転移

 大学へ行くために駅へ向かう。

 平日の昼前だから、駅は人が少ない。

 時間があるので、立ち食いうどんを食べた。


 久々に、缶詰とカップヌードル以外の物を食べている、そのことに気がついて、ふと笑ってしまった。


 駅は長閑だ、朝のラッシュとはえらい違いだ。

 やはり人は、ゆっくりと生きるべきだろうな、なんで急ぐのだろう。


 私は数学会で、隠れた有名人になっている。

 姉にいたっては、美人数学者と、崇拝者までいる始末だ。


 私は有名人にならなくて、よかったと心底思う。

 もし私の名前が世に出たら、この怪我のことと相まって、静かな生活は望めないのではないか?

 否応なしに、敷かれたレールを走らざるをえない。


 生きるためには仕方ないことでも、延ばせるなら先に延ばしたい。

 好きな化学や物理や数学に囲まれて、静かに生きたいものだ、学問は裏切らない。


 私は姉が悲しむので言わないが、やはり男でないのは辛い。

 好きな女の子もいたが、一切告白などしなかった。

 また、女性には近寄らないようにしていた。

 唯一、姉だけが私の知っている、若い女性かもしれない。


 父さん、母さん。

 私はあなたたちの愛情は、あまり覚えていませんが、姉といると、肉親の愛情をひしひしと感じる。


 人は愛情なしでは、生きていけないのは確かだ。

 あなたたちも、私に愛情を注いで、慈しんで育ててくれたのでしょう。


 私は嘘偽りなしに、感謝しています。

そして姉がいたことに対して、本当にありがとうと言いたい。


 姉さんだけは、幸せになって欲しい。

 私なんかよりも、もっともっと幸せに。


 ベンチに座って、思いをめぐらしていたが、電車の来る知らせが、ホームに鳴り響いた。

 私は腰をあげ、ホームで電車を待つこととした。


 すぐ後ろから、奇声が聞こえた。


 振り返ると、顔を震わせ、目の焦点が合ってない男が走ってくる。

 周りの人が、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。


 まずい!逃げなくては!


 男は体当たりしてきた。

 私は突き飛ばされて、ホームに落ちた。


 電車の急ブレーキの音が聞こえたが……


 気がつくと、自分の死体を見下ろしていた。

 もうだれのか分からないほど、細切れになっている。

 私を突き飛ばした男が、取り押さえられていた。


 姉さん、ごめんね……後は頼みます。


 体がどこかへ吹き飛ばされる。

 思わず目をつぶってしまった。

 止まった感じがしたので、目を開くと、裸で空間に浮かんでいる。

 と、目の前に姉が、微笑みながら正座していた。


「ご苦労様だけど、がんばってね、それからこれを着てね」

 と云いながら、姉が昔着ていたセーラー服を差し出した。

 姉さん、朝の電話はこのことでしたか。


 頭に声が聞こえた。

 ……生きるために必要なものはなんですか?……


 『衣食住』と答えたら、『具体的に』と聞かれたので、

 『とりあえず通販で事足りるのでは』と応えてしまった。

 そして時間が停止した。


 綺麗な人が浮かび出てきて、頭を下げながら云った。

「あなたさまのお力が必要なのです、ぜひにお願いします」

「お姉様にはご了承いただきました」

 と……


 なんで姉が?


 そして世界は暗転した。

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