番外

そこねこ

 雪はつまり、イベントだと思うのだ。


 僕も雪で苦労したことがないわけではないけれど、冬に常なるものはからっ風だと思う。冷たく乾いた、山を下って吹いてくる風が、ひたすら肌を刺す。それが冬だ。


 だから、僕にとって雪は―――雪国の人にとってはまったく身勝手なはなしだろうけれど―――年に数回、もしかしたら一度もないかもしれない、とても美しいイベントだ。山の向こうから、乾き切らずに雲が張り出してくる日を、いつも心待ちにしていた。


 白いこおり、とげの生えた何か、さらさらと空気を縫って描く流星の軌跡、浮き沈む軽やかなダンス。大地に降り、溶け、降り、溶け、また降って、地を濡らし、そして積もる。


 誰にとっても、子供の頃の、最高の目覚まし。どんなに寒くて、普段なら暖かなふとんの中でいつまでもぐずぐずしていたい朝でも、「雪だよ」という母親の声で、僕らは飛び起きた。カーテンを開けて、雨戸を開けて、確かめる、まぶしい白さ。


 澄み切って、美しくて、けれど冷たく、残酷な。母なる海とはよくいうけれど、自然の中をめぐりめぐる水は、おしなべてそんな言葉を背負って語られる。その中で、雪だけが、虚空を軽やかに踊ることができ……そして雪だけが、大地を白というまばゆい一色に埋め尽くすことが、できる。


 だから雪は。だからこそ雪は、永遠であってはならない、のかもしれない。




 さて、我が相棒、ちび黒猫トントンと初めての冬を迎えて驚いたことといえば、こたつで丸くならないってことにしくものはない。いやはや、トントンは寒風の中を駆け回るのが大好きだ。ちょっとやそっとの寒さではびくともしない。


 黒いから体が暖まりやすいのかもしれないが、とはいえ夏が苦手というふうでもなかったし、まったくこいつは不思議なやつというより他はない。


 ……けれどトントン、雪はやっぱり見たことがなかったようだ。こないだ、道を歩いていたら雪が降り出し、するとトントンはとまどった顔をして、立ち止まったままじっと空を仰いでいた。黒い毛皮に、白い粉雪がからみついて、目立つせいかひどく寒そうに見えたので、荷物の中に入れてやった。積もった雪を見たら、こいつ、なんと思うのだろう、そんなことを思いながら。


 やがてその機会は訪れた───積もった雪、なんて騒ぎではなかったのだけれど。



 急勾配を切り欠いて作られた坂道を下ると、崖下からは作物のすっかり刈り取られたうらさびしい畑が広がっていた。山道は、急にあぜ道へと変わる。視野の変わりよう、道の変わりように、目と足に違和感を覚えるほどで、僕は一度目を閉じて深呼吸した。


 ここから先はずっと平坦な土地が広がる。地図によればはるか先を幅広の川が流れており、その川沿いに集落があるはずだった。川以外の三方は、断層のずれが形成する切り立った崖で、いま僕はその崖の上から下りてきたわけだ。道をしばらく集落の方角へ歩いて、ふと振り向くと、崖は思っていたよりずっと高く険しく、僕はまるで盆の底にいるような感覚を味わった。


 崖下から集落まで、畑の間を貫く幅広の道を、上着の襟を立ててとぼとぼと歩き続けた。ひどく冷える日で、ことに盆の底のこの場所は、冷気が淀んでいるかのようだった。集落の家並みは遠くにうっすら見えるだけで、距離感がつかめない。はやく集落へ入って、あったかいお茶を飲んで落ち着きたかったけど、あとどれくらいかかるのか、旅慣れた足でも判然としなかった。


 突然、びゅうと風が吹いた。


 直感的にまずい、と思った。吹きつける風の感触が、寒さとぬるさの違いこそあれ、夏の夕立のときと似ていた。振り向くと、今しがた下りてきた崖のへりから、急速に雲が張り出してくるのが見えた。


 まずいと思ったところで、お天道様相手ではどうにもならない。すぐに雪が降り出した。はらはらと舞い始めた雪は、あっという間に横殴りの猛吹雪になった。


 ふみャ、と鳴いてトントンが僕の肩へと駆け上がる。僕はトントンを荷物の中へ押し込んだ。そうして足を止めているうちに、空は真っ黒になり、行く先は灰色の壁とまだら模様になってしまった。道があると信じて、先へ進むしかない。僕は薄目だけを開けて、冷たく刺す痛さをこらえながら、集落に向かって、突っ走った。突っ走った。


 踏み固められた土の確かな硬さが、さくさくさくと新雪を踏みしめる柔らかなものに変わる。視界ももう真っ白だ。何もかもが頼りなく、在るべき世界から切り離されてしまったようで、不安になる。でも、突っ走るしかない。


 突っ走って、突っ走って、何か白いカタマリのような、細長い陰影のそばを駆け抜けた。


 「そこの若いの!」


 突然カタマリに声をかけられた。かんだかい女性の声が、ごぉぅとおらぶ雪混じりの突風の間を鋭く突き抜けてきた。僕はびっくりして足を止めた。


 カタマリじゃない。盆の底、その一本道の上に、白衣を着て、眼鏡をかけた女性が、ひとり。白衣を着ているせいで、雪と混ざりながら、凛と立っていた。はいているズボンの色はカーキで、これは道や畑がなすまだら模様に混ざっていく。ずいぶんと薄着だけれど、まるで寒くなさそうだった。刺す雪を、痛いと感じていないようだった。


 「そんなに急いで、どこへ行く?」


 ずいぶん、偉そうな口の聞き方だ。そういえばいま、『若いの』と呼ばれたけれど、彼女だってじゅうぶん若く見える。へたをすると僕よりも年下じゃないだろうか。短い髪に丸顔で、強気とか勝ち気とかいうより、おしゃま、という感じがした。口調は厳しく大人びていたけど、唇の端の笑みと、丸い瞳は、優しさをたたえていた。


 「どこへって、雪が降ってきたから急いで……」


 「集落は遠いよ」


 くっくっくと笑った。


 「まったく、遠く離れたこんなところにまでだだっ広い畑を拓くんだからね。ごくろうさんなこった」


 そんなところにひとりで突っ立ってる女性はいったいなんなんだって、当然浮かび上がった疑問を察してか、彼女はすぐにその答えを言った。


 「おかげであたしは助かってるのさ! こんな絶好条件の研究場所はそうはないよ」


 「……研究場所?」


 「そう! あたしは雪と空間に関する研究をしてる。ま、学者って奴かな。『雪博士』と呼んでくれたまえ」


 彼女はぴっぴっと指を振った。自分で自分を博士と呼んで、ちっとも悪びれたところがない。疑問は氷解だ、研究者という存在に、やっていることの理由や是非を問う方が野暮というものだ。


 「ところできみ」


 ほら、問わなくても勝手にしゃべってくれる。


 「雪はどこから降ってくるか、知っているかい?」


 知ったことか、などとも言えず。


 「そりゃ、空から……いや、雲から、ってことなのかな?」


 僕がそう答えると、雪博士は、にやりと笑った。


 「本当に、そう思うかい?」


 僕は空を見上げた。空は灰色だった。どんよりと、盆を覆う巨大な空間、すべてが灰色に満ちているような気がした。灰色の中から、雪が後から後から視界に飛び込んでくる。


 びゅうと横風が吹いた。とたんに、見上げる視界は、横に動く白い筋で埋め尽くされた。


 僕は風上を見た。雪は風に乗り、僕に向かって突っ込んでくる。雪は、後から後から、僕の視界へと飛び込んでくるのだ。


 「雪はね」


 雪博士が、言った。


 「どこからともなく、降ってくるんだよ。わかるだろ?」


 言われてみれば、そんな気がした。


 雪は、僕の視界に入る、その直前に、生まれているのかもしれないのだ。僕の視界から通り過ぎた瞬間に、もしかしたら消えている奴だって、いるのかもしれない。


 「どこから降ってくるんだろうね、雪は。あたしは不思議でならないんだ。……だから、研究してる」


 僕の足下はだんだん雪で埋まりはじめた。


 「こっちへおいで」


 雪博士は、僕を畑の中へといざなった。




 畑の中に、簡素なかまくらと呼ぶのが近いだろうか、小さな雪の洞穴が作られていた。経験はないけれど、冬の登山で吹雪に巻かれたときには、ビバークのためにこんな洞を掘り上げると聞く。……そんなものを作っておけるほど雪が降ったっけ?


 洞は、ふたりが灯りをはさんで座り込める程度の広さだった。雪博士は、雪の真上にどんとお尻をつけて座った。僕もそうしてみたが、直に雪の上に座り込むとどんどん溶けて服にしみこんでくる。雪博士はてんで気にならないようだった。……研究してると言っているが、研究道具や記録用紙はどこにも見あたらない。


 冷たくて気持ち悪いので中腰になると今度は頭が天井についてしまう。雪の中は断熱が効くので外より暖かい、というのはほんとうだったが、冷えることには変わりないし、居心地はよくなかった。


 そんな僕に気づくつもりもないようで、外を吹きすさぶ風の音に負けない熱弁を、雪博士はふるった。


 「雪は美しいね。どこからともなく現れて、どこへともしれず消えていく。その間に、中空を優雅に舞い踊るんだ。美しい姿だけ、美しいときだけをその短い間に残していくんだ。神秘的だよ」


 「でも、」博士には気圧されるばかりで、対等である気がしない。妙に丁寧な口調になってしまう。「その神秘を、道具も記録もなしに、どうやって研究するんですか」


 「考えるんだよ。深く深く洞察するんだ。わかるまで、いつまでも、いつまでもね」


 洞の中で、僕と雪博士はほとんど距離なく顔を寄せ合う格好だった。けど、ひどく薄着の博士が、白衣の下に何を着ているのかよくわからなかった。目を細めて見ても、視界がなんだかぼやけた感じに映る。ただこの寒さの中、首がむき出しなのはわかった。直ぐに通った筋のかたちがやけに色っぽい。


 「食べるかい」


 博士が硬く固めた雪玉を差し出してきた。


 「それ、食べ物ですか」


 「のどを潤すくらいにはなる」


 博士は雪玉をかりっと囓った。とろりと滴が、彼女の唇の端から、首筋へと流れ落ちた。僕は目を背けた。


 ……と、いつの間にか荷物から這い出していたトントンが、洞の入り口で外を向いて、初めて見るであろう吹雪を眺めながらちょこねんと座っていた。尻尾の動きにどうも落ち着きがなく、ご機嫌斜めに見える。


 トントンの見つめる先は、雪で埋め尽くされ、まるで視界がない。白壁に塞がれたようだ。あるいは、真昼だのに、雪だのに、何もかもを飲み込む、闇のようだった。


 トントンの尻尾の動きが急に止まった。みゃあぁ、と、甲高く鳴いた。


 声につられて外を見た博士の目が、釘付けになった。


 「雲の動きが変わった」


 博士が言った。そうなんだろうか。僕には全然わからない。吹雪は洞に入ったときよりむしろ強くなったようだ。


 「でかした猫!」


 博士は諸手を挙げて洞の外へ、白い闇へと飛び出した。


 「わかるかい?! すばらしいよ、この雪は!」


 目をきらきらさせて、頭を空っぽにして、刃物のように空を裂く吹雪の中を、子供のように駆け回る。びしょ濡れになっても、まるで寒くないようだった。その姿は、吹雪に溶けたり現れたり、気っぷのよい喜びの声も、風音に混じったり消えたりを繰り返して、僕には、そこにいるのが誰だかわからなくなりそうだった。


 やがて博士は、白衣が白い闇に溶けるか溶けきらないかの距離で足を止め、空を見上げた。


 あれだけ楽しそうにしていたその顔から、ふっと表情が消えた。


 喜びはなく。泣いているようにも見えて。そしてやはり、彼女は空っぽで、何も考えてはいないようだった。ただ、立ち尽くしていた。


 一連の行動を、研究とは言うべくもなく、けれど、彼女にとって研究に値する行為はそれ以外にないのだろうと僕は思った。




 いつまでも同じ風は吹かない。やがて風が弱まり、博士の姿が闇の中から戻ってくる。


 憂いを含んだ顔を僕に向けて、博士は言った。


 「あぁ。終わってしまったよ。あれは今年いちばんの乱舞だったよ。あれだけのものを見られたということは、今年ももう冬は終わりが近いね。遅い雪ほど美しいものさ」


 「そう……なんですか」


 「君にはわからないか。残念だね。正直を言えば、この喜びを分かち合える者がいるなら、研究なんかやめてもいいと思ってるんだ」


 僕は尋ねた。「ずっとひとりで、研究してるんですか」


 「まぁね」雪博士は答えた。


 「寂しい、のですか」


 訊いてしまってから、それは訊いてはいけない質問のような気がした。


 雪博士は、しばらく黙っていた。


 それから、ぽつりと答えた。


 「あたしは、誰かを恨む気はないんだ」


 僕にはその答えの意味がわからなかった。でも、問い返すことはできなかった。


 逆に博士が尋ねてきた。


 「雪って、どこから降ってくるんだろうね」彼女にとってそれは永遠の命題のようだった。「君は、どう思う?」


 「よく、わかんないですけども」僕は答えた。「それでも雪は、天から降ってくるんだと、思います。そして、地にまみれて溶けゆくんです」


 雪博士の顔色がさぁっと変わった。……僕は、何か、まずいことを言ったろうか。


 「そうか、……そうだね、……そうかもしれない」


 彼女はとまどっていた。勝ち気な体を保とうとしていたが、動揺を隠しきれなかった。


 「貴重な意見をありがとう。急いで論文にまとめなくちゃ」


 僕に背を向けて、歩き出した。弱まったといえど、吹雪には変わりない。どこへ行こうというのか、けど、後を追ってはいけないような気がした。


 トントンが小さな足跡をつけながら後を追った。雪博士の背を、目立つ黒い点が駆け上がり、肩口で、あおー、と鳴いた。博士はちょっとだけ立ち止まり、その頭を撫でた。「ありがとう。君はいい子だね」それから、トントンに僕の元へ戻るように促すと、再び歩き出した。


 「いつか、研究の成果が出ることを、楽しみに待っていてよ」


 声は吹雪の中に消えた。白衣姿も白一色の景色に混ざり、どこへともなく消え去った。


 成果は出ないだろう。彼女の研究は、永遠に終わることがないんだろうって、僕は思った。




 博士が去った後、また少し雪が弱まって、路面がどこにあるかをどうにか判別できるようになった。冷えた空気をこじ開けるように進んで、集落にどうにかたどり着き、小さな宿屋兼食堂に暖を求めて転がり込んだ。


 こうして飛び込む客はよくいるらしく、食堂のおばちゃんは手慣れた様子で、ありあわせのスープとよく火の通った肉焼きを、トントンには皮膜が浮くくらいの熱いミルクをあてがってくれた。底冷えのする寒さが、放っておいてもちょうどいいぬるさにしてくれる。


 「あの」


 がつがつと腹に入れて、あったまってひと心地ついたところで、僕は食器を下げに来たおばちゃんに尋ねた。


 「『雪博士』って人、ご存じですか」


 それまでにこやかだったおばちゃんの顔が、急にこわばった。


 「……あんた、雪博士に会ったのかい?」


 そそくさといっぺん厨房に引っ込み、今度はお茶を持って戻ってきたおばちゃんは、湯飲みをとんと僕の前に置き、自分も座り込んで語り出した。


 「あの博士は幽霊だよ」真顔で、はっきり言われてしまった。取り憑かれて殺された人も何人もいるんだとか。「かわいそうに、まだこの世に未練があるんだねぇ……」


 ある年の、作物の刈り取りの終わった頃、集落の中のある農家の若い娘が、畑の見回りをすると言って家を出ていったきり、戻ってこなかった。村人が捜索を始めるのと時を同じくして、激しい雪が降り始め、そのまま記録的な積雪となった。結局娘は見つからず、翌年の春、僕が白いカタマリを見た辺りの畑で、溶けた根雪の中から、ほぼきれいなままに仰向けに横たわっていた遺体が発見されたそうだ。雪博士が現れるようになったのは、その次の冬からだ。雪博士の顔立ち、気っぷのよさは、生前の彼女にとてもよく似ているという。


 ただ、彼女は働き者の農婦ではあったが、特に学はなく、なぜ博士と名乗るようになったかは皆目不明だ。


 そしてもうひとつ、彼女が死んだ理由もわからなかった。明るく働き者の娘が、ひとりきり、いくら広いとはいえ勝手知ったる村の畑の中で、死んでいった理由。想像はつくが、おばちゃんも、店内に何人かいた村人たちも、誰も黙して語らなかった。


 遺体は荼毘に付され、形ばかりの慰霊碑も建てられたが、彼女の魂は今もなお、雪の来し方行く末の研究を続けている。


 どこからともなく降ってきて、しんしんと積もりゆく、雪。人を、畑を、世界を、白い底へと沈めて、なんら憚ることもなく、なんら悲しむこともなく。




 翌朝。


 雪はやんでいたが、変わらずどんよりと曇っていた。今日も雪かねぇと、おばちゃんは言った。


 雪博士の慰霊碑に行ってみようと思った。朝の冷気に凍った雪を踏み分けて、僕は来た道を引き返した。雪は結局、靴の高さ程度に積もったきりで、畑を見ると刈り取り跡がわかるほどだった。


 慰霊碑は、積もった雪をはがしてなお白い、小さな石膏像だった。僕が雪博士に会う直前に見たあのカタマリは、これだったかもしれない。台座に彫り込まれた追悼文に死因はやはりなく、非業の死を遂げた、とだけあった。


 僕は、その前でしばらく彼女のために祈った。


 空を見上げた。崖上から下りてくる風は、昨日ほど冷たくない。違うにおいが、混ざっている。


 今日は、降っても雨になるだろう。今年ももうすぐ、春がやってくる。

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