第3話

ベル・ミュラーは、十歳の時、遭難していた。

当時、遊び場の一つだった学校の裏山で、枯れ葉や丈の長い草に隠れていた古井戸に落ちてしまい、そのまま気を失った。それから数時間後に気がついた時、ベルは、一人の男性に抱き抱えられていた。男性は、ベルが気がついた事に気づき、声を掛けた。

「大丈夫?、どこか痛むところはない?」

ベルは、目をパチパチして、今の状況を飲み込めないでいた。それを察した男性は、続けて話した。

「僕は、この山で植物採取をしていた学生だよ。その途中でこの古井戸を見つけ、底に何か動いたような気がして覗き込んだら、体勢を崩して落ちてしまったんだ。君も、そうなの?」

落ちたという言葉で、ベルは、自分も落ちた事を思い出し、首を縦に何度も振った。それを見た男性は、微笑んだ。それを嗤われたと思ったベルは、頬を膨らませて拗ねてみた。その顔見せられた男性は、直ぐにベルの気持ちに気づき、きちんと説明した。

「現在の君の無事が確認出来たから、微笑んだんだ。だけどピンチからは、まだ脱け出していないよ。僕らは、現在も古井戸の中だからね。」

男性に言われてベルは、男性に抱き抱えられている事を思い出した。それと同時に、自分達の体半分が、水中に浸かっている事にも気づいた。この状況を察した途端、ベルは不安な顔をしたが、男性が、励ましてくれた。

「大丈夫、必ず助かるよ!」

その言葉にベルは、安心を感じた。しかしその瞬間、ベルは急激に体が冷えていくを感じ、意識も朦朧としてきた。その変化に気づいた男性は、大声でベルに語り掛けた。

「おい!意識をしっかり持て!こんな所で眠ったら、死ぬぞ!!」

ベルも頭では解っていたが、本能から来る睡魔はとても強く、徐々に外からの情報を遮断していった。触覚、味覚、嗅覚、聴覚、そして最後に視覚が停止してしまい、再びベルは、意識を失った。ただ意識を失う直前、男性が、上を向いて何か口動かしている映像が脳裏に残った。

ベルが再び意識を戻した時、家族がベルに抱き付いていた。ベルが「苦しい」と告げると、家族は各々離れ、それぞれの泣き顔をベルに見せ、ベルを微笑ませた。


「これが、私の一番大事な記憶です。…記憶喪失から回復した後、図書館で当時の新聞の記事を見つけ出し、そして弟を問い詰めました。…私達は、丸二日その古井戸にいて、三日後に救出された直後、その男性は、凍死してしまったんですね。私の家族をはじめ当時の私の知人達は、子供の私に責任感を持たさないように気を使い、私が記憶が曖昧になっている事を利用して、私の記憶を書き換えた。そして私は、それを受け入れ、日々の生活を過ごしていくうちに、その事さえ忘れてしまった。しかし今回の事故で、私は記憶喪失になり、そして大事な記憶を取り戻す事が出来た。………長い間、御礼に伺わず、申し訳御座いませんでした。」

ベルは、目の前の男性、ベルを記憶喪失に追いやった男性に深々と頭を下げた。男性はベルの話を聞き、ベルの謝罪を見て、涙ぐみながら、「頭を上げてください」と言ってベルに頭を上げさせ、ベルに謝罪と感謝をした。

「謝るのは、私の方です。息子が、自分の命を賭けて守った命を、私は、偶然とはいえ、奪おうとした。しかしアナタは、一時的に記憶を無くしてしまったが、無事でいてくれた。…今の話を聞いて、私は、息子がアナタをまだ守っている、そう思いました。…もう会えないと思っていた息子と、再び会えた。アナタが、息子を連れてきてくれた。…ミュラーさん、有り難う御座います。」

男性は、ベルに深々と頭を下げた。ベルは、男性の言葉と行動に戸惑った。自分の中では、少なくとも罵詈雑言を浴びせられると思っていた。その戸惑いが、質問という形で、口から出てしまった。

「…恨んでないのですか?…私は、アナタ達家族を、二度も不幸にしてしまった。なのに、有り難うなんて………。」

男性は、ベルの質問には答えず、無言で頭を下げ続けた。その態度にベルは、余計に戸惑った。その戸惑いは、今度は抱き締めようという行動になって表れたが、男性の前の障害物に気づき、冷静さを取り戻した。その冷静さでベルは、男性の手が固く握られ、その中が真っ赤に染まっている事に気づいた。そして、下げている男性の顔から水滴が落ちているのも気づいた。ベルは、それが大粒の涙だと気づいた時、男性の悔しさを悟った。

ベルはいたたまれなくなり、男性の前から、逃げるように去っていった。ベルが居なくなった部屋で、残された男性は、堪えていた泣き声を思い切り出した。


出てきたベルがのが見えたので、ネクトは手を振って、閑散な駐車場で自分の居場所をアピールした。ベルは、それに気づくと一目散に向かって来た。その姿を見てネクトは、警戒をした。しかし、ベルを追いかけて来る者はおらず、周囲も静かなままだったので、ネクトの心は、警戒から疑問に変わった。そしてベルの表情が見えた時、疑問は、驚愕になった。

ベルは、悲しみ、戸惑い、悔やみ、苦しみ、悩み、どれでも当てはまるような顔をして、待っていたネクトには目もくれず車に乗り込み、そして大泣きした。

ネクトは、初めて見せる姉の弱々しい姿に、ただただ驚くしか出来なかった。しかし、それでもネクトは、ベルに「何があったの?」と聞いてみた。それを切っ掛けにベルの嘆きは、更に勢いを増した。しかしベルは、話した。話す事でこれからどうすれば良いか、救いを求めたかったからだ。それに応えるようにネクトは、真剣に、姉の話を聴いた。明らかに異常な状況、異常な展開に対応するヒントを探す為に、話を一言も漏らさない気で聴いた。そしてベルは、話の最後に、

「私は、彼らの為に、どうすれば良いの?」

とネクトに問い掛けた。

しかしネクトは、回答出来なかった。今まで見せたことの無い弱々しい姉の姿に動揺しながらも話を聴いていた所に、今まで聞いたこと事もない弱々しい姉の質問が来て、ネクト自身もどう答えたら良いのか解らなかった。結果二人の間に、澱んだ沈黙が生まれてしまった。それがベルを、恐怖させた。

<どうしよう…私…もう…笑えないかも…>

「大丈夫、必ず助かるよ!」

恐怖に包まれそうなベルの内側から、あの声が響き聞こえた。その瞬間、恐怖は、霧散し消えていった。そしてベルは、自身で答えを見つけ出した。

「ネクト、ゴメン。自己解決出来た。」

あたふたしているネクトに、ベルは謝った。謝られたネクトは、不意を突かれて、思わず間抜けな顔をして、ベルを見た。その顔を見たベルは、弟の変顔があまりにも可笑しかったので、思わず吹き出してしまった。その姿を見たネクトは安堵し、「何が、自己解決したの?」、と聞いてみた。ベルは、ひとしきり笑うと、ネクトに返答した。

「私の心の中の穴は、あの人が確かにいた証明なの。だからこの穴は、このままで置いておく。そもそも埋める事自体、間違いなのよ。」

返答を聞いたネクトは、Whatの表情になっていた。その表情を見てベルは、ニコッと微笑んだ。姉の微笑みを見てネクトは、ハァーと溜め息をついた。そして自分も車に乗り込み、発車させ、二人は帰路についた。

ベルは、走る去る空や雲を観ながら、彼に一方通行のメッセージを送っていた。

<本当は、アナタの事を知って、私の記憶喪失を完全回復させるつもりでした。けど、それは止めました。私の心にあるこの空洞は、アナタが存在した証明であり、同時に私が、アナタの事を想っている証拠なのです。だからこのままにして、アナタを忘れないようにします。その代わり、私が挫けそうになったりしたら、またあの時の声を、その空洞から聞かせてください。それだけで私は、これからを生きていけます。アナタに救ってくれた命を、無駄にせずにいられます。どうか宜しくお願いします。>

星が瞬きを、ベルは見た。見間違いだったかもしれない。しかしベルは、自分のメッセージが届いた、と勝手に思う事にした。

自分が、もう会えない事を察して、涙を流している事に気づかず…。


ー終ー

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