第2話 花の烟る骨董屋
「あ、そうだ!」
夕梨花は膝に置いていた、ケーキボックスをテーブルの上に出した。
「昔の友達と、主人がいる暮らしのことであれこれ話をしていたら、なんだかもう、すぐにでも帰ってくる気がしちゃって」
ばつが悪そうな顔をして、ケーキボックスを開いた。
「ケーキを二つ、買ってしまったの。
二日に分けても、そうは食べられないから、一緒に食べていただけない?」
夕梨花は、隅に店の名前が、仏蘭西花文字で金色に刻印された白いケーキボックスから、小さな円柱の形をしたケーキを取り出した。
ポッコリとした丸い頭に、抹茶の粉をかぶった白いクリームが乗っていて、みるからに美味しそうである。
「それでは、ご主人様の代わりにもなりませんが、お相伴に預からせて頂きます。
あ、折角ですから、紅茶でも淹れましょう」
微笑んだ店主が音もなく立ち上がった。
「あら、まぁ!紅茶?」
「ええ、昔、海軍の軍人さんだった方に淹れ方を習った事が御座いましてね」
「あら、まあ、そうなの」
夕梨花は目を丸くした。
「お店をしていると、色んな知り合いができるんでしょうねぇ」
と、口にした先から、ああ、だから私とも親しげにしてくれるんだわと心の中で夕梨花は頷いた。
でも、海軍の人って
「随分とその方、ご年配の方でしょう?」
「はい、もうとっくに亡くなられましたけれどね」
「あらまあ、じゃあ、店主さんが子供の頃だったの」
店の方で紅茶を淹れていた店主には、その声が届かなかったようだ。
しばらくすると、銀色の小さなトレイにカップを乗せて戻ってきた。
「まぁ、良い香りね」
店主は微笑みながら、美しいカップを夕梨花の前に置いた。
「さあ、ケーキを頂きましょうか」
二人で向かい合って、夕梨花の夫の好きなケーキに舌鼓を打った。
「さっぱりしておりますね。大層美味しゅうございます。
旦那様にもお礼を言わないといけませんね」
店主はそういうと、ちょっと頭を下げて見せた。
「うふふふ」
夕梨花は、店主の仕草に何だか胸が温かくなり、鈴を転がすような明るい笑い声を立てた。
一緒に何かを食べると、なんだか親しくなった気がするから不思議だ。
白く能面のような顔の店主も、もう何度も会って話もしたことがある不思議な既視感が訪れる。
不思議な骨董屋の不思議な店主。
(まるで童話のようだわ)
「若い男の人とあの人の好物のケーキを食べちゃったって言ったら、ヤキモチを焼いて怒るかしら」
嘘。
そんなことで決して怒りはしない。
君はいつもおっちょこちょいだねと笑うだけだ。
本当にのんびりした人なんだから。
夕梨花は夫の潮の香りのする笑顔を思い浮かべた。
ああ、明後日が待ち遠しい。
夕梨花は夫を思い出しながら、琥珀の中に閉じ込められ、セピア色に輝くような店の方へ目を向けると、小さな灯りが手を振るように揺れているのに気がついた。
「あら、灯りが」
夕梨花の視線を辿るようにそちらを向いた店主は、ニコリと微笑んで立ち上がった。
「ああ。あれはとても珍しいものにございます。
ああ、どうしましょうか。
そうですね。
せっかくですから、もう、お見せ致しましょう」
「あ、あら、そんな結構……よ?」
夕梨花は慌てて腰をあげたが、店主は店の方へ戻ると、帳場に灯っていた小さな灯りをその机に下ろし、銀色の小さな
夕梨花は、テーブルの隅に置かれた美しい小さな水盤に、目が吸い寄せられた。
信楽焼の青硝子の底の浅い小さな水盤で、不透明なターコイズの色が水に映り、二人の家のテラスから見える晴れた日の海を思い出させる。
その中にまた、小さな小さな硝子のお
「これも、骨董ですの?」
「左様にございます。」
店主は椅子に座ると、箱の中から硝子の小さな皿を出し、水盤のお猪口の上に乗せた。
その皿に素麺のような束の中から、細く不思議なほど長い指で1本白い
ゆっくりと銚子からトロリとした油を注ぐと、なんとも言えない胸に染みる、ふくよかな香りが立った。
紙縒りが、充分その油を吸って薄い黄金色に染まるとその先に火をつける。
ポッと赤く小さな火がマッチの先から、紙縒りの先へうつる。
「灯明皿?」
店主は軽く唇だけで微笑むと、慎重に紙縒りの上に白い陶器の像を置いた。
そっと細く白い陶器のような指を離す。
「これは掻き立てと申します、灯明の芯を押さえる道具にございます」
「あらまぁ、可愛らしい」
その白い像は、ドーナッツのような輪っかで芯を押さえている。
その輪っかの中に十字形の台座があり、白い陶器の像が乗っている。
それは簡素な人型で、曖昧に着物かドレスを着ているように見える。
「ほら、この人形、よく見ていただくと、まるで、人待ち顔に立っているように見えましょう?」
青い水盤の上に立つ人形は、確かに海の上に立つ人のようだ。
そして、橙色の揺れる炎に照らされて、ただ鼻のような盛り上がりがつくってあるだけの顔に表情が宿る。
「あら、本当、不思議ね」
なんだか、ちょっと寂しそう……
チロチロと揺れる炎に照らされて、夫の帰りを待っている自分と重なる。
僅かな凹凸なのに、不思議だ。
「油も香油を使っておりますから、良い香りでございましょう?」
「ええ、ええ、そうね」
じっと見ていると何だか体が透明になって行くような気がする。
香油の香りのせいか、なんだかふわふわした気持ちになる。
炎の向こうに店主の透明な視線が揺れている。
店主の向こうでは、帳場の机に置かれた小さな灯りが揺れている。
「まるで海の上の灯台のようで御座いましょう」
「……灯台」
本当だ。
何だか、誰かの道標のように、揺れて輝いて、合図を送っているようだ。
ゆらゆら
体が軽くなって、どこかにいってしまいそう。
ゆらゆら
ゆらゆら
「夕梨花」
優しく低い夫の声が聞こえてくるようだ。
そう。
日に焼けた色黒の顔に笑みを浮かべて、白くなった髪が風に
揺れる炎をぼぉと見ているとその中に、夫が立っていて大きな手を差し伸べて……
カタン
店主が立ち上がる気配で、はっと夕梨花は我に返った。
「まだ雨が降っておりますから、ゆっくりなさってくださいね」
そう低い声で言い残すと、店主がいつの間にか入ってきた客の方へ行くのを夕梨花はぼんやりと見送った。
「ここの所ずっと晴れて暑かったから、やっと雨が降ってくれて、ほんと一息つくわねぇ」
馴染みの客なのか、親しげに店主に話しかけている。
「左様にございますね」
「遅くなって御免なさいね。午前中、混んじゃって」
「ええ、時期で御座いますもの。仕方がございません」
近所の花屋の女主人なのだろうか、アレンジメントを店主に渡している。
「ああ、綺麗な」
白を基調にリンドウやトルコ桔梗のブルーや淡い紫の花があしらわれ、和とも洋とも言えないオシャレな感じに仕上がっている。
「あ。これ、言ってたやつ。ちょうど見つかってね」
細い細い茎に、紅紫の小さなフリルのような花が密集して付いているそれを、三本ほど店主に渡した。
「ああ、ありましたか。有り難う御座います。あのお代は」
「ううん。こっちはいいわ。遅くなったオマケ、オマケ」
「ああ、それは。申し訳ございません」
ちょっとぽっちゃりした花屋のおばさんは楽しそうに店主に話しかけていたが、ふっとこっちを向いてニコリと微笑んだ。
「あら」
親しげな微笑みを向けられて、夕梨花は戸惑いながら会釈を返した。
しかしその女はフランクな性格なのか、それには応えず、じゃあと手を上げて出ていった。
店主は棚の奥の細長い帳場机にアレンジメントを置いた。
そして細いガラスの瓶にその細い枝を生けると、テラスへ持ってきた。
その濃い紅紫の花は……
「え、あら……それは
(あ、あのだって今まだ梅雨よね?禊萩は八月の半ばの……)
「ああ!そうアンゲロニアね。禊萩そっくりの!
いやだ、季節がおかしいなって一瞬びっくりしたわ」
夕梨花は手を打つと照れ笑いをした。
(本当に最近どうかしている。こうやって歳を取っていくのねぇ)
店主は一瞬驚いたような顔をしたが、また穏やかな笑顔に戻った。
「午前中にお願いをしておりましたが、間に合わなくて」
「あら、午前中に何かあったの」
(そういえば、あのアレンジメントも何だか法要用の色合いだわ)
大切な方の命日なのかも知れない。
「え、ええ。まぁ」
店主は曖昧な笑顔を浮かべると、店の方の帳場に視線を送った。
テラスの方から見ると、アレンジメントを置いた長細い机の上には、湯呑みが二つ、小さな椅子も二脚置かれているのが見える。
椅子は丁度夕梨花が来るまで座っていたのか、引いたままになっていて、何となくテラスの方を向いている。
そして、アレンジメントを置いたすぐ側には、硝子の皿の上で小さな灯りが揺れている。
「そうで御座いますね」
(ああ、大切な方を六月に亡くされて、偲んでいらっしゃったのね。
もしかしたら亡くなられたのが、午前中だったのかも知れないわね)
長く生きていれば、どうしても大切な人を見送る経験をせざるを得ない。
(私も……
出来れば、あの人を見送ってから死にたいわ。
あの人を一人残していくのは気の毒だもの。
あっちにはあの子もいるから、寂しくないだろうしね)
雨の音が規則正しく響く骨董屋のテラスに、ユラユラと細く小さな灯りが、帳場の灯りと呼応するように揺れる。
まだ雲は空に重く立ち込めて、揺れる鈍色の海が広がっている。
夕梨花の家の庭から見える海と少しだけ角度が違い、見慣れた海の風景が違った表情に感じられる。
テーブルの上の灯りは、揺れて神秘的な空間を演出している。
香りの高い油が、花の香りのように夕梨花を包む。
花の香りは家の庭を思い出させる。
そう、家の庭には、所々に小さな薔薇が薄いオレンジやクリーム色に咲いて、揺れながらポッと笑顔のように優しく浮かんでいる。
(最近、元気がないのよね)
植え替えたのが悪かったのか、昔の家では華やかに庭を彩っていたのに、まるで秋を迎える庭のように慎ましやかだ。
テラスの隅に置いてある、夫が丹精して居る睡蓮鉢の蓮の方は、今年は季節を先取りして元気に咲いている。
(折角だから、明後日まで持って欲しいわ)
オレンジ色の灯明が、風に吹かれてゆらゆら揺れる骨董屋は、雨音に包まれて、夢のような時間がとろとろと過ぎていく。
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