異世界トラベルコンサルタント ~ハイパティーロ旅行相談所へようこそ!~

河東ちか

ささやかなはじまり

 ここはどこだろう?

 それまで無心に歩き続けてきた彼女は、ふと立ち止まった。

 見渡せば、そこは深い森の中。

 青く晴れた昼間の空が木立の合間にかろうじて見えるだけで、周囲はうっそうと薄暗い。陽射しが差し込まないからか、あまり雑草も生えていないが、自分が歩いているのも道なのかどうか怪しい。

 そもそも、自分はなぜこんなところを歩いているのだろう。泥で汚れ、すり切れた靴を見下ろして、彼女は首を傾げた。

 何度か転んだのか、スカートの下の素足は擦り傷と打ち身で、見るからに痛々しい。あまり痛みを感じないのは、長時間歩き続けてきたらしい足のだるさで、感覚そのものが薄れているのかも知れない。

 自分はどこから来て、どこに行こうとしていたのだろう――

 考え込んでいた彼女は、視界に黒いものがよぎった気がして顔を上げた。

 いつの間にか、自分の行く手をふさぐように、大きな生き物が立ちはだかっている。

 見た目だけならそれは、熊に似ていた。

 白い毛皮で覆われた体に、黒いシャツを着ているような不思議な模様がある。尻尾はリスのように長い。

 熊にしては面長な顔に、おもちゃのような耳。彼女を見つめるビー玉のような丸く小さな瞳は、愛嬌すら感じさせる。そういえば、動物園でみたアリクイが、あんな姿だったような気がする。

 ただ、大きさは優に人間の倍ほどはあった。

 静かな森の中に、低いうなり声が響く。

 まっすぐに見据えられ、身動きできないでいる彼女を少しの間眺め、その生き物は不意に背中を丸め、四肢に力を込めた。

 裂けるように開いた口から、愛嬌のある顔からまったく想像のつかない、鋭い刃物のような牙がのぞく。

 ――襲われる!

 生き物の意図に気付き、後ずさろうとした彼女は足をもつれさせ、その場に尻餅をついてしまった。逃げようとする獲物の動きに反応し、生き物は吠え声を上げながら駆けだしてきた。

 避ける術もなく、目をギュッと閉じた彼女の、そのまぶたの裏が、まるで強い光を受けたかのように紅く染まる

 だが、予想していた痛みも、飛びかかられる重みもまったく感じない。

 同時に、なにかがはじかれるような音と、地面に大きなものが落ちる音、キャンキャンという鳴き声が、少し離れた場所から聞こえてきた。

 目を開けると、あのアリクイのような生き物が、駆けだしたのとあまり変わらない場所で、なにかに払い落とされでもしたかのように背中を打ち付けられた姿が見える。

 なにが起きたのか、まったく判らない。誰かが助けてくれたのかと思ったが、ほかの生き物の気配もない。

 灰色の生き物は身を起こすと、警戒するように周囲を見渡した。ほかに何者かがいるような様子はないのを確認した様子で、あらためて彼女ににじり寄り、もう一度攻撃の姿勢をとった。

 今度こそ、もうダメかも知れない。後ずさることもできず、座り込んだままの彼女に向けて、アリクイのような生き物は大きく跳躍し、飛びかかって来ようとした。

 その灰色の生き物のその姿が、別の大きな影に遮られたのを、彼女は見た。

 人間の倍はあるアリクイのような生き物よりも、更に大きな体。だが形は、屈強な人間のものと変わらない。アロハシャツから伸びる腕が、見事な灰色の毛皮で覆われているように見える以外は。

 毛皮の上からアロハシャツを羽織った大男が腕を振ると、アリクイのようなの生き物の体は、軽々と近くの木の幹に叩きつけられた。衝撃で枝が震え、葉や虫が落ちてくる。

 なんとか体勢をととのえたももの、いくらか戦意を喪失したらしいアリクイのような生き物は、大男に睨み据えられ、怯えた様子でいくらか後ずさった。その大男とアリクイのような生き物との間に、風のように二人の人影が降り立った。

 背の高い、銀色の長い髪の女と、短い青い髪の若い男。服装は、オフィス街でよく見る制服姿のOLとスーツ姿のサラリーマンにしか見えないが、銀の髪の女の両手には、腕と同じくらいの長さの細剣が握られている。

「ミリンガだ、駆除するぞ」

「あれは毛皮が貴重なんだよー? 高値で売れるから、あんまり汚さないでよね」

「それは貴様の腕次第だ」

 呑気な声の青髪の青年の頭には、よく見ると山羊の角のようなものがついている。だがそれをはっきり確認する間もなく、二人は逃げ去ろうとする灰色の生き物の後を、それこそ風のような動きで追いかけていった。

「間に合って良かった。大丈夫ですか」

 それまで彼女をかばうように背を向けていた大男が振り返り、声をかけてきた。全体の形は人間だが、シャツの下からのぞく腕は大部分が灰色の毛皮で覆われておいる。そして、首から上の形も、人間というよりは狼に近い。

 かぶりものかとかと思ったが、話すたびに口の中に見える白い牙と舌の生々しさと、その迫力とは対照的な穏やかな瞳の動きが、作り物ではないことをうかがわせている。

「あなたを保護しに来ました。お名前を伺ってもいいですか」

「名前……?」

 さしのべられた手を取ると、確かに血の通った温かさを感じる。それを怖いとも不思議とも思わないまま、彼女は質問の答えがすぐに思い浮かばず、首を傾げた。

 名前、自分の名前……

 自分は誰で、どうしてこんなところにいるのだろう。

 返事に困っていると、少し離れたところから、さっきの二人の声が風に乗って響いてきた。

「だから手加減してって言ったでしょー! こんなとこ傷つけたら毛皮の価値が半減だよー」

「貴様のサポートが下手なのだ! もう少し補助魔法というものを学んで来い!」

 戸惑った様子の彼女を、心配そうに見下ろしていた大男は、彼らの声に苦笑いを見せた後、

「突然こんな所に来て、混乱しているんですね。とりあえず、あなたを手当できるところに行きましょう。あの二人も、すぐに戻ってきますから」

 いかつい顔で穏やかに目を細め、彼女の体を抱え上げた。鍛え上げられた体は、アロハシャツを着た毛皮の上からでも筋肉の形が判るくらいだが、彼女を扱う仕草は花束を抱えるように丁寧だ。

 自分の背丈の倍はある大男に抱き上げられると、さっきよりも少しだけ遠くが見えた。木立の先に、石造りの城壁のようなものも見える。

 自分は、ヨーロッパにでも旅行に来ていたのだろうか。それなら、知らない生き物がいてもおかしくはない……のかもしれない。でも肝心の、なぜ自分がこんな所にいるのが、まったく思い出せない。

 記憶を探ることよりも、それまでの疲労と、助けが来たという安心感の方が勝ったらしい。大男の腕に頭を預けた彼女の意識は、溶けるように闇の中に飲み込まれていった。

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