薫子と恋の形見の丹後少将
あの……あの……茶室の一時のせいだろうか……
丹後少将は俯いた。
親しげにしてしまったから?
そう言えばあの後お袋様のご様子はおかしかった。
突然立ち上がると、礼法も形ばかりに、そそくさと自分を置いて茶室を去られてしまった。
嫌われた?
あの美しい花は、自分などが触れてはいけない高貴な花だ。
分かっている。
分かってはいるのだが……
それにしても、「話しかけるな」と……
それは口も利きたくもない!という事だろうか。
いやもとより、親しげに話しかけるつもりはないのだが……
それにしても、左様に言われると傷付いてしまうので御座る。
ああ、この思い……
いかにとやせん。
ツンデレがヤンデレにパワーアップしそうな勢いだが、それでもプライドが邪魔して
「なんでそんなこと言うん?」
「それっていつまで?」
とは聞きに行けない。
目の前のギヤマンの杯に自分の黒い目が映る。
潤んだ瞳がギヤマンの歪みで、心を映して、泣いているように見える。
ずっと
ずっと
想っていた。
陽も陰り、小姓がただ座り込んで動かない主人のために、高坏にオレンジ色の明かりを灯した。
ゆらゆら
ギヤマンに揺れるオレンジ色の灯が揺れる。
それはあの時の記憶に繋がる。
そう、あれは、まだ幼い少女だった。
父親に連れられて、山上の城である小谷の城に行った折、その少女がいた。
小姓たちと共に迷って歩いていると、塗籠があった。
面白半分に入ったのは、忠興が十にもならぬ童だったからだ。
何気なく開いた扉の向こうにギヤマンの灯籠を持った幼い女童がいた。
振り返った大きな瞳が、彼女の叔父上様に似て魂まで吸い込まれるかと思った。
まだ二つか三つほどの頃だったろうに、既に美しく強い女性だった。
声をかけようとした時、父の近習の呼ぶ声がした。
「また後で」
そう声をかけて、扉を閉めた。
小谷の城を落とされたのは茶々姫が僅か五歳になるかならないかの頃だった。
助け出された後、尾張守山城に入られ、守山城主織田信次が戦死すると、岐阜城に転居された。
久しぶりに会えると期待をしていたが、病がちとかで会えなかった。
まるで別人のようだ……
そんな噂を聞いて、どれだけ心配をしただろう。
ずっと、ずっとその面影を心の中で追いかけていた。
かの姫を我、妻に……
右府様にお願いをするつもりだった。
しかし、その前に明智十兵衛の娘との婚儀の話を申し渡された。
叶わぬ夢だ。
しんみりとしていると、密書を持った取次がやってきた。
その筆跡を見た丹後少将は、飛び上がった。
まさしくかのお袋様だ。
うっかりと取り落としそうになりながら文を開いた丹後少将は顔を赤くした。
恥じらいではない。
「先日の件だが、徳川にお味方しろ」
その文には書いてある。
つまりは裏切れと言うことだ。
「解せぬ」
しかし、それでも聞きにいけないのが、ツンデレの辛さ。
「お断りし申す」
その返事に、再会への
「それしかないのよ」
物憂げな瞳で薫子は言った。
参拝の体で出掛けた寺の廻廊の一角である。
幾重にも重なる柱が先で、茂る緑の中に混じって、そのまま異世界へ連れて行ってくれそうだ。
その緑の深い廻廊の柱と柱の影に立っているのは、丹後少将、細川与一郎忠興だ。
細面の白皙を僅かに紅潮させているのは、この度も恥じらいではなく、憤りである。
「
人払いをして背中を向けている小姓と
左衛門佐の手には砂時計が握られて、サラサラと時を刻んでいる。
「私は右府様をお慕いしており申した。」
丹後少将は、刀の柄を飾っている自らの自身紋を見せた。
「これは、右府様から下賜された文様。
我が定紋にしており申す!」
そう、明智の娘と婚儀のおり、まるでやれなかった姫君の代わりのように下賜された九曜の紋。
昔、昔、その刀の柄の模様が気に入って、それを言ったのを覚えていて下さって……
「本能寺では散り遅れたこの生命、この度こそ、右府様に殉じて……」
「既に冥界にいる人のために散ってどうするの」
薫子は笑って、忠興の白く繊細な顔を見た。
「馬鹿ね、丹後少将は。
奥様も亡くなり、嫌な目に遭ってるのに」
歴史の流れを見れば、豊臣家も一大名として生き残る術はあった。
織田家も足利家も細々ながら生き残っている。
しかし、この世に露のように落ちた
「誠心誠意、徳川殿にお仕えし、立派な大名になりなさい。
借金だって帳消しにしてくれたでしょ?
いい方なのよ?
そりゃあ、ちょっとばかり、趣味はアレだけど」
薫子はその透明に輝く大きな瞳で、丹後少将忠興の顔を覗き込んだ。
その意見に不服とするように、丹後少将忠興は視線を外らせ、顔をも背ける。
(いやいやいや、肥後だか、肥前だか、中央政権の目の届きにくい所へ行って、居場所を確保してくれないと私が困るのよ?)
「それが唯一助かる道なのよ。
そうして下さらないと私が困るの。ね?」
その言葉に振り返った丹後少将を、大きなアーモンド型の瞳が捉える。
あの日のように。
「茶々様がお困りし申すのか……」
「そうよ。
私が困るの。頼りにしているの。
だから、そうしてくれるでしょう?
与一郎」
黒く大きな瞳が丹後少将忠興を見詰める。
そんな風にじっと見詰められると……
与一郎などと呼ばれると……
丹後少将の耳が見る見る朱にそまっていく。
「お茶々様」
これからは、右府様にお仕えするつもりでと心を決めていたのに……
唇を噛んで俯く丹後少将に薫子は、すすっと身を寄せた
「……!」
身体中余すことなく隅々まで、赤らめた丹後少将が思わず、二、三歩下がると、更に薫子は詰め寄る。
「な、な、な、な、な、何を!
あ、あ、あ、貴方は寡婦な、なれど!
さ、されどもて、天下人のお、お袋さま」
まるで襲われる乙女のように涙ぐんで赤面した顔を力なく振り、身を
違うわっ!
という時間も惜しい薫子は、スルスルスルと更に強引に距離を縮めた。
「与一郎」
うっ!
これはあれ?
それはこれ?
例え、世間の悪評を買おうとも、想い
上気した顔の与一郎忠興は、腹を決めて、目を瞑り、両手を広げてウェルカムのポーズをとった。
すると薫子はスルスルと寄って
カフンーッ
抱き締めた与一郎忠興の腕は空を切った。
あれ?
「肥後に行ったら、ここへ連絡を寄越してね。頼りにしてるわ」
恐る恐る目を開くと、腕組みをしたような我が袖の下で、我が懐に手を突っ込んでる想い女が……
「肥後?肥後に?丹後ではなく?」
何故、肥後?
丹後少将は、整ったその顔を混乱しながら、すぐそばの薫子の顔を覗き込んだ。
砂時計の砂は、あと僅かしか時を止めてくれない。
「なんでもいいから九州に行ったら」
「茶々様は……九州に?」
「まぁ私はわかんないけど」
「え!わかんないので御座るか?!」
えええええ?
そうよ
薫子は声を出さずにそう言って、そっと忠興の頬を撫で、今一度、瞳だけで微笑んだ。
待って!ちょっと説明して!
慌てて追いかける丹後少将の手をすり抜けて……
「あなたが頼りなのよ」
そういうと薫子は踵を返して廻廊の奥へ姿を消して行った。
天下を取る事を許された人物は、周りの人に恋をさせる。
自らの人生に惹き付け、真剣に生命を燃やさせる。
例え結果として天下を取れずとも……
「幼き恋の形見よの」
ポツリと丹後少将は呟いた。
気がつくとフワリと風が吹き始めている。
(いや、凪いでいたのに気が付かなかった。)
この止まぬ思い……
吹く風に少将は唇を噛んだ。
胸に抱くまでは、この思いは止まぬ。
「お袋様」
ツイッと裾を曳かれて、薫子は大坂城は大廊下で立ち止まった。
「先にお行き」
パシン
薫子は扇を鳴らして、侍女たちを少しだけ先にいかす。
と言っても、ほんのすこしだけしか行かない。
(慣れないわぁ〜)
と言っても側に寄せているのは、本当に信頼できる女だけではある。
それでも
(も少しあっちへ)
クイクイと扇を振ると、侍女たちは「やれやれ」という顔をしてもう少しだけ移動する。
薫子は庭の花を愛でているという風情を作り、通り過ぎようとした書院の間の方へ寄った。
ざわめきの聞こえる城は、堀を失い最早裸城同然だ。
(なんてことかしら)
大坂城という大きな船は、薫子の意思とは関係なく、ゆっくりと深みにはまっていく。
「お袋様」
飾り窓の陰から小さな声がする。
薫子は広縁から外を見るように立って声を入れる。
「何かしら」
「
ツンツンと背中を突かれ手を伸ばすと、手の中に丸めた紙を渡された。
「何か御座いましたら、お申し付けください」
小さく呟くと気配は去った。
手にした細い書状の文字の主は丹後少将細川与一郎忠興だ。
となると先程の男は細川家次男、
同じく放逐したていで、米田是季も入城し、大野治長麾下に付いているという。
「馬鹿ね」
本当に馬鹿。
馬鹿みたいに一途で融通が利かない。
大坂の青い空にあの白い顔が浮かんだ。
「どうしたものかしらね」
薫子は重い塊が喉にせり上がってくるのを感じだ。
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