第六十六話【ストーリー展開上辻褄の合わない真実を故意にカットしている戦前史】

 天狗騨記者の中には既に用意されているのに、なかなか披露するタイミングの無い〝答え〟というものがある。


〝軍部が暴走した〟

 これがその後の日本の運命を決めたというのが、現代日本における戦前史的〝常識〟である。別の表現では〝正しい歴史認識〟とも言う。


 しかし天狗騨に言わせるとこの〝常識〟は妙なのである。

(『軍部はなぜ暴走したのか?』その一番大事な理由の部分がこの〝常識〟からは欠落している)そういう疑問を天狗騨は持った。


 試しに箇条書きにして整理してみると、やはり妙であった。

 

[1] 軍部は〝統帥権〟を盾に内閣に公然と反抗し、暴走を始めた。

[2] 国民、マスコミ(新聞)はそうした軍部を熱狂的に支持した。


 [1]から[2]へと、こうした流れで日本は戦争へと突き進んでいくのは事実なのだが、国民の軍部に対するもまったく不明な〝常識〟だった。


(故に総論としては『当時の愚かしい日本人達が誤りを犯した』という歴史認識になってしまう……)



(しかし、だ——)と天狗騨は考える。(〝統帥権〟を盾に内閣に公然と反抗したその最初は、ロンドン海軍軍縮会議の結果〔米英と日本の保有艦艇比率・日本は米英に比べて少ない数に押さえられた〕に不満を持った海軍だ。〝軍部の暴走〟というと陸軍のイメージがあるが、その先鞭をつけたのは実は海軍だ)


(——それに対する日本の世論は、というと微妙だった。或るグループは海軍に同調しこれを憤ったが、他方では『これで軍艦建造に際限なく税金を突っ込まれなくて済む』という意見もあり世論は賛否両論状態……当初は『統帥権干犯だーっ!』と軍部が言ってみても、熱狂的国民の支持と言えるほどのものは無い)


 ちなみにロンドン海軍軍縮会議に調印した浜口雄幸は東京駅で一人の右翼青年に撃たれその後死亡する。行動を起こしたのは市井の右翼一人だけ、とも言える。



 と言うわけで天狗騨記者はこの手の〝常識〟を頭からは受け入れない。いつもの彼の行動パターンでもあるが、必ず疑ってみることを敢えてする。これは彼の根っからの性質といえた。


(『愚かしい』と言うのは現代人の驕りではないだろうか?)

 と言うのも今を生きる人間達の行状からして、それほど何から何までを見通すほど賢いとはどうしても思えないからであった。天狗騨自身内部の人間であるがマスコミ自身からしてそうである。

 新型コロナウイルスの流行時、マスコミは『自粛警察』なることばに市民権を与え、こうした者達が社会に悪い影響を与えると懸念を示した。

 しかし政府が経済を回すためとして『国内旅行に一定額の補助金を出す政策』の実施をすることについて、マスコミはこれにも懸念を示した。つまりその意味は『自粛せよ』である。

 ならば『自粛警察』の皆さんは正しい事をしていた理屈になるのに、彼らに対する謝罪も訂正も無しである。いったいどっちなのか?


 天狗騨記者としてはその場限りでしか通じない無定見の『正しい主張』をしているとしか思えない。その場限りだから正しい主張がコロコロ変わる。それはまるで新聞が戦前は戦争を煽り後押しし、戦後は真逆に日本と日本人に過去の戦争について厳しい反省を求め軍事アレルギーになるという、この状態と通底しているようにしか見えない。

(これが賢い者か?)

 そうした者達が固執する歴史認識が、

[1] 軍部は〝統帥権〟を盾に内閣に公然と反抗し、暴走を始めた。

[2] 国民、マスコミ(新聞)はそうした軍部を熱狂的に支持した。

なのである。


(軍部暴走の模範解答は『大日本帝国憲法に欠陥があったから軍部が暴走した!』になるのだろうが、その憲法は明治時代からあったわけで、明治時代はもちろんのこと大正時代もそのまま放置していても何事も起こらず、なぜか昭和になってから問題が突如噴出するのは変だ。この憲法のせいで軍部が暴走を始めるのなら日露戦争に勝った直後とか、そこいら辺りから始まっていないとおかしいだろう)


 天狗騨記者は感づいている。

(日本に関する〝歴史認識〟はMT学園の報道と同じ臭いがする)

 それの意味するところは、『ストーリー展開上辻褄の合わない真実を故意にカットしている!』ということである。なにか別の事実を故意に無いことにしている臭いがする。


 ——天狗騨が近現代史を調べそして考え抜いた結果弾きだした結論は〝当時の日本人は愚かしくない〟だった。むしろ〝普通〟だった。

 しかし、こうした答えはなかなか披露するタイミングの無い〝答え〟なのである。



『軍部はなぜ暴走したのか?』『そんな軍部をなぜ国民は支持したのか?』

 天狗騨によると、現代日本ですっかり受け入れられた『成果主義』という価値観で全てストンと説明できた。


(『成果主義』というのは別にアメリカ人が日本に押しつけた価値観ではない。人間なら誰でもすんなりと受け入れる価値観である)


(成功すれば有能となり賞賛され、失敗すれば無能となり蔑まれるというごく自然な価値観である。具体例で示すなら『信玄は有能だが勝頼は無能』、あるいは『劉備は偉大だったが劉禅は暗愚』となる——)



 天狗騨はひとつの事件に辿り着いていた。

 『南京事件』という事件があった。とは言ってもいわゆる『南京大虐殺』の1937年の事件ではない。である。


(これこそが、ストーリー展開上辻褄の合わない真実を故意にカットしている)と天狗騨が考えた歴史的事件だった。

 ちなみにこの場合の〝ストーリー〟とは『悪の国日本』という、いわゆるWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)な歴史観のことである。

 中国人と、韓国・北朝鮮人のほとんど、そしてこの歴史観を考案したアメリカ人の、少なく見積もって過半数程度が支持しているであろう歴史観で、むろん天狗騨自身が籍を置いているASH新聞もそうした歴史観を支持する勢力の中のひとつだった。



 1927年の『南京事件』。それは3月24日に国民党の有力者、軍総司令の蒋介石率いる北伐軍が南京に入城したところから始まる。

 蒋介石軍来るところに虐殺あり。第二次大戦後台湾島で起こした白色テロ。そのミニチュア版とも言うべき事件が起こった。

 蒋介石軍が南京に入場するや、外国の領事館、居留地などに対する襲撃が始まった。下手人は蒋介石軍兵士ほか南京在住一部中国人。略奪、暴行、強姦された女性も多数、さらに破壊活動、当然日本人も無事では済んでいない。そしてその結果外国人に死亡者まで出た。

 イギリス人三名、フランス人二名、アメリカ人一名、イタリア人一名、デンマーク人一名、各々死亡。日本人も一名が死亡した。


 この結果を受けてアングロサクソンが事を穏便に済ませる筈もなかった。

 翌3月25日、アメリカとイギリスはさっそく揚子江・シャーカン(下関)に碇泊中の軍艦を出撃させる。そして南京城内に向けて艦砲射撃を開始した。撃ち込まれた砲弾は1時間ほどの砲撃時間で約200発にものぼる。その上で陸戦隊を上陸させ外国人居留民の保護を図った。

 艦砲射撃は悪く言うと〝だいたいこの辺り〟といった感じでおおよその目標めがけて適当に弾をばらまいているだけのようなところがある。それは事実上〝無差別攻撃〟となり、多数の中国人がこの砲撃で死傷した。これがイギリス人三人殺害、アメリカ人一人殺害の結果だった。


 さて問題はこの時日本は、厳密には『日本政府は何をしていたか?』、である。ちなみに日本の軍艦も揚子江に碇泊していた。

 日本政府はイギリスから持ちかけられた共同出兵を拒絶し、逆に報復攻撃を思いとどまるよう説得をしたのである。これこそが幣原喜重郎外務大臣の、いわゆる『幣原外交』であった。



 ——しかしここから遡ること27年前、1900年にも中国人達の暴動で中国在住の外国人の生命に危険が及ぼされたというよく似た構図の事件があった。この時の日本は全く対照的な行動をしていた。

 1900年のことなのでまだ清国の時代である。後に『義和団の乱』と言われる事件が起こった。外国人排斥のスローガンを掲げる民衆暴動が途方も無く拡大し、遂に首都北京までもを制圧した。そのスローガン通りに北京にある外国人公使館区域が暴徒と化した中国人の群衆に包囲されてしまった。

 清国政府はこの事態を傍観するだけ。それどころかこれを奇貨とし外国を討つことを決意、皇帝の詔勅を発した。これを受け清国正規軍が出動。北京の公使館や天津の疎開を攻撃し始める。ここに『義和団の乱』から『北清事変』へと事態は急展開、『清国政府VSイギリス・アメリカ・ロシア・ドイツ・フランス・イタリア・オーストリア』という国家同士の戦争の構図になった。もちろん日本も事件に巻き込まれている当事国である。


 この時である。日本がイギリスから出兵を要請されたのは。

 というのも欧米は清国北京からはあまりに距離が離れすぎていて速やかに兵を出せない。比較的近場にいる日本に『なんとかしてくれ』という要望が来るのも当然の成り行きだった。最終的にイギリスが欧州関係各国の要望を取りまとめ、その形が整った段階で日本は出兵を決断した。


 地理的に清国北京に近い日本と帝政ロシアが主力軍となり清国軍と対決し、この動乱は清国敗北で終わる。この時ロシア軍は清国の文化財を略奪の限りに略奪したのだが、清国が支払う代償はこの程度では済まなかった。科された賠償金4億5千万テール、そして各国軍の北京駐留を認めさせられ、国は半ば植民地状態となった。

 ちなみにこの時の日本軍の立ち居振る舞い(ロシア軍という格好の比較対象がいた)と、共に苦しい中を戦い抜いたという戦友意識が後の日英同盟に繋がったという指摘もある。



 ところが1927年の『南京事件』の時は日本はイギリスとは共に戦わなかった。イギリスというのは巧妙な国で、後で物議を醸しそうなことをやるときは必ず仲間を募ってやるのである。しかし日本はイギリスの誘いを拒絶した。つまり仲間になるのを拒否した。このことがきっかけとなってイギリスは日本に不信感を抱き始めたという指摘がある。

 要するに『中国(中華民国)にいい顔をして、イギリスとアメリカを出し抜くつもりでは?』というわけである。


(確かに一笑に付せない)と天狗騨は考える。(人間とはそう考えてしまうものだろうという、妙なリアリティーがある。個人レベルでは根っからのヒューマニストはいても、ひとつの国家が丸ごとヒューマニストなどあり得ないというわけだ)



 しかしそれでも無差別攻撃といっていい米英軍の艦砲射撃に加わらなかったことで中国人達に感謝されたなら、俗に『幣原外交』と言われるこの外交方針にも意味があったことになる。


 中国国民党は日本の無抵抗主義を宣伝してくれた。どういうつもりがあったのかは天狗騨には解らない。ともかくその宣伝のおかげで一連の事件の顛末は多くの中国人に知られるようになった。


(日本人的感性なら当然こう思って欲しいところだろう)


(日本人だけは中国人の命を無差別に奪ったりはしなかった、と)

 ところがそんな日本人的センチメンタリズムは中国人には通じなかった。


 日本海軍が米英と歩調を合わせず南京市内を砲撃しなかったことについて、日本側の思惑(きっと中国民衆は撃たなかった日本に対し尊敬や感謝の念を抱いてくれるに違いない、という思惑)とは真逆に、中国民衆は日本の軍艦は弾丸も無いカカシであると、張子の虎であると、大いに嘲笑したのだった。

 結果的に『日本は中国にいい顔をしようとしたのでは?』という、イギリスが抱いたと思われる疑念は的外れのものとなった。だが米英との共同歩調を拒否した日本に対する不信感だけは彼らの中に残ったらしかった。


 天狗騨記者としては最初にこの話しを聞いたとき、正直信じたくはなかった。ただ種々の情報を集めてみると、1927年の『南京事件』の後同様の事件、即ち『中国在住の欧米人が中国人の集団に襲われ強姦されたり殺害されるという類いの事件』を聞かないのである。当時中国大陸には〝租界〟もあり各国外国人が多くいたのだが、その後中国人達の襲撃対象は専ら日本人となっていた。事実この後4月3日には『漢口』で日本領事館や居留民が襲撃されている(漢口事件)。



 これはいわゆる現代の〝常識〟である〝正しい歴史認識〟では、『日本が中国を侵略するから中国人は日本人だけを憎むようになったのだ』と説明されるが、天狗騨としてはまったく腑に落ちない。


(1927年のアメリカ・イギリス両軍の南京に対する艦砲射撃は無差別攻撃そのものだが、どうして中国人はアメリカ人、イギリス人を憎まないのだろうか?)


(1927年の10年後、1937年には今度は日本軍が南京入城を果たすのだが、その時蒋介石一派ら少なからずの中国人達は『アメリカ人の皆さん、イギリス人の皆さん、私達中国人は日本人という悪い奴らに虐げられています。どうか皆さんの力で悪い日本人どもをやっつけて下さい』といった感じで懇願し同情を買おうとしていた——)


 そしてその効果は今でも続いていて、アメリカ人、特にリベラル系からは『中国を侵略した日本』と言われ続けている。



 イジメ問題撲滅のため社会部記者になった天狗騨からしたら、いよいよ人間の深淵をのぞき込むような暗鬱たる気分になるしかない。


(『イジメは良くないよ!』と言ってイジメグループとは別行動をとった生徒が逆に今度はイジメの対象になるという、絵に描いたようなパターンそのまんまじゃないか)と思うしかない。


(これが現実だとすると1927年に日本はアメリカやイギリスと一緒になって罪を犯していない中国人もろとも艦砲射撃で無差別に殺すことが正しかったことになる……)


 その上さらに天狗騨に暗澹たる気分を与えたのは、いわゆる『ネット右翼』の方が洞察力が優れていることになってしまっている点だった。

 連中はこう言うのだ。

 『韓国人とどうしても関わりを持たねばならない時は一番最初から強圧的態度で接し、まず痛みを与えること。そのようにして徹底的に上下関係をわきまえさせないといけない。慈悲の心を持てば必ずしくじる。なぜなら韓国人は人を自分より上か下かで判断するからであり、諸外国が持つ韓国についての価値観もだいたいにおいてこれと同じである』などと。

 そしてどこから集めてきたのか『世界各国の韓国人操縦マニュアル』を貼り付ける。

 こういう連中の方が真実を見抜いていたことになる。むろんこのケースでは『韓国人』の部分を『中国人』に入れ替えるのだが。


 天狗騨は(中国人よ! 南京の者達よ! 1927年に無差別に諸君らを殺した連中に媚びを売り恥ずかしくないのか!)と言いたい気分だったが既に(強い者には弱く弱い者には強いというのが中国人か)と思ってしまう自分自身にも嫌気がさしていた。



 こうして『幣原外交』は失敗した。どういうわけか『幣原外交』というとベルサイユ条約の時の〝国際協調主義〟でしかその名を見ないのが日本の歴史教科書だが『幣原外交対中バージョン』もあったのだ。

 〝対中融和外交〟は戦前から存在していた。〝親中派〟は決して戦後の産物ではない。

 天狗騨はこの辺りにも不信感を持っている。

(戦前の日本人は中国人を人間として取り扱っていなかったという歴史情報ばかりが氾濫しているが、これも『ストーリー展開上辻褄の合わない真実を故意にカットしている』のではないか)


 しかし天狗騨は『幣原外交』、即ち対中融和外交自体を糾弾する気にはどうしてもなれない。しかし一方でこれが彼自身の感情論に過ぎないということも解っていた。


(『こうした対中外交』の成果は無かったことだけは直視しなければならない。成果主義の観点からこの外交は誰からも評価されなくても仕方ない……)そこだけは真実であるが故に認めるほかない。これは天狗騨のジャーナリストとしての良心だった。



(——だが対中融和外交である『幣原外交』にはその結果に関係無く非難すべき部分がある)天狗騨はこの一点でこの外交を憎む。


(この時日本政府は〝対中融和〟を優先させる余り、絶対にやってはならない致命的な失敗をやらかしている!)

 それは日本国民を騙したことだった。


 1927年の『南京事件』の日本国内での反響を恐れた日本政府は真実を隠蔽した。


 『我が在留婦女にして凌辱を受けたるもの一名もなし』と、嘘の発表をしたのである。


 しかし稚拙な嘘はすぐバレる。現に南京の日本人居留民にとっては自分達の体験したことだから強姦の被害を知っている。

(憤慨するのも当然だ)と天狗騨は思う。

 日本人有志は中国の横暴を伝える大会を開こうとしたが、日本政府によって禁じられた。


(政治不信はここから始まっている。親中するあまり自国民すら騙しその上集会も禁じる政府など国民からの信用を失っても当たり前ではないか)



 そして天狗騨は認めたくはなかったが、やはり中国人は強い者には弱く弱い者には強いという——これが中国人だった。


 1927年の『南京事件』を発端に中国人的には『日本人は襲っても大丈夫な外国人』と認定されたらしく日本人を狙ったテロ・殺人事件は中国大陸全土に拡大していく。日本人が多く住む満州すらも日本人にとって安全な土地とは言えなくなっていった。


 この時も日本政府はこんなことを言っている。

 『善隣の誼を敦くするは刻下の一大急務に属す』(意訳・隣国である中国人とは仲良くすることが大切だよ!)

 そしてさらにまたあの幣原外務大臣がやらかした。

 『(満州への)日本警官増強は日支対立を深め、ひいては日本の満蒙権益を損なう』と言って治安回復のために日本本土から満州へと派遣していた応援警察官の引き上げを決定したのである。

 天狗騨にはこの論理の構造が、

『日本がミサイル防衛システム(あるいは敵基地攻撃能力)を持つと軍拡を招く。日中間の貿易がこれによって阻害されれば国益を損なう』という主張にうり二つであると、瞬間的に連想できてしまった。むろんASH新聞の論調と言ってもよいので、そこの記者である天狗騨には連想が湧くのも当然であった。


 さて当の現場の満州では、というと、1930年下半期だけで日本人を狙ったテロ事件81件、死者は44名を数えるに至っていた。

 しかし政府方針によって治安を維持するための警察官の数は減らされる————

 そうした満州で当地在住の日本人達が身の安全のために誰を頼りにしたかは想像に難くない。

 関東軍であった。なにしろ軍隊である。アメリカ合衆国を見ても解る通りテロ掃討作戦は今も軍隊の仕事である。


(国民が軍部を頼りとする風潮は失敗政策を積み重ねる日本政府の失態から始まっていた——)


 世の中がこんな有様の中、1931年9月、政治家ではない一人の男が行動を起こす。周囲を巻き込みつつそして成果を出してしまった。


 関東軍作戦参謀・石原莞爾中佐。僅か1万数千の兵力で決起、敵はおよそ20万もの張学良軍。張学良軍はもちろんのこと幣原外務大臣の『不拡大方針』すらも蹴散らし、事前の構想通りに朝鮮半島からも速やかに兵力を動員。瞬く間に全満州を制圧した。満州事変である。政治家達はあっけにとられていただけだった。

(きっと当時の日本人は言ったことだろう。『幣原ザマァ』、と)そう天狗騨は想像する。

 翌1932年、清朝最後の皇帝宣統帝溥儀を執政に迎え満州国建国。日本政府が手をこまねいていた満州の秩序回復を武力で鮮やかにやってのけた。


 やることなすこと失敗続きで成果を出せず、国民に嘘をついた上に、国民の命よりも対中融和を優先した政府は、彗星の如く現れたスター軍人石原莞爾の前に敗れ去った。


(対中国政策で成果を上げられなかった日本政府。逆に成果を上げてしまった関東軍。成果主義の観点からどちらが支持されるかは解りきったことだ)天狗騨の思考は論理的である。


(よく日本人が極端から極端に振れると言うが、それもまた『成果主義』で説明できる。成功のためにはこれまでの成果が上がらないやり方を改める必要がある。必然的に前の政策とはかなり違う政策を採用することになり、新しいやり方が成功した場合、当然新しい方が支持され、以前の価値観をゴミ箱へと捨てたように見えるのだ)




(——しかしこの成果には問題点が二つあった)


(ひとつは遂に政治家達の手で成果を上げられなかったこと)


(もうひとつはスター石原を羨んだのか、あるいは『オレにもできる』と張り合おうとしたのか、陸軍の中に石原莞爾のマネをする者が次々出現したこと)


(人間というものは秀才であるほど天才に対抗心を燃やすものらしい。1万数千の兵力で20万相手に戦を仕掛けて勝つ能力が誰にでもあるわけ無いのに勝手に軍を動かすところだけを真似てどうするのか)


 現に満州事変は1931年、二二六事件は1936年である。



 現代日本における戦前史的〝常識〟は以下のようになっている。


[1] 軍部は〝統帥権〟を盾に内閣に公然と反抗し、暴走を始めた。

[2] 国民、マスコミ(新聞)はそうした軍部を熱狂的に支持した。


(だがこの〝常識〟は前段をかなり端折っている。実際はこうではないか)


[1] 政府の対中融和政策が1927年の南京事件によって完全に破綻し中国大陸で暮らす日本人の命が危うくなり始める。しかも対中融和を優先させるあまり、日本人が受けた被害すら隠そうとした。(成果ゼロの上に国民を裏切った。政府の信用失墜)


[2] 中国大陸において日本人だけがテロの標的となる。こうした事件は頻発し特に問題となったのが日本人が最も多く暮らす満州だった。


[3] 『満州における邦人の安全問題』の解決に政治家達がまたも失政している間に、1931年少数の軍人達が満州事変を起こす。これに軍部も協力し軍は満州全土を掌握。治安回復を実現し軍人の方が成果を上げてしまう。(ある意味対テロ戦争)


[4] 国民、そして当時のマスコミである新聞はそうした軍人や軍部を熱狂的に支持した。(成果主義)


[5] すっかり国民的人気を得た軍部(陸軍)は〝統帥権〟を盾に内閣に公然と反旗を翻し、いよいよ本格的な暴走を始める。一方で国民の支持を失っていた政治家達は軍部の主張する政策を支持するしかなくなる。しかし、この後のどの〝暴走〟も満州事変ほどの成果をあげることができず、結果的に失敗続きの暴走ばかりとなる。


 〝常識〟とされている〝正しい歴史認識〟は天狗騨にとっては説明不足の歴史観というほかなかった。


 総論としては『当時の日本人達の軍部への支持は成果主義の結果であるため、必ずしも国民が愚かしかったからとは言えない。対中宥和政策に固執することが成果を上げることよりも重要になってしまうという倒錯した価値観を持つ政府の方に問題があった』ということになる。愚かしい者は政府だった。


(政治家の無能は著しい罪だ)


 なんだか自分で考えて嫌な予感がしている天狗騨であった。

(今現代の日本政府も対中宥和政策に固執するあまり、人々が根の部分で求めている基本的な価値観を切り捨ててはいないか? そういう政治家が権力を握ってないか?)

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