ちかねこ
トンネル、というものを、最近は通るようになった。
山や岩に穴をぶちぬいて、人や荷車が通れるようにした道だ。
峠道こそが旅の本懐である、と綴った詩人もいる。トンネルができると便利にはなるが、旅路は味気なくなる、というのが一般的な意見らしい。
最近は、灯火が夜に光を満たすようになったから気づかないのかもしれないけれど、人が積極的に闇を作るなんて、不思議なことだと、僕は思う。何人もの労働者が、必死になって、地域の未来のためと信じて、つるはしを打ちつけ、スコップを振り回して、闇を作る。出口のある闇を。人は、光を求めて生きる生き物じゃなかったんだろうか。それとも、光を求めて生きるためには、まず闇を作らなければならない時代なんだろうか。
そういえば、猫は本来夜行性だという話だ。人に飼い慣らされるようになって、昼間でも起きているようになったそうだ。もしかしたら我が相棒のチビ黒猫トントンは、懸命に
トントンには、このトンネルという空間が、いったいどんなふうに見えているんだろう。その闇に溶ける体で。金に光る瞳で。
レンガ作りのそのトンネルは、できてから間もないという話なのに、ずいぶんしみとひびが入っていた。あまり硬くない地盤に、技術もおぼつかないのに、ムリしてぶち抜いたらしい。もっとも、ムリをしてでも貫きたいほど、近辺の人にとっては切実な距離の短縮だったわけだが。
入り口脇には、真新しい碑が建っていた。慰霊碑、だった。トンネルの工事中、水が出たり落盤が起きたりして犠牲になった、七人の名前が刻まれている。
七人の魂には、せいぜい冥福をお祈りするばかりだが。失礼ながら、そういう中に足を踏み入れるのは、おっかなかった。外から見る限り、いつ崩れるものやらわかったもんじゃない。
さらには、トンネルの中には灯りがないそうだ。赤いレンガ、白いセメントに囲まれた黒い口の奥には何も見えず、人を呑み込むうわばみを連想させ、この先に出口があるなんて、とても信じられないほどだった。
「安心してとおんなさい」
でも、地元の人はすっかり慣れている。茶屋のおばちゃんが、しり込みしている僕を笑い飛ばしながら、トントンのミルク皿と交換で、カンテラを渡してくれた。出た先にも茶屋があるので、トンネルを抜けたらそこの店員に返せばいいそうだ。
「旧道通ってくと、向こうに着くのは明日になるからねぇ。その間、家は一軒もないんだから。肝据えて、早いとこトンネルを抜けていきなさいよ。ほら、ちっとも怖くないから」
肝を据えなきゃいけない旅ってなんなんだ。
ともあれ、おばちゃんに背を押されるままに、僕とトントンはトンネルの中へ入ることになった。
もともと荷車を通すためのトンネルだから、道はよくならされていて、足下が暗くてもけっつまずくことはない。後ろから光を浴びて、自分の影を追いかけるように、僕は先へ進んでいった。
だが道は、途中でゆるやかに曲がり、また、水抜きのための勾配もあって、まっすぐ見通せなかった。そんなに長いトンネルではないと聞いているが、出口が見えないと、やはり不安になる。さらには、歩をひとつまたひとつ進めるたびに、入り口からの外部の光が弱まっていく。深く深く奈落へ吸い込まれるような感覚が、大太鼓の鈍い鼓動をともなって襲ってくる。
どこまで行っても出口にたどり着けないんじゃないか、そんな言い知れぬ不安―――あんまり、うれしいものじゃない。ときおり、後ろを振り返って、まだ入り口から光が差し込んでいることを、確かめながら進んだ。それから、トントンを、抱き上げて肩に乗せた。その黒い姿を見失ってしまうことの不安よりも、あたたかな何かに触れていることで安心したかった。
だいぶ進んできた……外から届く光はすっかり弱まり、もう、手元もおぼつかない。そろそろカンテラに火を入れるか、と思ったそのときだった。
もういちど入り口の方を見やると、僕はほとんど動いていないのに、さっき見たときより外の光が強くなっていた。おや、と違和感を覚えて、そのまま入り口を見つめ続けた。まちがいなく、光が次第に強く、大きくなっている。……まるで自分が、入り口に向かって戻されていくかのような、そんな錯覚があった。
違う! 白く光る何かが、こちらに向かってくるのだ。
と、トントンが、僕の肩を下りて駈け出した。僕が止める間もなく、そしてためらいもせず、つたたっと光に突っ込んでいく。……そして、にゃぅ、とひと鳴きすると、向かってくる光る何かを、止めてしまった。
……光る何か、とは……
でも、体が光っていた。体は小さいけれど、発する光でできるいわば光球は、非常に大きかった。この真っ暗な中では、ひどくまぶしい刺激で、僕は二度三度、あふれ出てきた涙をぬぐった。トントンにはまぶしくなかったのだろうか? と思ったら、瞳孔が異常に閉じていた。
トントンは、襟首から口を離して、とすん、とこびとを地面に戻すと、僕の肩に舞い戻ってきた。……いっぽう僕は、そんなトントンの頭を撫でてやりながらも、どすんと腰を落として、連れてこられたこびとを、まじまじと見つめた。
こびとは体をさすりながら、起き上がって、僕に気づいた。そして、逆に僕の顔をまじまじと見据えて、まじめな顔をして言った。
「ボクのナマエは、何だろう」
僕は目をしばたたかせた。まぶしかったからだけじゃない。猫にくわえられてきたこびとの開口一番の言葉がそんなだとは、思いもつかなかったからだ。
こびとの光る向こうに、なぜだか、もう入り口の光は見えない。出口の方向を見やっても、やはり光は見えない。僕らはちょうどトンネルの真ん中の、どこからも光の差さない位置にいるらしい。カンテラにもまだ触ってない状態だし、今この場で灯りになっているのは、こびとの光だけだ。
こびとは、光る髪をして、光る肌をして、光る服を着ていた。光っていなくて、小さくなかったら、どこにでもいるような、一枚シャツに半ズボンの子供だ。
「……ボクのナマエは、何だろう」
こびとは、自分を指差して、また言った。
「……当てっこかい?」
僕は答えた。こびとは、少し首をひねった。
どうも違うらしい。こびと自身にも、どうも質問の意図が分かっていないらしいのだ。
「……でも、ボクにはボクのナマエがわからないんだ。それは、間違いないんだよ。だから、ボクはそれを誰かに訊かなきゃいけない」
「訊かなきゃいけないものなのかい?」
「当たり前じゃないか! 何にでも誰にでも、必ずナマエがついているんだ。ナマエがないものなんて、あるわけないだろ?! ボクにわからなくても、誰かがボクのナマエを知っている。ボクはそう信じてる」
言われてみればそうかもしれないけれど、不思議と僕にはそんな気がしなかった。名前がなくても、自分が生きていることには変わりはない、と思った。自分に名前のない世界、それも確かに、想像はできないけれど。
「うーん……」
僕は頭をひねった。光るこびとの名前って、何なんだろう。僕が光るこびとなら、子供になんて名前をつけるだろう。
おとぎ話じゃ、こびとの名前はわかりにくいものと相場が決まっている。それでたいてい、自分の名前を当てられなければ、『取って食ってしまうぞ』とか『おれさまの嫁になれ』とか、こびとは人間を脅かすのだ。こびとが、だ。
僕の前に出てきたこびとには、そんな様子はない。
「どうだい、わかったかい?」
期待に満ちた視線で、僕を見ている。こびとも、ときの流れの中で変わってしまったのだろうか。
どうにもわからないまま頭を巡らせるうちに、一抹の違和感も浮かんできた。……どうして僕だけがこうして考えなくちゃいけないんだろう。名前がわからないのはこびと自身であって、僕には、そんなのわからなくても、何の問題もないのに。
……あぁ、そうか。『自分の名前がわからない』という状況が、僕にはよくわからないんだ。
トントンを肩から下ろして、その瞳を見つめてみた。トントン、というのは僕がつけた名前だけど。トントンは、そんな名前でよかったのかな。そもそも野良猫に名前はあるんだろうか。猫どうし、名前を呼び合うことはあるんだろうか。
背を撫でてやると、トントンは、なぉーぅ、と鳴いた。
僕は、ひとつ思いついて、こびとに言ってみた。
「トントンは、君の名前がナオだと言ってるよ」
「……そんな名前だってかい?」
こびとは少し不機嫌そうに答えた。
「じゃ、ミュウかな」
僕が続けて言ってやると、こびとはなお不機嫌になって、腕を組んだ。
こびとは少し考えていたが、
「やっぱり、そうじゃないよ」
言って、辺りをごらんというように、手を広げ腕をぐるりと横に回してみせた。こびとの放つ光を受けて、トンネルの乾ききった、一部では湿気の染みたレンガの肌が、手の先に広がっていた。
「いいかい、ここは地の底奥深く、闇の中の闇なんだぜ。そこに住まうボクのナマエは、もっとおどろおどろしくて、気味が悪くて、イカれたナマエに決まってるじゃないか」
僕はもういちど目をしばたたかせた。彼は本当に、『名前がわからない』のだろうか。
「そういう名前だった、っていうのは、覚えているわけ?」
こびとはまた腕を組み、頭をひねった。
「……そうだと思うんだけどなぁ」
なんとも要領を得ない答えだった。頭をひねりたいのはこっちだ。今度は僕が手を広げ腕をぐるりと横に回してみせた。やはりこびとの放つ光が、トンネルの内側を照らし出していた。
「だいいち、君がいる限り、ここは闇の中の闇なんかじゃないじゃないか。まぶしくってしょうがないよ」
「ボク、そんなに明るいかな」
「明るいよ」
「そんな気がしないよ、ちっとも。でも、いいんだ。ボクは闇の中に住んでいるんだから。ボクのナマエはやっぱり、おどろおどろしい方がカッコイイや」
こびとは開き直ったかのように手を広げた。
「そんなもんかな」
「そうだよ。……で、ボクのナマエは、いったい何だろう」
話は振り出しに戻ってしまった。僕は、もう一度こびとの名前を考えるべく、ふぅむ、とひとつ息をついてみた。……そのときだ。
光るこびとの背後に、突然もうひとりこびとが現れた。こびとの光と、トンネルの闇の間に、突然にじみ出てきたみたいだった。今度は女性で、光らないこびとだった。光るこびとより、ひとまわりもふたまわりも大きい横幅のある体で、エプロン姿。ひとめで、光るこびとの母親だと、見当がついた。
こびとの母親は、いきなり背後から、げんこつでこびとの頭をぶん殴った。
「いってぇっ! ……な、なにすんだよ、かぁちゃん!」
「何すんだよとはなんだい! またひとさまに迷惑かけて! 肩身狭いのはこっちなんだよ! まったくもう、さっさと帰るよ!」
こびとの母親は、こびとの手首をひっつかんで引きずりながら、僕の脇を通り抜けて、さっさと出口の方へ去っていこうとした。……あんまりテンポよく親子の会話が進んだので、僕は完全に言葉を失い、危うくそのままふたりを行かせてしまうところだった。
「あの」
僕が呼び止めると、母親は振り返り、僕をじろりと見つめた。
「なんだい?」
「その子の名前はいったい……」
「またこの子は、そんなことを訊いたのかい?」
こびとの母親は、ふわぁ、とため息をついて答えた。
「いいからいいから、気にしないでおくれよ。それよりあんたこそ、こんな暗闇の中で何をしてるのさ」
「え……と、このトンネルを抜ける途中だよ」
答えて僕は、また先ほどと同じ不安に襲われた。今、この場所は、入り口からの光も、出口からの光も見えない。光るこびとが連れていかれてしまったら、ここは本当に、完全な闇になってしまう。
闇になったからといって、ここがトンネルであることには変わりないはずなのだけれど、僕にはふっと、その事実が保証されないように思われた。こびとのいない、光のないこの空間は、永遠に、無辺際に、闇が続くような、そんな気がした。
トントンの背を撫でながら、僕は尋ねた。
「このトンネルは―――ちゃんと、外へ通じているのかな?」
「そりゃああんた、当たり前じゃないか。誰かが住んでるところから、誰かが住んでるところまで、つながっているんだよ。知れた話だろ?」
僕の不安を知ってか知らずか、こびとの母親はあっさりとそう答えて、再びこびとの手を引いた。
「……さ、行くよ」
「はぁい……」
光るこびとは母親に逆らえないようで、おとなしく、引っ張られるままにそのあとをついていった。
一見、どことなく微笑ましい光景に見えて、あっけにとられてしまって、……はっと気づくと、ふたりの歩く速さは、どんどん増していた。歩いているはずなのに、ものすごく速くて、こびとの光は、あっという間に小さくなっていく。
まだ、カンテラに火を入れていない。僕の周囲に、再びじわじわと闇が覆い被さってきた。
と、トントンが僕の手をすり抜け、地面に飛び下り、こびとを追って走り出した。その黒い姿はあっという間に闇に溶けてしまう。
自分が闇に包まれていく感覚と、自分ひとり取り残されてしまう感覚。そのふたつは、天秤にかけるものだったろうか、それとも足し算すべきものだったろうか。ともかく、僕も慌てて立ち上がり、ふたりを、そしてトントンを追った。
追いかけて、走ってゆくと……小さかった光は、少しずつ大きくなっていった。
光るこびとに追いついたのではなかった。それは、出口から差し込む、外の光だった。
トンネルを抜けると、さんさんと降り注ぐ、まぶしく白くあたたかな太陽光の中で、トントンがちょこんと座り、ふわ、とひとつあくびなどして待っていた。黒い毛皮を、てらてらと輝かせながら。
そして、光はここにある、といわんばかりに、ひなたの地面を前脚でつたんつたんと叩いていた。もしかすると、その前脚の下に、光に満ちたこの場所では見えないだけで、実はあのこびとをとっつかまえているのかもしれなかった。
出口脇の茶屋は、入り口に建っていたのとまったく同じつくりだった。応対してくれたおばちゃんも、入り口脇の茶屋のおばちゃんとは親戚同士なのか、どことなく顔が似ていた。
僕は、店の前の
「中で、光るこびとに会ったんだ」
おばちゃんはなんでもないように答えた。
「おやおやそうかい?」
「ボクのナマエは何だろう、って訊かれたよ」
「よくわかんないこともあるもんだね」
おばちゃんは、にこやかに笑いながら僕にお茶を、トントンに煮干しを出してくれた。
「そういうときは、気にしないで無視して通り過ぎるのがいちばんだよ」
そうなんだろうか。とすると、あそこで立ち止まって、座り込んでまでこびとにつきあった僕は、よっぽどおせっかい焼きなんだ。自分じゃあ、あまりそうだとは思わないけれど。……僕は店先で、お茶をすすりながら、トントンと一緒にしばしぼーっとしていた。
それにしても。
やっぱり、気になる。
あのこびとの本当の名前は、いったいなんだったのだろう?
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