ですよ。でも、前から行きたいと思っていたんです、異次元世界に」
二人の言動を聞いているうちに、ユタカは重大なことに気づいた。
「ちょっと待て。私はどうなるんだ、私は! 私も連れていかれるのか?」
急に恐怖にかられて、ユタカは叫んだ。
ビリー(正確には、ビリーの姿をした異次元人と称する者)は、深くうなずいた。
「その意志を確かめたくて、こうして会話をしているのですよ、山岸さん。本物のビリー・デクスターは、我々の提案を拒否しました。だからここにはいません。今頃はホテルで眠っているでしょう。彼にとって異次元に行くことは危険すぎることだったのでしょうね。しかし、あなたはどうかと思ったのです。もしかしたら、異次元世界に行きたいのではないかと」
ビリー(正確にはビリーの姿をした自称・異次元人)の言動に、ユタカは当惑するばかりだった。
「どうかと思ったって……私はUFO研究家でも何でもないぞ」
ユタカがそう言うと、楠本サオリはすかさず返した。
「気づかなかったんですか? あなたの住んでいる時計台は、異次元世界への入り口をつくり出すための『装置』だったということを」
「何を言っているんだ?」
ユタカは本当に意味がわからなかったので、そのように問うた。楠本サオリは、口に微笑をたたえたまま、こう言った。
「その構造を知るために、私はあそこでアルバイトしていたんですよ」
9
気分が高揚してきたのか、ビリーは饒舌になって説明してくれた。
「もっとも、とても稚拙な装置です、あれは。簡単に言うと、『異次元』を偶然引っ張り込むための、罠のようなものですね。能動的にどうこうするものではありません。ただ入り口をポッカリと開けて、何十年も、『異次元』が引っ掛かるのをひたすらに待っていた。動物を獲るための「落とし穴」のようなものだと考えてもらって良いかもしれません。そしてそれがたまたま成功したので、半年前のUFO集中目撃となったわけです。つまり、時計台を通して異次元から『UFO』がたくさん飛んできて、また戻っていったということです」
「じゃあ、私の祖父もそうしたUFOだの異次元だのの研究をしていたということなのか?」
ユタカは驚いた。何もかも、初耳である。
「あなたの祖父、山岸豊三郎博士と言えば、この世界……『超現実科学』の世界ではけっこう有名な部類ですよ。彼のつくった装置を、何も知らずにメンテナンスしてくれていたのが、あなたというわけです」
「祖父は実業家じゃなかったのか?」
ユタカの問いに、ビリーの顔をした者は応えた。
「天才だったんでしょうね。博士号も持っていますよ。『超現実科学』とはあまり関係のない『心理学』についてですけどね」
「……」
ユタカは、祖父の知らなかった顔を見たような気がして、言葉が出なかった。
今度はサオリの方が口を開いた。
サオリの赤いフレームのめがねの奥の瞳は、あやしげに燃えていた。ついに獲物を射程距離にとらえたハンターのような鋭い瞳だ、とユタカは思った。
ビリーの顔をした自称「異次元人」が、サオリの言ったことを受けてまた口を開いた。
「そうです、あなたがいたからこそ、あなたがあの時計台をメンテしてくれていたからこそ、こんなチャンスが訪れた。だから、あなたも異次元に行くかどうか、確かめるのは礼儀だと思ったのです。あなたにはその資格がありますから」
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そんな現実か虚構かわからない体験をしているうちに、ユタカの意識は、二日ほど前に観た夢の世界に戻って行った。
病室。小学生の頃の自分。心配そうな母親。ビリー・デクスターにそっくりな(でもよく見ると違う)黒人の野球選手。後から、父親のイサムと医者も病室に入ってきた。手術をしろと命じてくる、大人たち。
「ビリー選手が来てくれたんだから、手術するわよね?」
山岸ユタカが小学生の頃の、まだ若い母親が、目に涙を浮かべて訴える。
「ビリー選手の期待に応えるんだ。手術を受けると言いなさい」
やや命令口調で、苛立たし気に言う昔の父親。
思い出した。ユタカはこのとき、手術を受けることを了承したのだ。
ビリー選手のフルネームは確かビリー・ターロンと言った。日本での活躍期間は二年間と短かった。日本球界史に名を遺したような有名な選手ではない。
しかしそんなことは関係ない。とにかく、ユタカは少年時代に彼のファンであり、ビリー選手は約束のホームランを……。
打たなかったのだ。
それは、あきれるほど間の抜けた結末だった。
少年時代のユタカは、約束した試合で四打席ヒットすら打たなかったビリー・ターロンを病室のテレビであきれて見ていた。
数日後、すぐに彼からは丁寧な謝罪の手紙(直筆の英文には、翻訳された日本語の手紙が添えられていた)と、約束した別の日の別の試合でホームランを打った際の木製バットにサインを入れたものが送られてきた。
ビリー・ターロンは約束を守らなかった(守れなかった)。しかし、彼は野球選手として何の利害関係もない少年のユタカに礼を尽くしたことも、間違いがない。
そうなっては、ユタカの方としても、とてもではないが「約束を破ったのだから、手術を受けない」と言い張ることはできなかった。
ユタカはしぶしぶ手術を受けた。
病気は全快し、退院した。
結局、何の病気だったかが思い出せないのだが。
しかし、問題はこの後だった。
11
山岸ユタカの両親や教師たちは、この手術の一件で、ユタカが最大限のわがままを行った(すなわちビリー・ターロン選手にホームランの約束をさせた)ことを、ことあるごとに非難した。
「あのとき、あそこまでしてやったのだから」と言って、その後のユタカの主張をことごとく封じるようになったのだ。
小さい頃の記憶は改変される。
ユタカの心は、徐々にさまざまな疑問に支配され、別の記憶が浮かび上がってくるのを感じていた。
本当はビリー・ターロン選手を呼ぼうと提案したのは、ユタカではなく父の山岸イサムだったはずだ。彼の勤めている会社のテレビCMに、ビリー選手が出演したという縁があったのだ。
自分は本当にビリー選手の大ファンだったのだろうか? 違う気がする。嫌いな選手ではなかったにせよ、ことが大きくなり、大人たちが右往左往するのを見て、そうだと思い込まされてしまったのではないか。
父が、CMに起用したビリー・ターロン選手を観るためにチャンネルを合わせていたのを、一緒にたまたま見ていただけだったのではないか?
そもそも、ユタカは何の病気だったのか。不治の病だったかのようなイメージをずっと持っていたが、本当にそうだったのか。
その後の人生でも、何かにつけて、家族は「あのときのユタカはわがままだった」と言った。「ビリー選手まで呼んでやったのに」と。
しかし本当にそうか? ビリー選手登場のお膳立ては、むしろ両親がしたのではなかったか?
小学校を卒業し、中学に入っても高校に入っても、ユタカは家族に強い自己主張ができずにいた。それはこのビリー選手の一件があったからだ。
都心部の大学に進学することも反対されたし、大学卒業後も地元の企業に勤めることを強く勧められた。そこは祖父の山岸豊三郎が何かと世話を焼いている会社だった。山岸ユタカはそこに祖父のコネで入社した。
しかし、新入社員研修で、自衛隊の体験入隊があり、ユタカはそれについてゆけず挫折して、結局試用期間中に会社を辞めざるを得なかった。
祖父の時計台を管理するようになったのは、それからだった。それまでは、父のイサムが本業の忙しい合間をぬってやっていたのだ。
もしかしたら、自分は時計台を管理するためのレールを、家族によって(正確には、祖父が精神的に支配していた家族によって)敷かれていたのではないだろうか?
いや、もっと重大な問題がある。
祖父はどこにいるんだ?
すっかり記憶から抹消されていた。
彼はまだ生きているんじゃないのか?
「おまえは異次元人なんかじゃない。じいさんの山岸豊三郎だな?」
ユタカの意識は急に、公園のUFO風の建物の中に引き戻された。
そこにはビリー・デクスターの外見をした男と、楠本サオリが並び、山岸ユタカと白い丸テーブルをはさんで立っていた。
そして山岸ユタカは何もかも思い出し、ビリーを指さして叫んだ。
「おまえは山崎豊三郎なんだな!?」
ビリーの顔には、ユタカに正体を指摘されたことによる動揺の色はまったくなかった。
「そのとおりだよ。だが、それがどうしたというんだ?」
そしてその顔は粘土細工のようにうねうねと変形し、ゆがみだし、代わりにしわくちゃの東洋人の顔に変わった。
祖父の豊三郎だった。
12
「おまえも異次元に連れて行ってやろうと言うのだから、これでいいではないか」
祖父は笑いながら言った。
灰色の作務衣を着た、小さい老人がテーブル腰に、山岸ユタカの目の前に立っていた。
ビリーに化けてきたときより、たいぶ背が低くなっている。
隣にはむろん、楠本サオリがいる。
「何を言っているんだ。私を時計台の管理人として飼い殺しにしたのは、あんたじゃないか!」
ユタカは祖父に向かって叫んだ。
「飼い殺し? 人聞きの悪いことを言うな。コネ入社の後、自衛隊の訓練に耐えられずすぐに退社してしまったおまえに居場所を与えてやったのは、この私ではないか。あの時計台の真の目的を教えなかったのは、目的達成まで、何十年かかるかわからなかったからだ。だから、私は悪くない」
祖父はユタカを見つめ返した。見下したような顔だった。隣りにいる楠本サオリは、何もかも知り尽くしているような表情をしていて、ユタカは胸糞が悪くなった。明らかに祖父の豊三郎の意見に同意しているふうで、ユタカは見ていて不快だった。
「悪いとか悪くないとか、そういう問題じゃない。ビリー・ターロン選手はホームランを打たなかった。約束を破ったのは、あんたたちの方なんだ!」
ユタカは叫んだ。
「私は悪くない。約束を破ったのは、あんたたちだ!」
ユタカは自分に言い聞かせるかのように、もう一度言った。
彼の手には、いつの間にか木製のバットが握られていた。
それは、子供の頃に送られてきた、ビリー・ターロン選手のサインが入ったバットだった。
「こうしてやる!」
ユタカはバットを振り回し、宇宙船内のメカをぶっ壊し始めた。
それを見て、祖父と楠本サオリの顔は真っ蒼になった。
「何をする! 爆発でもしたら、大変なことになるぞ!」
「山岸さん、やめて! やめてください!」
ユタカは二人の静止の言葉を無視して、バットをぶん回して暴れまわった。二人とも、ユタカがまさかそんなやけくそなことをするとは思っていなかったらしい。
UFO内の機械は、めちゃくちゃに壊れまくった。
「ホームランを打ってみせろよ! ビリー選手! ビリー・ターロン選手! 約束したんだろ! 打ってみせろよ! 私は悪くない!」
ユタカは我を忘れて、そこらのものをバットでめちゃくちゃにぶち壊した。
計器類から火花が飛んだ。ある機械はバットが当たって、火を噴いた。煙を出している機材もあった。
13
ハッ、と気が付くと、ユタカはバットを右手に握ったまま、公園に立っていた。
日差しがまぶしい。すぐにいつもズボンのポケットに入れている携帯電話を見ると、午前九時五十分を指していた。公園内の時計も観た。やはり午前九時五十分を指している。
間違いない。今は午前九時五十分だ。
公園内は、幼児と彼らを連れて来た親たちでにぎわっていた。
良い天気だった。
すぐそばには、いつもそこにあるUFO風の建物が、何事もなかったかのように同じ場所に存在していた。
ふと足元を見ると、楠本サオリが地べたに突っ伏してうずくまっている。静かに泣いているようだった。
「泣いているのか?」
ユタカはぶしつけに聞いた。彼女は顔を上げて叫んだ。「当たり前じゃない!」
のどかな、晴れた朝の公園にはふさわしくない、キツい口調だった。
「何年も研究し続けて、時計台でアルバイトをして中の構造を探って……。やっと異次元にいけると思ったのに……。こんな胸糞の悪い世界から逃げ出せると思ったのに!」
ユタカには彼女に対する同情心はまったくなかった。アルバイトとして時計台にやってきて、スパイのようなことをしていた人物だ。ユタカは突然仕事を放り出されて、心配をかけさせられた。むろん、彼女が放り出した仕事は自分でやった。単に迷惑をこうむっただけだった。
「恨むなら、私の祖父の山岸豊三郎を恨むんだな。孫の私に「時計台」という自分の実験装置のお守りを押し付けたやつなんだからな」
ユタカには、祖父の豊三郎に対しても、何の感情もない。今は催眠が解けたかのように、妙に澄み切った感情があるだけだった。
祖父の名前を出すと、楠本サオリは今までそれを忘れていたかのようにハッとして地べたに座ったまま、上半身を起こした。そしてあたりを見回した。
「そういえば……。山岸豊三郎博士はどこに行ったの!?」
「さあね。もしかして、自分だけ異次元の世界に行ってしまったんじゃないか?」
ユタカは適当なことを言った。祖父がどこへ行こうが、自分の知ったことではない。
「いえ、そんなはずはない……。だってここにこうしてUFO型の建物はまだ残っているし、時計台だって残っているんだもの。もしも博士が異次元に旅立ったのなら、どちらもなくなっているはずよ」
時計台は、今、ユタカと楠本サオリがいる公園から観ることができた。何事もなく存在しているのが、少し遠くに見えた。
「本当にそうなのか? 確証があるのか?」
ユタカは少し意地悪く聞いてしまった。
「それは……何とも言えない。もう行ってしまったかもしれない」
楠本サオリは、下を向いて小声でつぶやいた。
その時計台から、急に轟音が鳴った。午前十時の鐘の音だった。毎日のことで、公園内にいる人々も、時計台の方を見向きもしない。
「できればでいいが、いくつか教えてくれ」
ユタカは、地べたに座り込んだままの楠本サオリに尋ねた。
「じいさん……山岸豊三郎とは、いつどこで知り合ったんだ?」
不機嫌そうに、サオリは答えた。
「私が『失踪した』間に、あのUFO型の建物の中でよ。もう、UFOの集中目撃があった頃から、時計台とあのUFO型の建物のために、この街と異次元はつながりかけているの。そして、夢と現実もつながりかけている。私が『失踪』したのは、『夢』を通して異次元世界の入り口を見つけるためだったのよ」
「失踪している間、どこにいたんだ?」
「それをあなたに言う必要はないでしょ」
サオリは、そう聞かれてそっぽを向いた。
「時計台の中に、隠し部屋があるんだな?」
ずばり真相を言い当てられたのだろう、楠本サオリは悔しそうにユタカの顔を見た。ユタカも時計台の管理をし始めて長いが、その中に妙な箇所がいくつかあることまでは知っていた。
「時計台に瞑想室のようなものがあって、そこにいたんだな?」
サオリはその質問に直接答えることはなかったが、そうに違いない、とユタカは確信した。ユタカが不在のときにこっそり時計台に舞い戻り、「瞑想室」のような隠し部屋を探し出してそこに入り込んだのだろう。ユタカの質問は無視して、彼女はこう答えた。
「夢を通して、あのUFO型の建物の中で初めて山岸豊三郎博士に出会ったの。感激だった。博士も私の研究を認めてくれた。時計台の謎に挑んだのは、ここ三十年間の間に私だけだったって」
ユタカは楠本サオリは嘘はついていないと思った。以前から彼女が山岸豊三郎と知り合いなら、わざわざアルバイトを装って時計台の中身をスパイしに来る必要はなかっただろう。
ふと、サオリがもし目的を洗いざらい、ユタカにぶちまけたら彼は時計台の中をすべて彼女に見せたかと考えてみたが、UFOなどのあやしすぎる話を聞いて、祖父の預かりものである時計台の中身を見せたりはしなかったはずだ。
14
「じゃ、私は帰るよ」
鐘が鳴り終わるのを待つこともなく、ユタカは地べたに座ったままの楠本サオリに、素っ気なく言った。
「これからも、時計台の管理を続けるつもりなの?」
彼女はそう聞いてきた。まだあの時計台や、何より祖父に未練があるのだろう。
「ああ。何しろあれの管理で私は生活しているんでね……。それに少々癪だが、私にも責任感というものがある。君が『瞑想室』として使っていた隠し部屋も見つけないといけないし」
「今までどおり、山岸豊三郎博士が報酬をくれると思うの? ……その、彼がまだ異次元の世界に行っていないとしての話だけど?」
サオリの質問に、ユタカは答えた。
「私の給料は、父の山岸イサムの銀行口座から、毎月自動的に振り込まれるようになっているんだ。実は金の振り込みに関しては、祖父は直接関係はないんだな。それに、あの時計台は異次元に行くための罠、『落とし穴』なんだろ? 継続させないわけにはいかないだろう。急に放置して予期せぬ事故があっても恐いからな。それに、そういうことがないとしても、この街のシンボルだからやっぱり守らなくてはいけないと思うよ」
ユタカにとって、祖父がどこかで生きているという確信は、強かった。ユタカが時計台の秘密を知り、なおかつその構造や状態にある程度精通している以上、妙な手を使って追い出すこともすまい。
時計台の管理をする時間がないからユタカに任せてきた父の山岸イサムにしても、もし今回の不思議な事情を知ることがあったとしても、ユタカに時計台を任せなければならない事情は変わらない。
「おい、見ろよあれを」
ユタカが時計台の方を指さすと、時計のはまっている塔の、てっぺんの三角屋根から、白っぽいUFOのようなものが飛び立とうと、ゆっくり浮上しているところだった。
それを観て、サオリは立ち上がって叫んだ。
「あれよ! あれがこの公園のUFO型の建物と合体し、真の『異次元移動船』となって、それに私たちは乗るはずだったのよ! それがあなたのせいで!」
サオリは山岸ユタカに向かって、まっすぐ右手の人差し指を突きつけた。
山岸ユタカはいら立って言った。
「それが人をだまして利用した人間にする態度か! 私だってあんたの失踪には、人並みに心配したんだ。もう少し自分のことだけでなく、他人のことにも気を配れる人間になるんだな。あんたは、もう二度と時計台に近づくなよ」
その言葉を聞いて、サオリの赤いフレームのめがねの奥の瞳が、ユタカをにらみつけたが、彼には何の効果もない。
15
その日の午後、ユタカはUFO研究家のビリー・デクスターに駅前で再会し、事情を話した。彼も夢の中で何かを観たらしいが、少々混乱しているようだった。何かあったら連絡する、と話して、駅の改札口で、ユタカは彼と別れた。
16
その晩、ユタカは時計台に戻り、寝床につき、すぐに夢の世界に入って行った。
夢の舞台は、また小学生時代に入院した病室だった。辛気臭い顔をした両親と医者、野球選手のビリー・ターロンがそこにいた。
ユタカはまた小学生になっていた。
彼らは全員、手術を受けようとしないユタカを非難の目つきで観ていた。
「まだ決心は変わらないのか」
後から、しわがれた老人の声がした。大人が二人、病室に入ってきたのだ。
作務衣姿の祖父・山岸豊三郎と、めがねの楠本サオリだった。
もちろん、現実にはこの場に楠本サオリがいるはずがない。夢だからまぎれ込んでいるのだ。
「いいかげん、説得してしまいなさい」
豊三郎は、息子夫婦に苛立たし気に命じた。
「でも…… ビリーはホームランが打てなかったものですから。約束が違う、と言って」
母親が困り果ててそう言った。
「相手は子供でしょう? どうにかして言いくるめればばいいじゃないの」
楠本サオリが、かなり高圧的にそう言った。
彼女は現在と同じ姿だった。この世界では、時間軸がゆがんでいるらしい。
ホームランを打てなかったビリー・ターロン選手が、所在なげに首を振った。自分がすべて悪いと思っているらしい。
ユタカは蒲団の中で、ビリー選手がくれたサイン入りのバットを握りしめた。
いつどんな危険が来るかもしれないから、ユタカは用心として、家の中で唯一武器になりそうなビリー・ターロンのバットを布団に持ち込んで眠っていたのだ。
17
不意に場面は変わった。
周囲はどこかで見た、格闘マンガに出てくる武闘会のスタジアムような場所になっていた。
観客は満員で、ものすごい声援があがっている。
その真ん中に、祖父の山岸豊三郎と、バットを持った現在の、四十代後半のユタカが適度な間合いをもって対峙していた。
「なるほど、部外者であるビリー・ターロンのバットが唯一、おまえの持つ『呪具』だというわけか。だから、病室の夢は消失したのだな」
豊三郎は、誤算だった、というような顔をして言った。しかし顔に焦りの色は、ない。
「それだけじゃないよ」
ユタカはバットで右斜め前方を指した。そこにもやもやとシルエットが浮かび上がり、やがて実体化した。
ぞれはUFO研究家の、ビリー・デクスターだった。
「このバットを使って、彼を『助っ人』として呼び寄せることもできるんだ。UFO異次元物体説を唱えているのはあんただけじゃないからね。同じ『妄想』を持つ者ならこの世界に入って来れる。どうだい、楠本サオリを呼んでみるか?」
「いらん。現実世界では研究家としてそこそこ役に立ったから使っていたが、この世界に呼んでも足手まといになるだけだろう」
作務衣姿の老人は、腕を組んだまま不敵に笑った。
祖父の山岸豊三郎とは、この場で決着を付けなければいけない。
夢の中だろうと、何だろうと。
今後も、山岸ユタカが時計台の管理を続けようと、そうでなかろうと。
決着を付けるのだ。
その確信だけが、ユタカの心の中にあった。
なぜだかは、わからない。
「行くぞ!」
ユタカとビリー・デクスターは、前方の山岸豊三郎に向かって突進していった。
豊三郎も、老人とは思えないダッシュ力で地面を蹴った。
山岸ユタカが振り下ろしたビリー・ターロンのサイン入りバットと、豊三郎の拳が交錯するまで、あと数秒。
あと数秒。
あと数秒なのだ。
18
深夜二時頃。
楠本サオリは、時計台の前に立っていた。普通に考えれば確実に居住区で眠りについているはずのユタカと戦いになったときのために、特殊警棒を持ってきていた。
サオリに格闘経験はないが、四十代後半の中年男であるユタカと取っ組み合いになることにそれほどの危険性は感じていない。
サオリは合い鍵をつくっていたので、時計台の内部にあっさり入ることができた。
なぜそんなことができたのか。何のことはない、ここでアルバイトしていた頃、ユタカが出かけている間に鍵屋を呼んでつくらせたのだ。
この時計台は、山崎豊三郎が「異次元を呼び込むことができる存在」としてつくっているため、その内部構造は通常の時計とは違う特殊なものになっており、ここのメンテナンスを担当していた山崎ユタカも、彼の父のイサムも、くわしく理解はしていなかった。
しかし、楠本サオリはかろうじて理解することができる。それは「超現実科学」に基づいてつくられているからだ。
サオリは時計台の中に入り、明かりを点ける。しばらく物音がしないか聞き耳を立てたが、何の物音もしない。
ユタカは不在か、居住区で眠りについているかのどちらかだとサオリは判断した。
サオリは足音を立てぬよう、ゆっくりとユタカの居住区のドアの前まで来た。
そして、うずくまり、ドアの前に敷かれた足拭きマットを取り払った。そして、持ってきたドライバーでその部分のタイルをはがしにかかる。
そう、「瞑想室」とは、ユタカの居住区の真下につくられていたのだ。
このことを、サオリはアルバイト期間に発見していた。
逆に、ユタカは足拭きマットを敷いてしまっていたから、床のタイルのつなぎ目に気づきもしなかったということだ。
タイルをはがすと、下に階段が通じている。サオリは以前にもそうしたように、その階段をくだってゆく。
19
地下二階ぶんほど階段をくだると、そこには上のユタカの居住区と同じの四畳半のスペースがある。コンクリートがむき出しになった、一見牢獄のような部屋だ。
床も冷たいコンクリートである。
しかしその中に入って目につくのは、大量の書物の入った古く巨大な本棚だ。
中におさめられているのはどれも古い本ばかりで、「超現実科学」を学ぶものなら垂涎の稀覯本が収められている。
四畳半くらいの部屋の中央はほんのわずかなくぼみがあり、そこで座禅を組んで瞑想しやすいようにしてあるようだった。
サオリは中央に立ち、すぐさま座り込んで座禅を組み、瞑想に入った。
山崎豊三郎の行方を突き止めるためには、この部屋で瞑想に入り「夢」の世界に入るしかない。いっさい心霊家としての修行をしていないサオリには、この部屋を利用するしかないのだ。
山崎ユタカが、同じように「夢」の世界に入り込む可能性も、考えてはいた。彼は何十年も、この時計台で暮らしてきた。この塔の特殊な構造が、ユタカの精神や肉体に影響を及ぼしていることは十分に考えられた。
そのときは、夢の世界で山崎ユタカと「戦い」になるかもしれない。特殊警棒を夢の中に持ち込むことはできるのだろうか? わからないが、とにかく急いで山崎豊三郎を追いかけなければ、自分は異次元世界に行くことはできないだろう。
面倒を避けるため、サオリは居住区にユタカがいるかどうかを確かめなかった(合い鍵は持っている。外の鍵と同じように、アルバイト中に鍵屋を呼んでつくらせたものだ)。
だから彼女自身は、頭上の居住区にユタカがいるかどうかは知らなかったが、彼もベッドの上で眠り、夢を観ていたのだった。
20
サオリは、幼い頃からどこか捨て鉢なところがあった。
小学生のとき、決して頭は悪くないのに、平気でテストで0点を取ってくることがあるのである。
両親は当惑したが、七十点を取ってきてほめられている弟を見ると、サオリはバカバカしくてやっていられないのだった。
銀行員の父親は強権的で、母親はそんな父親にバカみたいに従順だった。そして長男だというだけで父親が溺愛してきた三つ下の弟の存在。母親は父親の息子に対する溺愛をおかしいとは思いつつ、決してサオリの味方にはなってくれなかった。母親は常に父の顔色を見ていた。
サオリは、今でこそ流行遅れの赤いめがねにだらしのない格好をしているが、着飾ればとても美しい女性である。
彼女は十三歳から十八歳までの間に、実にさまざまな男と付き合った。何もしないでも、男の方から寄ってくるのだ。あるいはサオリの方から誘えば、ほとんどの男が目を輝かせて付いてきた。
しかし、付き合った男たちはだれもがサオリから観れば、バカにしか見えなかった。
十六歳のときにサオリは三十二歳の「意識高い系」のサラリーマンと付き合ったことがある。
しかし、彼もサオリにとってはバカな男の一人に過ぎなかった。女子高生のサオリを連れまわして友人たちに自慢するような下品な男だったが、このときにサオリはひと通りの「大人の世界」を観てしまったように思ったのだった。
当然、その男の周囲は三十代以上の社会人ばかりだった。既婚者も独身者もいたが、彼らはだれもが女好きで、なおかつ酒が入ると、お互いに女性にまつわる失敗談をほじくりあっては下卑た笑い声をあげていた。
彼らにとっては恋愛に関し成功することも、不倫や浮気をしてそれがバレた、という失敗も、どちらも自慢なのだった(離婚にまで至ると、ひどく凹んでいた。その意味が、サオリにはよくわからなかった)。
高校生だったサオリには、社会人の男たちはだれもが子供に観えたし、社会人の女たちはさらにひどかった。彼女たちは若く美しいサオリを敵とみなすか、大人の社会に迷い込んできた「部外者」と見なし、まともに相手をしてはくれなかった。
それ以後も何人かの男と付き合ったが、自分を高めてくれるような相手に巡り合うことはなかった。そのうち、サオリは「社会」を見切ってしまったように思った。実はそれは錯覚なのだが、若い彼女にはそんなことはわからない。高校を卒業する頃には、社会人だろうと学生だろうと、男とは付き合わなくなった。
おしゃれには気を遣わなくなり、美しい顔を隠すように流行とは無縁な赤いめがねをかけるようになった。それにともなって、男たちも寄ってこなくなった。
大人社会を見切ったと判断したサオリは一念発起して勉強を始め、一年浪人して「西城南(にしじょうなん)大学」の心理学科に入学した。
ここは日本で唯一、「超現実科学」が学べる大学だった。
「超現実科学」は、超常現象について学ぶ学問だが、とくに「西城南(にしじょうなん)大学」の鈴木教授は、異次元世界の研究を行っていた。
(こんなつまらない世界は抜け出して、異次元世界に行きたい。)
入学してから、サオリは「異次元世界」の存在に強く惹きつけられるようになった。
それから紆余曲折あり、卒業して数年経ってから、サオリは山岸豊三郎のつくった「時計台」に秘密があるのではないかと思うようになった。
そして起こった、時計台のある街の、UFO集中目撃。これは何かが起こると直観し、ユタカのアルバイトに潜り込んだというわけだった。
21
サオリは座禅を組んで瞑想しているうち、睡魔に襲われた。「瞑想」で眠ってはいけないはずだが、「夢」を通じて山岸豊三郎に会うには、逆に眠らなければならない。
サオリは次第に眠りに落ちていった。
そして、夢の中で目覚めた。
スタジアムのようなところで、三人の男たちが、戦うためにぶつかり合う寸前だった。
五十メートルくらい向こうだろうか。
その様子を見ている観客は満員だった。大きな声援が、四方八方から聞こえてくる。
サオリは男たちの方に向かって走った。
近づいていくうち、その三人が山岸豊三郎、なぜかバットを持った山岸ユタカ、そしてUFO研究家のビリー・デクスターであることがわかった。
「楠本サオリ!?」
ユタカも、山岸豊三郎も、ビリー・デクスターも驚いていた。
そして、それぞれの足が止まった。
ハプニングによって、戦意がそがれたのだ。
「なぜここに来た?」
最初に尋ねたのは、山岸豊三郎だった。
「山岸先生、あなたに会うためです。私もUFOで異次元世界に連れて行ってください!」
走って来た楠本サオリは、息を切らしていた。夢の中でも息が切れるものらしい。
「どうやってここに来たんだ!?」
振りかざしたバットを下ろして、ユタカは尋ねた。もっとも、自分がどうやってこの世界に来たのかもはっきりわかってはいないのだが。
「時計台の居住区の真下にある『瞑想室』で瞑想することで、ここに来れたのよ。山岸先生、まだ異次元に行けるチャンスはあるんですよね? そうおっしゃってください!」
サオリは必死に叫んだ。
山岸豊三郎は、ゆっくり首を振った。
「この孫に、UFO内部をめちゃめちゃにされてしまったからな。しばらくは無理だよ」
豊三郎の言葉を聞いて、サオリの顔はみるみる青ざめていった。
「だって、あれは幻想世界での出来事でしょう? 本当にメカニックなUFOがあるわけではないのだから、関係ないでしょう!」
サオリはなおも叫ぶ。いつの間にか、スタジアムの観客は静まっていた。
「楠本サオリさん。今は家族会議みたいな場面なんだ。正直、きみの出番ではないよ。ビリー・デクスター君も、このユタカが勝手に呼び出したんだからね。私は責任は持たない」
豊三郎はそう言った。
「家族会議?」
サオリは状況がつかめていなかった。当然と言えば当然だったが……。
22
「そう。孫のユタカは、自分が『時計台』を守るためだけに、私や自分の父親であるイサムに飼い殺しにされたと思っているみたいでな。異次元世界に行く気もないようだし、いったい何が言いたいのかさっぱりわからん。駄々っ子のようなことを言って、私を困らせているんだ。私が姿を消しても時計台は守る、と言っていたようだったのに、私の顔を見て考えが変わったようだな。まあそれでもいい。私も考えが変わった。楠本サオリさん、あなたが代わりに時計台のメンテナンスをすればいい。細かいことは私が教えるとしよう。そのうち、また『異次元』が罠にかかってくれる日が来るだろう。ユタカには出て行ってもらってかまわん。好きなようにすればいい」
山岸豊三郎は、冷たく言い放った。
孫のユタカが、時計台から出て行ってもどこにも行くところがないのを知っていながら、そう言ったのだ。
そう言われたユタカは、カッと恥の感情が沸き上がった。豊三郎のコネで入社した会社の自衛隊研修についていけず、試用期間を満たす前に会社をやめてしまったことを思い出したのだ。
何という屈辱だったろうか。行き場所がないのは、あのときも同じだった。
何年悩んだだろう。そして、自分は自分の意志で行動し、自分の意志で就職したらうまくいったのだろうか? 結局、豊三郎のコネで入社したときと同じことになっていたのではないか? 自分は社会に必要のない人間として生まれてきたのでは? それを「時計台のメンテナンス要員」として、豊三郎や父のイサムに利用されて今まで生きてきたのでは?
何千回、そのことについて考えただろう。
それを、目の前の祖父はいとも簡単に「出て行っていい」と言い放ったのだ。
許せない。
絶対に許せない。
理屈じゃない。
ユタカは再び、ビリー・ターロンのバットを握りしめ、頭上に振り上げた。
自分に誠実だったのは、肝心なときに結局ホームランが打てなかった、ビリー・ターロンだけだった。
「ビリー・ターロンだけだ!」
山岸ユタカはそう叫んだ。
だんだん地鳴りの音がしてきた。
異次元につながっているかもしれない、この夢の世界が、壊れようとしている。
ユタカの、やり場のない怒りによって。
少し勝手なことを言いすぎたと、豊三郎は慌てだした。
「やめろ! ユタカ。この幻想世界が壊れるぞ!」
「私の知ったことか。公園のUFO型の建物の内部だってメチャメチャにしてやったんだ。この世界だってメチャメチャにしてやる!!」
地鳴りはどんどん大きくなり、スタジアムの観客たちはどこへ行くのか、脱出を始めていた。
「ユタカ。私が悪かった。少し落ち着け。少し言い過ぎた!」
豊三郎は、両手を前に出してユタカの怒りを鎮めようとした。
「山岸さん、本当にやめてください! 私も瞑想によって、この世界に魂が入っているんです。この世界が壊れたら、ビリー・デクスターさんの命だって危なくなりますよ!」
楠本サオリも、あわててユタカを止めようとする。
「山岸さん、落ち着きましょう。あなたの怒りはもっともです。いくらでも相談に乗ります。ここでの怒りはおさめてください!」
ビリー・ターロンのバットの力によって、状況もよくわからず呼び出されてきたビリー・デクスターまで、そう言った。
「うるさい! おまえたちに私の気持ちがわかってたまるか。このスタジアムが幻想なのか夢なのか、異次元への入り口なのか、出口なのか、そんなことは私は知らん。ただ、自分勝手に夢を見ているおまえたちが心底気に入らない! どこへなりとも行ってしまえ!!」
ユタカがそう叫ぶと、やがて足元が立っていられないほど振動し始めた。地震というよりも、何かの機械を使って上下させているような動きだった。地鳴りの音も、耳をふさぎたくなるほど大きくなっていった。
「みんな消えろ!!」
ユタカが絶叫した瞬間、すべてが消えた。
23
はっと気が付くと、ユタカは干し草の上に寝ころんでいた。
真昼間だった。
体を起こして周囲を見渡すと、だだっ広い牧場だった。
空気が冷えている。
そこに長身の黒人の男性が歩いてきた。
最初は不審そうだったが、ユタカの顔を見て何か気づいたようで、表情が変わった。
彼は元プロ野球選手の、ビリー・ターロンだった。
ユタカは、「時計台」の何かの力によって、東京の郊外からアメリカの牧場まで瞬間的に移動したらしかった。
ビリー・ターロンは現在、七十歳。三十代半ばで野球選手を引退し、紆余曲折あって今は牧場主をしているということだった。
ユタカは助け出され、ビリーに事務所みたいなところに連れていかれて、コーヒーを出された。
「最初はだれかと思ったが、あのときの少年だとわかったよ。まさかホームランが打てなかった意趣返しに来たんじゃないだろうな?」
ビリー・ターロンはそう英語で言って笑った。ユタカにはかろうじて聞き取ることができたので、彼もつられて笑った。
下手な英語で、「そんなことはありません! あなたには感謝しています」とだけ伝えることができた。
この出来事は、新聞や超常現象を扱った雑誌に取り上げられたが、あまり注目されることなく忘れ去られた。
どういうわけか、その後の、ビリーにいくらかの金や衣類をもらって牧場を出て行った山岸ユタカを知る者はいない。
24
現在、時計台のメンテナンスをやっているのは、楠本サオリである。
ただし、山岸豊太郎はどこかに消えてしまった。
ビリー・デクスターはとっくの昔に、アメリカに帰った。
山岸豊太郎が異次元世界に旅立ったということはないと、サオリは思っている。すべての御膳立てが、山岸ユタカによって壊されてしまったからだ。
ちなみに、ユタカの父のイサムが、サオリに給料をやっているということはない。「ユタカの代わりなのだから」と言っても、取り合ってもらえなかった。
仕方がないので、サオリは別のアルバイトをしながら時計台で暮らしている。
(退屈な日常から旅立とうと思っていたのに、結果的にますます退屈なことになってしまった)
サオリはため息をついた。
終章
この物語は、ここで完全に終わる。山岸ユタカがアメリカで意外な事件に出くわすこともないし、山岸豊三郎が時計台のある街に戻ってくることも二度とない。
ユタカの父のイサムも、ただのサラリーマンであり、一市民としての生活を続けるだけだ。
楠本サオリも同じだ。「時計台」の存在だけは、しばらく「不思議」を保っていたが、数年後、セスナ機が突っ込んできて時計台に激突し、真ん中辺からポッキリ折れてしまった。そして時計台は、時計台の意味をなさなくなった。
そのとき、サオリはたまたま外出していて無事だった。
公園のUFO型の建物は、古くなりすぎて撤去された。
この物語は完全に終わった。
余韻も何もない。
(了)
時計台のみがそれを知る 新田五郎 @nittagoro
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