有沢華火は刺されると死ぬ

叶あぞ

第一幕


 二人は試合場の中央で、互いに一礼してから日本刀を鞘から抜いた。試合場の四方を生徒たちがぐるりと囲んで、試合の様子を固唾を呑んで見守っている。

 久太郎は、剣闘が始まった直後の、もっとも緊張感の高まった瞬間が好きだった。この剣闘が終われば次は久太郎の番だ。中学のときは剣闘部で公式試合にも出たことがある、たかが高校の練習試合――とはいえ、この試合の結果によって、久太郎たち新入部員の力量が見定められる。ここで勝たなければ、一度作られてしまった「序列」を覆すのは難しい。久太郎は試合場から意識を外して、目を閉じて深呼吸を繰り返した。

 どよめきが聞こえて、意識を目の前に戻す。

 一方の生徒が首からおびただしい血を流して倒れていた。対手の生徒の方も、血を流した右腕がだらりと垂れている。腱を切られたか。審判役の顧問の教師が「決着!」の声を上げた。

 どちらの生徒も久太郎とは違う中学の出身で、顔に見覚えはない。しかし首を斬った方の生徒は間違いなく剣闘の経験者だ。素人が最初にぶつかる壁は、いかにして最小の手数で相手に致命傷を与えるか、だ。久太郎は同級生たちと比べても覚えの早い方だったが、一息で腕や首を落とせるようになるまで一年はかかった。

 試合が終わると、怪我を負った生徒二人は、上級生たちの抱える担架で外まで運ばれて行った。あのまま「再生室」に運ばれたのだろう。同時に、血だらけの試合場を当番の上級生たちが急いでモップがけする。大会のレギュラーに選ばれなかった生徒が掃除や担架をやるのは中学剣闘部と同じだ。たとえ同じ学年であったとしてもそこには明確に序列が存在するのだ。ますます負けるわけにはいかない、と久太郎は緊張で心拍数が早まるのを感じる。

 血を洗い流して乾燥させるのにいつもだいたい五分くらいはかかる(全国大会が行われるような最新の試合場だと一瞬でしかも全自動で掃除される、と聞いたことがある)から、さっきの二人も次の試合までには再生室から戻ってくるだろう。体は全部原型を留めていたから治療にはそんなに時間はかからないはずだ。

 現代のように細胞の再生治療が主流になる前は、怪我をしてそのまま亡くなった人も多かったと聞く。と言ってもその当時のことを知る人間に久太郎は会ったことがない。近所でも長生きしている部類である久太郎の祖父ですら、子供のころには細胞再生医療は普通になっていた(当時は医療費が高かったので、貧乏故に入院費をケチって死んでしまった同級生もいたという。久太郎は祖父が酒の席で笑い話にしていたのを聞いたことがある)。

 と、益体もないことを考えていると、試合場の準備が整って久太郎の名前が呼ばれた。女の先輩から、痛覚を麻痺させる薬を受け取って飲み込む。準備ができてから、刀を受け取って、試合場に一礼してから中に入る。

 対手の歩き方を観察する。すぐに、相手が経験者であることが分かった。そういえばあの顔、中学の公式試合で見た記憶がある。どんな成績だったのかまでは、思い出せない。要注意。

 公式の作法で礼をして、久太郎と相手は同時に刀を鞘から抜いた。

「始め!」

 教師の号令を聞くと同時に久太郎は突進した。このタイミング、完璧だ。フライングになるギリギリのタイミングが体に染み付いている。

 対手は冷静さを失うことなく刀を正眼に構えている。久太郎は下段に構えた剣を振り上げた。

 ガンッ! と、手応えと同時に金属のかん高い音で聴覚が一瞬麻痺する。

 そのまま押し付けるように鍔迫り合いに持ち込む。下と上の鍔迫り合いは、短期的には下側の方が背筋の力を乗せられる分有利だというのが定説だ。

 久太郎が突進の勢いのまま押し出すと、形勢不利と判断した対手が一歩下がった。押し出した力を上手く受け流されたが、構わずに前に進む。

 対手は久太郎の無防備を見逃さなかった。防御のない首を目掛けて、後退しながら横に刀を引く。

 ――やはり経験者だ。

 久太郎は崩れた姿勢を立て直すのではなく、むしろ崩れる勢いをさらに加速させて、首を狙った一閃の下に潜り込んだ。場合によっては肩で受けることも辞さないつもりだったが、刀の軌道が高いのを見ると頭を傾けて紙一重で剣先を逃れる。

 同時に、倒れながら払った久太郎の剣先が、対手の軸足を横に切り裂いた。

「うっ」

 久太郎は腕で体を支えてさらに前に踏み込んで、刀を返して今度は対手の腹を引っ掻いた。試合場に同級生たちのどよめきがこだまする。どうだ俺の実力を見たか!

「決着!」

 腹が切り裂かれて内臓が飛び出した。それを浴びないように、久太郎は横に転がって対手から離れた。鼻をつく臓物の匂い。こいつ、試合前なのに食事を抜いてないな。まさか自分が負けるはずがないと高をくくっていたか。

 儀礼に則って試合場から出ると、先輩が濡れタオルを持ってきてくれたので礼を言って受け取った。興奮と安堵で手足が震えていた。

 久太郎が腹を切り裂いた生徒が、上級生の担架で外に運ばれる。今日だけで道場と再生室の間を何往復するのだろうか。それに、試合場の臓物を片付けるのは大変そうだ。

「戸出」

 顧問の教師が久太郎のところへやってきた。

「面白いやり方だな」

「どうもです」

 久太郎は頭を下げた。刺し違える覚悟での速攻――顔がぶつかるほどの超接近では、決まりきった型や戦法よりも、とっさの判断とアドリブの方が生きてくる。中学時代の久太郎は、この戦法で大物喰い(ジャイアントキリング)を何度も成し遂げてきた。

「何流だ?」

「自己流っす」

「お前、中学のときは個人でベスト4まで行ってるな」

「はい」

「高校じゃそのやり方は通用しないぞ」

 釘を差された。返答に困って黙っていると、

「とはいえ――アレを見てから躱せるのは大した目だ」

 とりあえず掃除係はしばらくやらなくて良さそうだ――と思っていると、生徒たちが、久太郎の試合以上にどよめいた。

 次の試合は女子と男子だ。昔は男女差別があったので女子と男子で剣闘部が分かれていたが、今は公式試合はすべて男女混合になっていた。

 男子の方ではなく、女子の方に見覚えがあった。忘れもしない、中学のときに一度だけベスト4まで進んだあの大会、準決勝で久太郎を破ったのがあの女――有沢華火(ありさわはなか)だ。

 彼女に負けて再生室で目を覚まして、久太郎はすぐに試合の様子を動画で見返した。それは悔しさからではなく向上心のためでもなく、ただ単純に、試合の中で彼女に斬られた瞬間がまったく分からなかったからであった。久太郎が華火と試合をしたのはその一度きりだった。それ以来、久太郎は大会で優勝争いに絡めたことはなかった。

 有沢華火は有名人だった。久太郎が知る限り、華火は出場した大会のすべてで優勝していた。しかもただの優勝ではない。彼女は、少なくとも記録にあるすべての試合において、一度として傷を受けたことがなかった。

 華火と当たった男子は、試合場に入る直前に先輩から痛覚の薬を受け取って口に入れた。一方の華火は、先輩が差し出した薬を受け取らずにそのまま試合場に入った。剣で体を刺し合う剣闘の試合に、痛覚をそのままにして臨むのは無謀だ。

 無疵(むきず)の有沢――。

 ざわつく同級生の口から、そんな言葉が聞こえた。

「始めッ!」

 華火は剣先をだらりと下に向けたまま、力が抜けたように対手を正面に捉えていた。対する相手は、刀を上段に構えて一気に踏み込んだ。

「ハァッ!」

 気合い一閃、十分に踏み込んで振り下ろした刀はしかし、華火の刀と交わることなく空を切った。久太郎の目には剣先が華火に触れたようにも見えた。実際には、華火は表情すら変えずに、必要最小限な分だけ後ろに下がって剣先を避けていた。

 対手は下がった華火を追って前進する。むしろ初撃こそ回避させるための囮だったのか、二の太刀は久太郎の目にも定かではない速度で、華火の顎を狙って切り上げた。

 それを華火は――身構えることもなく、ゆっくりと、試合場に入ってきたときと同じ速度で、ただ前に歩くだけで、対手の刀の軌跡の死角に入り込んで逃れた。

 対手は華火の姿を見失って焦ったのか、ろくに狙いも定めずに刀を無闇に横に払った。華火は動かなかった。切っ先が自分に届かないことを完璧に見切っていた。刀を振り切ったタイミングで再び対手の側面に位置取る。

 ――まるで、犬が自分の尻尾を追いかけてくるくると回っているかのような滑稽さだった。華火はただ歩いているだけだ。それなのに相手の刀は一度も彼女に届くことがない。

 久太郎の目には男子生徒も決して下手ではないように見えた。しかしそれでも、華火とは技量が違いすぎる。

 それからも、華火は自分からは攻めず、ただひたすら刀を避け続けるという状況が続いた。

 速攻を旨とする久太郎の目には、華火には何度も相手を仕留めるチャンスがあるように見えた。しかし華火には一切の攻めっ気が見えなかった。ただただ煙のように、対手の剣先を誤魔化し続けるだけだった。

 久太郎は試合を見ながら、湧き出る罵声を奥歯でぐっと噛み殺した。

 これは、嫌悪だ――。

 有沢華火に剣闘の才能があることは久太郎だって認めている。しかしこのような、持たぬ者をいたぶるような戦い方は、どうしても嫌悪感を我慢できない。彼女のせいで優勝のチャンスを逃した件を抜きにしても。

 決着は唐突に訪れた。煙を切るような戦いが続いてうんざりしたのか、はたまた一度も攻められなかったことで油断したのか。相手の生徒は、上段からの振りを躱されたあと、刀を下ろしたまま――通常の試合ではありえない時間、無防備に背面を晒した。

 この試合中、それまで華火はあくびの出るような速度でしか動いていなかったが――その一瞬、華火は、試合場を注視しているすべての生徒たちの視線を置き去りにした。

 頭蓋に一寸の切り傷。額から顎に血が垂れるころ、男子生徒の体が崩れ落ちた。

「い……一本!」

 教師の声がうわずっていた。

 華火は刀を鞘に戻すと、儀礼通りに退場した。彼女の、弱者をなぶるような戦い方と、終始試合について何の感情も見出だせない仏頂面が、久太郎にはひどくグロテスクに思えた。




***


 新入部員の実力見極めから二週間が経った。

 道場には毎日顔を出していたが、一年生は基礎体力づくりと竹刀を使った型作りの練習ばかりで、あれ以来一度も刀を持たせてもらえていない。

 幸いにも久太郎は雑用係を免れていた。竹刀を使った練習では、久太郎は先輩たちにも引けを取らない技量を見せた。しかし久太郎がいくら技量があるといっても、やはり剣闘部の注目の的は有沢華火であり、久太郎を含めた一年生の中で彼女だけが飛び抜けていた。

 いつものように部活が終わり、着替えのために道場から出ようとしたところで、久太郎と華火の二人は教師に呼び止められた。久太郎と華火は袴のままで、道場の中央に座って教師と相対した。

「お前たち、五月の四風旗に出てみないか?」

 四風旗とは、四風旗争奪北陸高校剣闘大会の略で、新聞社が主催している剣闘の地方大会だ。もちろん久太郎はその名前を知っていた。

「一年ですけど、いいんですか?」

 四風旗は高校ごとに参加枠が制限されている。普通、こういった大会に出場するのは三年の生徒が中心だ。

「自信ないのか?」

「そういうわけではないです」

「じゃ、戸出は決まりだ。有沢は?」

 華火は無表情をいつもよりさらに固くして、ややあってから「出ます」と簡潔に答えた。久太郎は華火が誰かと談笑しているところを見たことがない。

「ところで、俺は誰と組むんですか?」

 四風旗は二対二の混合戦のみの大会だ。個人の部はない。そもそも高校剣闘は中学剣闘と違って、基本的には混合戦がメインで個人戦の扱いは小さい。

 久太郎の質問に、教師は呆れたという表情を作った。

「お前たち二人に決まってるだろう」

「は? ……誰か、先輩と組むんじゃないんですか?」

「何を言ってる。先輩たちはもう組む相手が決まってる。冬から大会に向けて調整してるんだから、今さら相方を変えられるわけがない。……まあ、二人いてちょうどよかったな。それじゃ、お前たちは明日から上級生の練習に混ざれよ」

 言いたいことだけ言って、教師は「では解散」と宣言して道場を出ていってしまった。

 道場に取り残されてどうしたものかと途方に暮れていると、

「……よろしく」

 と、華火が小さな声で言って、久太郎に手を差し出してきた。久太郎は女子と手を握るのに抵抗があったが、ここで失敗すると大会まで響きそうだと我慢して手を取った。

「大会まで頑張ろうな」

「大丈夫」華火は冗談の混ざらない、真面目な調子で続けて言った。「私が二人倒すから」

 やっぱり俺はこいつが嫌いだ。

 久太郎は改めてそう思った。


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