スライムの残滓
メガネ4
第1話 ボロックス
漂う香が柔らかくボロックスの頬を撫でた。夢うつつのボロックスは、ベッドの中で義兄を求めて手を伸ばす。
「に、義兄さん」
だが、求める姿はその場所に無かった。行為の跡の、汗ばんだ体温だけが残っている。
「義兄さん!」
途端にまどろみの刻は去り、ボロックスは跳ね起きた。周囲を伺い、義兄の姿を求めたが無駄だった。
ボロックスは、身体を包む薄い肌掛けを除ける。共に眠ったベッドの中にはやはりカストルの姿は無い。ただ、痕のような空間があるだけだった。
ボロックスは義兄の残した温かさに顔を埋めた。胸いっぱいに吸いこむと、温もりと共に嗅ぎ慣れた匂いが肺を満たす。
― まだ、間に合う。
義兄の残り香は、義弟にあらゆることを伝えていた。ボロックスはカストルを追う事に躊躇しない。
― 独りで行くなんて。
ボロックスにもカストルの真意は分から無い。だが、推測は出来た。そして、その推測は正しいだろう。だからこそ、躊躇などしている場合では無いのだ。ボロックスは裸体のままベッドから飛び降りる。背骨に沿う獣毛が逆立つが、それは“もしも”の恐怖を拭いきれないからだ。
― 黙って行くなんて。
だが、それがカストルらしい。優しい本心を隠す優しさがカストルにはあった。それをボロックスだけが知っている。
ボロックスはサイドテーブルに目を向けた。ナイトスタンドの脇に置かれた時計は、未だ深夜を示している。満たされた眠りについてから二時間程過ぎていた。
― 急げ。
ボロックスはアジア風のサウエルパンツを穿き、タンクトップを纏った。手櫛で灰色の長髪を束ねて後ろで留める。闇の中では目立ちすぎる瞳をサングラスで隠し、ボロックスは時意留を探した。
時意留はベッドサイドにあった。ボロックスは三日月状の時意留を引っ掴み、カストルの元へ駆け出す。だが、数歩でその脚を止めた。
― え?
振り返ると悪離馬があった。
― なんで!
悪離馬の存在がボロックスに衝撃を与える。半身とも云える悪離馬をカストルが忘れる筈が無い。カストルは故意に悪離馬を置いていたのだ。
「カストル!」
サングラスを外し、ボロックスは義兄の名を叫んだ。先の行為後、義兄から漂う甘い言葉をボロックスは思いだす。
『お前を失う訳にはいかない』
幸福感に酩酊したボロックスは義兄の胸に顔を埋めた。そして、カストルの腕がそれを包み、二人は眠った。
「ぼ、僕だってカストルを失う訳にはいかないのに…」
一筋の涙がボロックスの頬を伝った。
「僕の、僕の為に。嗚呼、カストル義兄さん…」
義兄、義弟と呼びあってはいるが、カストルとボロックスは従兄弟である。カストルは家督を継ぐ身であり、ボロックスは傍流の異端児だった。
ボロックスの父と母は祝福された結婚では無かった。やがて、望まれていない子供が生まれる。そして、孤児となったボロックスはカストルに出会った。
「家名や仇なんか、どうでもいいんだ。義兄さんがいてくれれば、それだけで」
ボロックスは一族から疎外されていた。理由は人狼の血が流れているからである。ボロックスの父は人狼だった。その父とカストルの叔母になる母が成したのが、ボロックスだった。
『家名を名乗りたければ、功績を挙げよ。まず、父の恥をすすげ』
命じられたとき、家長の恩恵だと理解はできた。だが、ボロックスには“家名”や“恥”などは、脇の下に出来る毛玉程度の存在でしかない。
― 義兄と共に暮らせるだけで良いのに。
しかし、養われている状況で選択肢は無かった。
― 結局、父と同じか。
人狼である父は家名を求めて足掻いた。功績を上げて一族となる事が、母の為となり、ボロックスの為であると確信していたのだろう。だが、父は志を達せずに倒れ、母は心労で死んだ。残されたボロックスが家名に疑問を抱くのは当然だった。
ボロックスは頭を振る。今は過去を思い返している場合では無い。
― スライムは再生能力に長け、斬撃などの物理攻撃は効果が見込めない。それは、カストルだって、同じじゃないか。
ボロックスは咄嗟に悪離馬を掴んだ。
― ?重い。
意外な“重み”が悪離馬にあった。
義兄に願って、悪離馬を振るった事は何度もある。そして、只の一度もこのような重さは無い。
戸惑いの目で、ボロックスは悪離馬を見た。悪離馬がカストルに代わり、自分を引き留めているように思える。
― 止めないで下さい。僕は行きます。
ボロックスは悪離馬から手を放した。物言わぬ分身は床に静かに横たわる。感謝の目を向け、ボロックスは駆け出した。
「無事でいてくれ、カストル」
夜空に跳び出すと肉体が疼いた。月夜で疼く肉体は、ボロックスに人狼である事を自覚させる。だが、混血児のボロックスには人狼特有の爪と牙が無かった。ただ、背中の獣毛と尻尾、尖った耳が血の混じりを示している。さらに、肉体と感覚器はヒトよりも格段に優れたいる。
― 畜生。
ボロックスは忌んでいた。
― 結局、血かよ。
家名も”血”もだ。結局、手枷でしかない。
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