おかねこ

 僕の相棒であるチビ黒猫トントンは、まこと奇ッ怪な猫である。


 どこにでも行く。どこにでも入る。好奇心にあふれるその行動には、縄張りに住まう他の猫には、とうていできない芸当が多い。


 たとえば、目立たないことだが(目立ってても困るが)、トントンはどこででも用を足すことができる。猫のトイレなんてのはたいがい決まっていて、それが子どもの遊ぶ砂場だったりするので大問題になったりするわけだが、トントンに限っていえば、土をほっくり返せるところならどこでもいいらしい。便利な奴だ。


 トントンにとっては、世界すべてが、巨大なトイレであり、遊び場であり、ライフグラウンドなんだろう。


 家とか、縄張りとかで区切る方が、どうかしている、のかもしれない。




 そんなわけで、のっけからびろうな話で失礼するが、その日僕は、山の麓にある小さな村に行って帰ってくる途中で、急に腹痛に襲われ、草むらにしゃがみ込み、用を足していた。僕が悪いんじゃない。ゆうべの鹿刺しが悪いんだ。そうでなきゃ、今日も寒々しくぴゅうぴゅうと吹いてくる、北風のせいだ。寒い日だった。


 胃薬は飲んだから、もうこのくらいでおさまると思うが、まったくついていないったら。


 トントンは自分の用をさっさと済ませて、前脚で顔を洗っていた。ちぇっ、人の気も知らないで。


 下を向いて少しりきむ。力を抜いて顔を上げる。この辺りは、川のまわりに開けた、何も人の手の入った様子のない平地で、なだらかな丘陵地に挟まれている。川沿いに、岸から少し離れたところを道が通っている。川の源流にあたるのが、ゆうべ僕の行った村、というわけだ。で、いま僕は下流方向に向かっていたわけだ。


 川を背にする僕の位置からは、目の前に道と、薄茶色になった草原があり、遠くに丘があった。見た目には切り立った崖になっているが、標高はそんなに高くない。さしずめ、この平地が開拓されていて、畑地が広がり人家がいくつも連なっているような土地だったとすれば、あの丘の上にはおやしろが建っている、といったところ。


 またくだってきた。下を向く。力を向いて顔を上げる。


 ……あれ?


 風景が違うような気がした。ヘンだな。目の前の草地って、こんなに狭かったっけ? 何だか、丘が少し近づいてきたような気がする。崖になっている部分のむき出しの岩のぎざぎざが、さっきよりもくっきりと見えている。でもまぁ、自分の状態が状態だけに、あまり気にしなかった。


 また顔を伏せて力を入れる。どうにか全部出し切れたようだ。すっきりした。で、顔を上げた。


 ……風景は明らかに、まったく一変していた。


 目の前が崖になっていた。


 さっき、おやしろが建っていそうだなぁ、なんて遠目に思っていたあの丘が、いま僕の目の前にそそり立っているんだ!


 あんまりびっくりしたもんだから、今しがた自分の出したものの上に危うくしりもちをつくところだった。


 丘はやっぱり動いていたのだ。いやいやいや、過去形じゃない、今もなお、音もなくするすると、僕の方に近づいてくるではないか! 僕は慌てて尻を拭いてズボンを引き上げた。


 本当はきちんと埋めなきゃあいけないんだろうが、そんな場合じゃない。僕は、トントンを抱え上げると、あせって逃げ出した。


 ずっとしゃがんでいたんで足がしびれる。思うように動いてくれない。それでもどうにか草をかきわけかきわけ、逃げてゆく、って、行く先は川が流れていたはずだぞ。


 丘はこっちに近づいてくる。どんどん迫ってくる。草地だったはずの場所は、もうなくなっていた。通ってきた道の上に覆い被さって行き止まりにし、僕のしたものもその真下に飲み込んでいった。


 僕は逃げた。行き着いた先は、川岸だった。……川を見て僕は天を仰いだ。跳んで超えられるほど狭くなかったのだ。とうとうどうどうと水は流れ、僕を阻んでいた。長い年月のうちに、平地を作り出してきた川だ、幅が広くて当然なのだが、それを当然と考える冷静さを、どこかへ追いやる絶望的事態だった。


 よく、谷川に面した切り立った崖の上に主人公が追いつめられる、なんて話があるが、まさか崖が追いつめてこようとは思いも寄らなかった。このままじゃ、迫り来る岩の塊、にじりよる丘に、冷たい川の中に突き落とされてしまう!


 「ストップ! ストーーーーップ!」


 僕は思わず、叫んでいた。


 すると丘の接近は止まった。……なんて素直な奴なんだろう。




 やぁ、ごめんよ。人と猫がいたなんて、気づかなかったよ。


 丘がしゃべった。しゃべっているかどうかもよくわからない、空気に溶けていくかのような、そんな声だった。僕は今さら驚かなかった。何しろ丘が動いて人を川に突き落とそうって時点で、僕のびっくりはとっくに針が振り切れていた。


 丘は、完全に動きを止めていた。動きが止まってしまうと、僕からすればとてもとても雄大な、苔のこびりついた岩、すっかり葉を落とした多くの雑木、巣食うカミキリ虫だとか、それらすべてをひっくるめたシステマチックな隆起は、もう何百年も前から、そこに存在していたかのようだった。


 丘は言った。


 なにしろぼくはずうたいが大きいから、あんまりまわりが気にならないんだ。


 「そんなこと言ったってさぁ……」


 僕はため息をついた。


 「いったいぜんたい、なんだって丘が動いたりするんだい?」


 いや、ね。家を建てるから、どいてくれって、そう言われたんだ。


 丘は、ゆったりと、そう答えた。


 ぼくは山みたいにえらくないから、そう言われたら、どかないことにはねぇ。


 「だからって、道を塞ぐことはないじゃないか」


 やぁ、ごめんね。でも、ぼくの上に、道を通してくれて、かまわないよ。どんどんふみつけにして、道を作っておくれよ。そこから、左手に回り込んだら、登りやすいところがあるからさ。


 なんともかんとも、行動責任とか、公衆利益とか、そういう人間的なことは、人間じゃないんだから当然といえば当然だけど、どこか置き去りだった。


 「もう少し引っ込んで、道をよけてくれないかな」


 こまったなぁ。ほんとうは、もう少し前に出なきゃいけないんだよ。


 丘は答えた。僕からは見えない、丘の向こう側にいる誰かは、いったいどれくらいの広さの家を建てたがっているんだろう。それとも、十軒二十軒、まとめて建てる気なんだろうか。


 丘は続けた。


 でも、道はともかく、川をふさぐと、さすがにぼくも、なにかとやっかいがあるんだよね。まぁ、ここらがぎりぎりってとこで、かんべんしてもらうかなぁ。


 なら、僕がストップって言わなくても、川の手前で止まっていたということか……それはまぁいいとして、厄介なのはこっちだ。歩いていくはずの道が、なくなってしまった。僕のひねり出したなんとやらとともに、丘の下に、消えてしまったのだ。


 これは僕だけの話じゃない。道がちゃんと通じていないと、山麓の村の人たちは、とても困るだろう。確か、この道が、他の町とつながる、唯一の生活路のはずだ。川岸を伝ってゆく、回り込んでいくという考えもあるけど、丘は川岸ぎりぎりにまで接近してしまったから、そうすると雨が降って川の水が増えるたびに寸断されてしまう。やはり、ちゃんとした道が必要だ。


 しかたない。かくなるうえは、丘の言うとおり、丘の上に道を作るしかない。僕は先ほどの言葉通り、左手に回り込んだ。道は行き止まり状態になっていた。……丘は、草や雑木や潅木がごちゃごちゃと生えていて、どこを登っていけばいいのか、さっぱりわからなかった。特に、丘の言う『登りやすいところ』があるはずのあたりは、以前から日当たりがよかったらしく、枯れかかった背の高い草が完全に目の前を塞いでいた。


 どうしたものかな、と思っていたら、トントンが僕の肩から下りた。トントンはちょっとだけうろうろした後、草の間に、するり、と入っていった。

 見てみると、本当に細いものだけれど、そこだけわずかに踏み固められた形跡があった。さすがはトントン、けもの道を見つけてくれたのだ。どこを通ればいいか、いちばんよく知っているのは、けものたちなのだ。……いや、けものが通るからこそ、丘はそこが『登りやすいところ』だと知ったのだろう。


 僕は、まずそこへのとっかかりを、足でしっかりと踏み固めた。枯れ色の草は、ぼきぼきという音を立てて、わりと簡単に折れた。それから、かき分けかき分け、その道幅を広げるように、両脇の草を踏み倒しながら、トントンの後を追った。今の僕には踏むことしかできない。これからこの道を通る人が、いずれちゃんと草刈りをするだろう。冬日の下で狂い咲く可憐な花は、踏まずに残してみたけど、さて草刈りをする人たちも、そういう気を配ってくれるかどうかは、僕にはわからない。


 ぎゅっぎゅっと草を踏み、あるいは折り倒して、立ち上る枯れた匂いの中を、僕なりに道を作りながら、どうにか坂を登っていった。背の高い草の一帯を抜けると、雑木が広がり、草は下生えになって、少しずつその量を減らす。


 木の方が多くなってくると今度は、行く手に折れ枝が覆い被さっていたり、石が転がっていたりしたけれど、できる限りどけてみた。勾配が急になるところでは、回り道ができないか考えてみた。きっと荷車とかも通るんだろうから、邪魔や急斜面は、ないにこしたことはない。


 そんなこんなしながら、えらく長い時間をかけて丘を登りきると、視野が急に開け、崖の上に出た。これで、登りの道は完成だ。僕はひとつ息をついて、近くの雑木に寄り掛かった。


 びゅうと冷たい風が吹き抜け、たらたら流れていた汗を冷やし乾かした。川の流れが、ずぅっと遠くから、ずぅっと遠くまで、手に取るように見える。風光明媚、というほどじゃないけど、登ってきた苦労が報われる、気分の良くなるいい景色だ。平坦な道が同じように続くより、こんな坂越えがあって、ひと休みする場所がある方が、旅はおもしろい。


 「せっかく道を作ったんだから、もう、動かないでおくれよ」


 僕は丘を、爪先で軽く蹴りながら、言った。


 そうだなぁ。たのまれたら、また動くかもしれないけど、とうぶんは、だいじょうぶだと思うよ。


 丘は答えた。


 おやしろとか建ててくれて、永遠にここからどかないでくれっていわれたら、そりゃあ、ぼくだってうれしいんだけどねぇ。


 この丘は、いつかそんな場所になるんだろうか。人が増えて、この川沿いにも家が建つようになったとき、そうなっていればいいと思った。けど、そうなるより前に、また家を建てるからって言われたら、丘は再びどこかへ移動していくのだろう。


 ……ふっと気になった。人が増えて、どんどん増えて、そこいらじゅうが家になって、どくだけの広い土地がなくなってしまったら、丘はいったい、どこへ行くんだろう。小さく消えてしまうのだろうか。遠くにそびえる別の山に、吸い込まれてゆくのだろうか。


 尋ねてみたかったけれど、なんだか答えが怖くて、僕はだんまりを決め込んだ。


 足もとでは、トントンが石ころを転がしていた。その石を拾い上げて、いくつか意味ありげに積んでみた。ここを通っていく誰かが、何か祈る場所になればいいと思った。


 ここが丘ではなく、なにごとにもけして動じない山となるように。―――なにごとにもけして動じなくてすむ、山であるために。




 さて、下りだ。


 下りにも道を作って、反対側の行き止まりと、きちんとつなげなくちゃならない。僕は、大きく伸びをし、それから、疲れた足首をぐりぐりと回した。あんまり休んでもいられない。じきに日が暮れてしまうからだ。


 トントンはもう下り始めている。なんだか、うれしそうに駈けていく。


 トントンの行く先には、ちゃんとけもの道があった。トントンもやっぱりけものなんだな、そんなことを思いながら、僕は登りのときと同じように、道を足でしっかりと踏み固めていった。

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