第八話 川と平原
日が徐々に傾く中を、飛んで、飛んで。
オーケビョルンとマルクスは、眼下に川幅の広い流れを見下ろしながら、その川を越えた。
「今の川が、ソレンソン郡とエクルンド郡の境になるランツ川じゃったな?」
「そういうこと。だからここはもう、エクルンド郡だ。今日中にエクルンドまでは着けないと思うけれど、もうすぐだよ」
オーケビョルンの言葉に、マルクスもこくりと頷いた。
エクルンド郡はおおよそ五百平方キロメートル、モア川の下流とその支流のランツ川で構成され、ナウマン海に注ぐ三角州で構成されている。海岸沿いに位置するエクルンドには郡内の人口のほとんどが集中しているため、郡内に入ったばかりのこの位置からも、市の外壁を見ることが出来る。
いよいよ、ここまで来た。
「そうか……ついにじゃなぁ」
「うん、エクルンドに到着したら一区切りだ。そこから先は、君がどうしたいかで決めよう」
感慨深げに視界に映る大都市を見ながら、翼を動かすオーケビョルン。マルクスもその首元を優しく撫でつつ、嬉しそうに眼鏡を直した。
エクルンドに到着したら、何を見ようか。何を書き記そうか。今から楽しみで仕方がないオーケビョルンだ。
そわそわしながら視線を巡らせる彼は、ふと視線をある一点に止めた。
「うむ、そうじゃ……おっ」
「ん?」
突然翼を大きく動かし、減速するオーケビョルン。ブレーキがかかることで慣性が働き、マルクスの身体がオーケビョルンの太い首に押し付けられた。
何事か、と彼が上を見れば、オーケビョルンは首をぐいと回して後方をじっと見つめている。
「どうしたんだいオーケビョルン、急に振り向いて」
「マルクス、わしは今になって、ようやく気が付いたことがある」
ばさりばさりと翼を動かして、オーケビョルンはその場で旋回する。向く方向は、進んでいた方向とは逆、南側だ。
ディスクゴート平原がランツ川の向こうに見え、ソレンソン平地を裂くようにモア川が視界を横切っている。視界の向こうに霞んで見えるのはステーン山脈だろうか、それともその手前にあるロースバリ山だろうか。
沈みゆく太陽は橙色に染まり、ゆるやかに流れる二本の川の水をきらきらと煌めかせていた。
「わしは北上しよう北上しようと、ずっと北ばかり向いていて、南の方向には全く目を向けてこなんだ」
「うん、確かにそうだ」
翼をはためかせながら感動を露わにするオーケビョルンに、マルクスも同意する。
実際、道中でいろんな場所を見てきたし、いろんな場所で詩歌を詠んできたけれど、基本的に北上することばかりに目を向けていて、南側を向いて進むことは一度もなかった。
それにようやく気付いた老竜が、目をすっと細めながら嬉しそうに話す。
「じゃからわしは、この南を向いた時の絶景に、ちっとも気が付かなんだ」
「あぁ……なるほど。こっちからの風景を見ないで、ずっと飛んで来たものな、君は」
ディスクゴート平原に沈む夕日と、それに照らされるモア川とランツ川の美しさに、オーケビョルンは心を奪われていたのだ。
確かに、これは絶景だ。地上からの視点しか持てない人間にとっても美しいと思う景色だが、上空から俯瞰できるドラゴンにとっては、得難いほどに貴重で、美しい景色だ。
再びオーケビョルンが翼を動かした。眼下に広がる平地へと、徐々に高度を下げていく。
「うむ。マルクス、一度降りるぞ」
「いいよ。ついでに近隣の村で宿も取ろう」
事後承諾になるが、マルクスも同意してくれた。安心したオーケビョルンは、ランツ川の傍の河原に降り立った。砂利を踏む音が辺りに響く。
広くなだらかな河原を見回し、オーケビョルンは小さく息を吐いた。
「書くための岩は……さすがにこの辺りになると、なかなか大きな岩が見つからんもんじゃな」
「川の下流になるからね、川の石も削れて小さくなっていく」
彼の背中から降りたマルクスも、足元の小石を一つ拾い上げながら返した。
川の下流になればなるほど、流れが緩やかになって石や砂が堆積する。しかし上流から流れるにしたがって、運ばれてきた石は砕けて小さくなるものだ。
事実、三角州が出来るくらいに下流のこの場所では岩などちっとも見つからない。マルクスの手のひらサイズの石が、ちらほらと点在しているくらいだ。
マルクスの拾い上げた石に視線を向け、そして足元に転がる石を見たオーケビョルンは、静かにうなずいた。
「ふーむ……んむ、よし。こうするか」
「なにか、手があるのかい?」
何やら考えを思いついたらしい老竜に、マルクスが目を見張った。
ここはエクルンド領、首都エクルンド以外に石屋のある大きな町はない。ソレンソン領に向かうにしても、今の時間では石屋は店仕舞いしているだろう。
しかし、どこかから石を調達するとか、そういうことを考えたわけではないらしい。目についた石のうち、オーケビョルンの爪でも砕けないくらいの硬さのあるものを選び出して、彼はそれを爪の間に挟んだ。
「うむ、見ておれ」
そう言うと、マルクスを少しその場から離させて。
彼はひょい、と爪の間の石を宙に放り投げた。
そして。
「グルッ、グルルルォォッ!!」
短い咆哮の後、長い咆哮を響かせる。
ドラゴンが使用する竜語魔法は、複数の咆哮を組み合わせて効果を定義する。オーケビョルンほどの熟達した術者になると、若い竜の二語分の効果をたった一語で発揮することが出来るが、それでも一語では出来ないこともある。
二語分の竜語をぶつけられた石が、空中でぴたりと静止すると。
バキバキ、ビキビキ、と音を鳴らしながら、見る見るうちにその大きさを肥大化させていった。
そしてオーケビョルンの背の高さくらいにまで大きくなると、鈍い音を立てて
現場で岩を作り出したことに呆気に取られるマルクスに、オーケビョルンは自慢げな笑みを向けた。
「よし、こんなもんじゃな」
「おぉー……すごい。どういう仕組みだい、今の」
作り上げた岩の表面を撫でるオーケビョルンに、マルクスが問いかけを投げる。と、彼は爪先でぷすりと岩に穴を開けながら言った。
「組織増殖の魔法じゃよ。肉体修復の応用でな、石の組織をどんどん増やして、岩の形に戻したわけじゃ。このままだとちっとばかし脆いんで、焼き固めんとならんがの」
「はー……凄いな、竜語魔法」
それから、オーケビョルンは岩の表面を切断の魔法で整えて、火炎の魔法で焼き締めた。ちゃんとした岩の体裁を保てるようになったそれを、河原から持ち出して草地の上に据え、土を盛って固定する。
そうしてから、さっさと岩の前に腰を下ろすオーケビョルンだ。
「んむ、よし。さて、書くか」
「おや、珍しいね。今日は思案しないで書くのかい?」
普段なら何を書こうか、どう書こうかと思案を重ねるのに、と言いたげなマルクスに、オーケビョルンが指さすのは西の空だ。太陽が徐々に沈み、地平線に接しようかというところ。東の空はもうすっかり藍色だ。
「今、まさに陽が沈みかけておるじゃろ。この情景を残しておきたいし、あんまり考えていたら陽が沈んでしまうからの」
「あぁ、確かにね」
そう言いながら、彼はちゃっちゃと岩に爪文字を刻んでいく。
確かにこの瞬間は、今切り取らないとならない。それに加えてこの時間が過ぎたら夜になってしまう。ドラゴンであるオーケビョルンにとって、気温が下がり暗くなる夜は、すなわち死なのだ。
陽が沈み切る前にと、暗くなり始めた草地でガリガリ、老竜が岩を削る。そうして普段なら思案に要する三十分あたりで、オーケビョルンが詩の最後の一字を刻み終えた。
「よし」
「ふーん、いいんじゃないか。短いけれど、君らしい」
マルクスも急いで手帳を取り出し、記されたそれを書き写していく。人家の灯りも人口の灯りもないこの場所では、陽が沈んだら何も出来ないのが常だ。魔法で稼働するランタンがあればよかったのだが、高級品なのでマルクスには手が出ない。
しかして、手帳に走り書きされた詩の内容は、アッシュナー共通語に訳すと、こうだ。
――山から風が吹き渡り、川に命を運ぶ。
海から風が吹き渡り、大地に命を運ぶ。
山と川と海の恵みを受けた豊かな大地に、照る太陽の何と眩しいことか――
シンプルだが、率直で明快。ある意味、オーケビョルンの文章の真骨頂だ。
久しぶりにすらすらと文章が出てきたことに、彼自身満足しているようである。
「うむ、パッと浮かんだわりには、わしも満足じゃ。銘を刻んで……と」
「大丈夫かい?」
薄暗くなる中で、岩の隅に銘と日付を刻む。それを確認したマルクスが、鞄に手帳とペンをしまいながら問いかけると、オーケビョルンはこくりと頷いた。
「問題なし、ばっちりじゃ。さて、近隣の村に向かうかのう」
「そうだね。この近くだと……」
その場に伏せてマルクスを背に乗せるオーケビョルンが、再び空へと舞い上がる。
明日はいよいよ目的地、首都エクルンドだ。
オーケビョルンもマルクスも、今から楽しみで仕方ない様子で、藍に染まりゆく空を飛んでいくのだった。
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