雨が上がるまで

第1話 始まりは雨の降る街

 

 もしかしたら、家に帰るまではもつかと期待したのに、やっぱり雨は降り出した。


(今日は梅雨の晴れ間で、雨が降らないって言ってたのに)


早足でここまで来たが、折り悪く点滅を始めた信号が足を止めさせた。


ポツンポツンとアスファルトの上に、濃紺の染みが浮き出て、それがあっという間に一面に広がっていく。


固められたアスファルトの欠けた、そこの粒の間に、水が白く光っている。


ほんの少しの間、雨を避けられる場所は無いかと辺りを見回すと、細い歩道のすぐ後ろに八重の紅の立葵たちあおいの咲く愛らしい店が、軒先に深緑のタープを広げている。


夕梨花ゆりかは、小走りにそのタープの下へ入り込んだ。


(えっと、今日はなんで出てきたのだったかしら)


最近、歳のせいか物忘れが激しくて困ってしまう。


 (そうそう、美容院にいったんだった)


 美容院を出たところで、偶然、昔の知り合いに会って、ランチを一緒に食べようなんて話になった。

話が弾んで、ついつい長話をしてしまったせいで、なんだかすっかり忘れていた。


(午前中に美容院を済ませて、さっさと家に帰るつもりだったのに)


おしゃべりが楽しくって、遅くなってしまった。


ふふふ


気持ちが高揚してしまったせいか、つい駅前のケーキ屋で、夫の好きな抹茶のスフレチーズケーキを買った。


(あの人が帰ってくるのは明後日なのに、浮かれちゃって)


 とても感じの良いケーキ屋で、三ヶ月程前に引っ越してきたばかりの夕梨花を、まるで長年の顧客のように迎えてくれる。

一度、夫が抹茶のスフレチーズケーキが好きだなんて言ったせいか、言う前からトングを掴みかけるのがおかしい。


(違うときだって、あるのにねぇ)



 バッグの中からガーゼのハンカチを出して、パーマを当てたばかりの髪の毛についた雨の雫を拭こうと、店のショーウィンドウを覗き込んだ。

しかし、窓は白く曇っていてよくみえない。


(まあね、白髪頭のお婆ちゃんですもの、そんなに気にしなくともいいですよ)


夕梨花は微かに笑みを浮かべて、ショーウインドウから目を逸らそうとして


「あ!」


小さく声をあげた。



 ショーウインドウの向こうには、背のヒョロリと高い灰色の人影が立っていた。


曇った硝子ガラスを拭こうとしていたのか、外の雨の様子を伺おうとしたのか。

拭った向こうの、どうやら男とおぼしき、薄い紅の唇の形が微笑みを浮かべてこちらを見ていた。



(あら、嫌だ。まるで、あの人に笑いかけたみたいじゃない!)


夕梨花は赤面して、それでも軽く頭を下げると、交差点の方を向いた。


信号はまだ赤である。


(あ〜あ。恥ずかしい。もう、早く信号が変わらないかしら)


もう二度とこの通りは通らない。


夕梨花が頬を染めて決意を硬くしていると、後ろで


カラン

ドアチャイムの爽やかな音がした。


「あのう」


はっ

夕梨花は身をすくめた。


「もしよろしければ、店の中で雨宿りをされていかれませんか」

「いえ、結構です」

断りの言葉を口にした瞬間に、救急車がサイレンを鳴らして通り過ぎて行った。


「あ!」


出来始めたばかりの水溜りの水が勢いよく、狭い歩道を飛び越えてこちらへ飛んで来た。


「危のう御座います」


身をかわした先に、男の細い白い手があった。


雨の雫を受けた立葵の可憐な花が、ゆっくりと揺れている。



 「どうぞ」


夕梨花の前に湯気の立つ湯呑みが置かれた。


店の奥は海向かって張り出した屋根付きのテラスになっており、そこにテラコッタの天板の丸いテーブルと座り心地の良さそうな大きな椅子が置いてある。


夕梨花は恐縮して頭を一つ下げ、その蛍焼ほたるやきの白磁の器に手を伸ばした。


透かしの蛍のところから、薄緑のお茶の色が見える。


ふっと体にくつろぎが生まれた。


「どうもありがとう。

そろそろ蒸し暑くなってきたけれど、雨が降ると涼しくなるから、熱いお茶がありがたいわ」


夕梨花がお礼を言うと、目の前に座った男は愛想のつもりか少し目を大きくして、それからゆっくりと微笑んだ。


外を見ると、雨脚が強くなっている。

テラスの屋根に落ちる雨音も大きくなっている。


(ああ!良かった)


あのまま帰っていたら、途中でずぶ濡れになるところだった。


若い頃はシャワーを浴びてくる位の気軽さで、雨に濡れたものだが、この歳になると、うっかりすると風邪をひいてしまう。

風邪をひけば、驚くほどなかなかスッキリしない。


(明後日、あの人が帰ってくるのに、病気なんてなっていられないもの)


お祝いの準備だってしないといけないし……


(おかしな年寄りって思われたかもしれないけど、助かったわ)



一口煎茶を啜ると、夕梨花は目の前に座っている若い男に目を向けた。

細面の白い顔に細い三日月のような瞳が微笑んでいる。


初めて会ったのに、何だか親しみの持てる顔つきである。


(昼寝して居る猫みたいな顔ね。ああ、昔飼っていた猫そっくりなんだわ)


ぼんやりそんなことを考えて、夕梨花はハッとした。

(あらいやだ!私ったら、こんな状況で厚かましい)


「どうかされましたか」


「あ、いいえ。そう、ここは」

夕梨花は、片方の壁全体が全開口の硝子戸になっている、その扉の向こうの店の方を伺うように見た。


雨であたりが薄暗い中、オレンジ色の明かりが灯る室内は、キラキラと夢の中の風景のように美しく幻想的に輝いて見える。


降り出した雨が外の音を遮って、そこだけが違う世界のようだ。


 そこは以前は雑貨屋だった店で、表は大きな硝子のショーウインドウがドアの横について居る。

南欧風の漆喰しっくいの壁に木目が鮮やかなフローリングの床に、木の棚や台が置かれ、様々な壷や鉢がおかれて居る。

窓際に置かれた机の上に置かれた薩摩切り子のコップがキラキラと天井のランプからの灯りを受けて、七色に輝いて居る。


台の下には大きな陶器の睡蓮鉢や、花瓶のようなものがおかれている。


「え〜と、ここはなんのお店かしら?」


今気がついたような夕梨花の言葉に、目の前の男は微笑んだ。


「骨董屋にございます」

「え、ああ、そう。そうだったわ」

(そうそう、新しく骨董屋が出来たと隣の奥さんに聞いて、1回来たいと思ってたんだった!)


夕梨花は、店主が出して来た伊万里焼の小さな丸い練香入れや、硝子の華奢な角灯をみて歓声を上げた。


「最近の骨董屋さんってこんな物も扱っていらっしゃるのねぇ。てっきり古い江戸時代の壺や掛け軸とか、鉄の鍋や……」


夕梨花が宙を見ながら指を折るのを、春の日にポカポカとした縁側で昼寝をしている猫のような男はニコニコと聞いて居る。


「あら、ごめんなさい。要らぬ事を。普段、家に誰も居なくって。話し相手が出来るとすぐこれね」


夕梨花が言い訳をすると、店主だといった背の高い細身の男が小首を傾げた。

血の気のない色白の顔に、漆黒の髪の毛が音を立てるようにサラサラとかかった。


今時の音楽とかをやっている若者のように長い髪の毛をしているが、不思議と時代がかって、チャラチャラとした感じがしない。

骨董屋という職業や着物姿のせいかもしれない。


着物も着慣れているようで、軽く袖口を抑えたり、所作もとても美しい。


「今、お一人暮らしでいらっしゃるので御座いましたね」


店主の所作にちょっとばかり見とれていた夕梨花は、声を掛けられて恥ずかしそうに微笑んだ。


「いえ、そうでもないのですの」


曖昧な夕梨花の言い方に、店主は首を傾げて物問いたげな視線を向けて来た。


「ごめんなさいね。

おかしな言い方ですわね」

夕梨花は、軽く頭を下げるとお茶を1口飲んで話し始めた。


「主人がおりますの。

でも、あの人、海外航路の客船に乗っていますから留守がちでね。

ですから、一人暮らしのようなものなんです」


そしてこの航海が終わったら、夫はもう海には戻らない。

夕梨花と、ずっと一緒にあの海の見える家で暮らすのだ。


 夕梨花夫婦は、夫が定年になるにあたって、終の住処として小さな気持ちのいい家を建てて、移住しようという話になった。

海が見えて、二人で老後を過ごすのに便利が良くて、そして環境も良くて、と条件を出して、休み毎にあちこち足を運んでみた。


すると、この海辺の街の良い土地が格安で出ていて、予定よりも早く、小さな平屋の家を建てた。


それで、心機一転、家具も家電も買い換えて、新たな第二の人生をスタートさせることにした。


だから


夕梨花は、暫く馴染みのない街で一人暮らしをしている。

それも明後日までだけれども。


「家の中でも、何処を見ても、馴染みのない風景でしょ。何だか、よそのお家にお邪魔してるみたいで」


なかなか落ち着けなくて、余計に夫の帰りが待ち遠しい。

「それでは、旦那様が戻られるのが待ち遠しいですね」


店主がそう返すと、夕梨花は少し頬を染めて頷いた。


あの人が海に行ってしまうと、不安な気持ちになる。

どんな仕事でもそうなのかもしれないけれど、海は怖い。


結婚をする時に、「馴れるよ」と言われたけど、結局馴れないままだった。


でも、その不安を傍らに置いた生活も、後二日で終わる。


「ええ、とても待ち遠しい気持ちですの。

この航海が最後なんです」


白い髪の毛の下の丸い顔は若々しく、どこか少女の面影を残している。

その顔をちょっとしかめて、ひょうきんに

「でも、結婚してこのかた、殆ど一人暮らしみたいなものだったでしょう?

私も気儘に慣れちゃってますから、喧嘩せずに暮らせるか心配。」

夕梨花は白く乾いた手を口元に当てて、若やいだ小さな笑い声を立てた。


店主が、ふっと口を開きかけて、すぐに閉じた。

夕梨花はその表情を見て、またほんの少し頬を緩めた。


「ええ、子供はね、おりましたのよ。

男の子が一人。」


可愛い子だった。

あの子が生きていれば、どんなだっただろう。


「確かにね、子供のいる喜びはありませんけど、苦労も無いわ。

居なければ、居ればこうじゃないかって無い物ねだりで思いますけど、居たら居たで、またね大変でしょう。


みんなそれぞれ、今の環境が一番なのよね。」


夕梨花は肩を竦めた。

店主は肯定も否定もせず、ただ不思議な微笑みを浮かべたまま、小首を傾げて、そんな夕梨花に視線を向けていた。


薄暗い昼下がりの骨董屋は、まるで閉じられた違う世界に来たような不思議な浮遊感に満ちていた。


初めて入った店なのに、まるで何度もきたことがあるように居心地の良い不思議な店だ。


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