第90話 ウォータースライダー 三
「待ち遠しかったでしょ?」
「別に」
楓がニヤニヤしながら、俺の横腹を突いてくる。
「またまた〜。素直じゃないなぁ」
その通り。世間一般的に、俺は素直じゃない部類に入るのだと思う。本当は乗りたいな、と思っていたのに。
未だに彼女に対して、直接可愛いと言えない俺は、どうなんだろう? 心の中では何十回、何百回と言えるのに、いざ口に出すとなると、何かが邪魔をしてくる。恥とかそういうのが。
付き合うまでの約一年間、可愛いと思っても口にはしてこなかったせいもあり、どう伝えるのがベストなのかというのもわからない。
可愛いって言うだけだろ?
違うのだ。違うことはないけど、違うのだ。言い慣れていない言葉というのは、当然言葉にもしづらいものだ。
愛想を尽かされるかもよ?
それは嫌だな......。可愛いの一言が軽く言える、軽い口であれば良かったのに。
「何険しい顔してるの? もしかして、本当に私と乗りたくなかったりする......?」
「え、いや、そういうわけじゃない。自問自答してた」
「へー。答えは出た?」
楓は質問内容については、訊いてこなかった。きっと言えないような内容だろう、と察してくれて、気を使ってくれたのかもしれない。そうだとしたら、感謝。
「出てないね」
この問題の解決方法については、まだ出ていない。出ていないけれど、このまま悩み続けていても結局何も変わらない気がする。スパッと決められないのは、俺の悪い性質みたいなものだ。これはきちんと改善すべきところだろう。
水着を見た時はまたとないチャンスだった。しかし、照れもあり、素直に言えなかった。今までにもチャンスを何度も逃してきているので、次はしっかり活かせるように、『可愛い』という単語を喉元にセットしておく。これでいつでも、言えるぞ。
「まだ出てないんだ。悩んでる悟も、可愛いねぇ」
それだよ! 俺が言いたい言葉をサラッと言われてしまった。もしかして、俺の心の中でも読めちゃうのか? と思うくらいタイムリーな言葉だ。
「俺は可愛くない」
これは紛うことなき事実。おそらく仏頂面で、考え事をしている姿を見て、どうして可愛いという単語が出てくるのか。可愛いというのは、隣にいるような人を指すのではあって、俺には不適切だ!
「可愛いの基準は人それぞれだからねー。私は可愛いと思ったからいいんだよ」
一理ある。
「悟の基準だと、どういう人が可愛いに入るの?」
「それは......」
「それは?」
楓は吸い込まれそうになるほどの、ぱっちりとした目をしている。そんな目で見つめられたら、俺の心を本当に見透かされているような気がして、そらしそうになる。
覗き込んでくる彼女は、きっとわかっているんじゃないだろうか。わかっていながら、あえて俺に言わそうとしている。
これは少しずるいかもしれない。自然な流れで言うわけではないし、偶然生まれた彼女のアシストのおかげで、口にすることができる。それでも、これを契機に言えるように精進していけば、別にいっか。
「楓みたいな人が可愛い......と思う、よ」
言ってしまった。言ってしまった! 言う瞬間、顔をそらしてしまったので、楓がどういった表情をしているのかわからない。俺が何と言うか大体想像ついていたのなら、ニヤニヤしているのではないだろうか。数分前の会話の時のように。
顔を戻すと、俺の予想とは反した顔をした楓がいた。
「言うの!?」
「え」
少し戸惑い気味の、そんな表情。
「私のこと言ってくれるとは思ってなかったから......素直な悟なんて悟じゃないよ!」
俺はとても悲しいことを言われているような気がする。楓は俺が言わないと思っていたから、困惑してしまったのだろう。
「俺ってそんなに捻くれてる?」
「そこそこ?」
疑問形で訊かれても困る。素直じゃないのは、自分でも認めているところだけど。
「そうか......」
俺は大げさに肩を落とした。
「そんなに落ち込まないでよ! 他にいっぱいいいところあるから!」
「たとえば?」
「えっとね、あ、可愛いって言ってくれるたびに教えてあげるよ」
「可愛いって言われたいの?」
「可愛いって言われて嬉しくない女の子はいないと思うよ?」
そういうものなのだろうか。
「気分が良かったら、また言うよ」
「ケチ」
「ケチではないだろ。言うべきだと思った時、ちゃんと口に出すようにするから」
「何回でも言ってくれていいのに」
「可愛いの安売りはしたくない」
楓は頰を膨らませた。
「なに? 喧嘩?」
前に並んでいた須藤が振り返って、訊ねた。
「これは喧嘩だよ」
「俺はそういうつもりはないけど」
「何があったの?」
「悟が可愛いって言ってくれないの」
それが原因で喧嘩とかバカすぎない? 神崎も振り返ったけど、苦笑いしながらちょっと引いてるし。こいつに引かれるのは、ちょっとムカつくな。
「こんなに可愛い彼女がいるんだから、いっぱい言ってあげなよー。あ、翔太も私に言ってくれていいんだよ」
「言わねぇ」
神崎の言葉には、絶対に言わないぞ、という鉄の意志が感じられた。やっぱり、言いにくいよな、そういうの。
「さっき言ってくれたけどねー」
何だと? 早速裏切られた。神崎は「言うなよ」とか言っちゃってる。本当に言ったのか......。俺の知っている神崎はそういうことを本人に言うようなタイプではないと思っていたので、驚いている。逆に、言わなそうなタイプの神崎ですら言っているのに、俺は......。やっぱりもっと可愛いを連発するべきなのだろうか。難しいな。
「神崎くんも言ってるよ?」
楓が小悪魔的な笑みを浮かべながら、言った。
「よそはよそ。うちはうちだ」
「なんかお母さんみたいだね?」
子どもが親に何かを強請った時によく言われるセリフだ。
◯◯くんはおもちゃ買ってもらったらしいよ〜。そんなことを子どもが言ってきた時に、便利な言葉だ。子どもの頃はそんなこと言われても、憤慨してしまうだけだったけれど、使う側に立ってみると、非常に使い勝手の良い言葉だと思った。
「まあ、これからはちゃんと素直になって、褒めるよ。楓のこと」
「本当?」
「いくら心の中で褒めても、口に出さないと伝わらないもんね」
「その通りだよ! 期待しとくね」
少し前に比べると、大分言いやすくなった。これからはもう少し気楽に言える気がする。言いすぎると、楓を調子に乗らせてしまうので、適切な場面かどうかをしっかり見極めよう。
謎の言い合いをしているうちに、俺たちの順番がやってきた。大学生くらいのお兄さんと会うのは三度目。またこいつらか、と思われているかもしれない。思っていたとしても、顔には出さず、笑顔を絶やすことはないだろう。眩しい笑顔を振りまきながら、俺たちを誘導する。
「先行っていいよ!」
「じゃあ、先行かせてもらうね」
須藤と神崎が先にボートに乗った。「ビビって、私に抱きつかないでよ?」とか須藤が言ってる。神崎は「絶対しねえよ」と言っているけれど、須藤にならやりかねないと思った。
神崎たちがチューブの中に消えた後、俺たちもボートに乗り、スタンバイすることになった。
もう少しで発進するところで、楓が振り返った。
「ねえ、そういやさっき悟が悩んでたことって解決したの?」
「ん? まあ、そうだな。解決したと言っていいかもしれん」
「何に悩んでたの? 聞かせてよー」
可愛いってどうしたら言えるかについて、悩んでたんだよ。とは言えないので、適当に誤魔化す。
「どうしてそんなに可愛いのかについて、考えてたんだよ」
きっと楓は戸惑う。反応を楽しむためにそんなことを言ったけど、羞恥心という点においては、本当の悩みを告げた方が幾分かマシな気がしてしまった。
「え、え? えぇ?」
予想通りおどおどする楓にお構いなしで、お兄さんの「いってらっしゃ〜い」という掛け声と共に、ボートは動き出した。
「さっきのどういうこと!?」
プールに勢いよく、突っ込んだ後、食い気味に楓が訊いてきた。ちょっと耳が赤くなっている気がする。
「さっきのって?」
「ほら......可愛いが、どうのこうのみたいな」
少しもじもじしながら、言いづらそうにする、楓。
「そんなこと言ったっけ?」
惚ける、俺。
「言ったよ! 私はこの耳でちゃんと聞いた! いきなり可愛いって言うのはずるいから」
「いや、言って欲しかったんじゃないのかよ」
「言うなら、『今から言いまーす』みたいな感じで、前もって言っといて欲しい。心の準備ができてないから!」
わがままだ。そんなことをいちいち言ってられないので、これからもいきなり言うことにしよう。楓の反応も面白いし。可愛いを連発するのも、ありなんじゃないか、と思えてきた。
「考えとくよ」
「考えといて!」
そんなやりとりをしながら、プールサイドに上がり、合流した。プールって楽しい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます