「人と比べる」のはけっこう辛い

りう(こぶ)

人と比べたくない と思ったこともある

誰かと自分を比べることって生きてたら絶対ある。

それって本質的に意味ないよね


なんでかって言うとさ

「物事のすべての価値判断は自分の中にしかないから」

うまく言えたらいいなと思うけど

例えば、社会的に超成功したピアニストがいるとするじゃない、でもその人が本当は小説家になりたかったら、ちょっとした売れっ子小説家にすら勝ててないよな(ピアニストの中では)。ただこの場合まだ「社会的に」って修飾語句がつくんだけどね。

でさ


もちろん何かの「自分の満足」を「自分の外からの反射」として受け取ることはあるかもしれないけど、「あらゆる”第三者からなされる社会的評価”って自分自身には実質無意味」だと思うんだよね。どう?


ここで一つ大事な秘密を教えよう。

「あらゆる判断は自分のものだ」


世界が存在してるってことすら自分の脳みその中で色々なものが像を結んでいるだけなんだぜ?信じられるかい?


どうして「あいつはいいなあ」なんて思うんだろうか

それって「自分がその人だったら」とか「その人の今の状況」とか想像してるけど、その想像ってそもそもいらなくないか?

なぜなら「想像は想像でしかないから」「その人は自分じゃないから」「その人がどれだけ幸せでも自分の幸せには関係ないから」。


でも比べちゃうから「あいつが自分より優れているのってつまり自分の伸びしろじゃね」「あいつみたいになれるんじゃね」って考えたら

ああそうかもって思った


ただ自分は「処理能力」的なものばっかりに劣等感を抱いてたから「美醜」とか「身体能力」にこだわる人の気持ちはあんまりわかんないかなって思う(顔は自称中の下)。まあ美醜は第三者が関わるがゆえに問題になる話だと思うから、そもそもちょっと違うかな?


自分が思う「社会」とか「みんな」「大衆」「通年」って自分の中のモヤモヤとしたものでしかなくて。

実際存在してることもあるけど、本質的に自分の判断とかとは関係ないんだよな。

なんとなく、そういったものに根を張って、触手を伸ばして生きてきたような気持ちではいるんだけど、さ。その触手をシュルシュル自分の中まで戻して(自分の中の「親」を追い出して・・・「社会」を、「ルール」を、「良識」を、「普通」を・・・)自分が何をどう感じてどう判断して何をやってくのかってことに

集中すんのは、けっこういいなあ と思う。

少なくとも自分にとっては、本当に難しいことだ・・・花を見て、しみじみと綺麗だと思ったりするようなことが。人が死んだら、悲しいなあと思ったりするようなことが。

つまり「花は綺麗だと思わなければいけないがゆえに綺麗」「人が死んだら悲しいと思うべきだから悲しい」から抜けることが。


で、そこまで戻ってきたときに「自分じゃない優れた誰か」ってのはある意味で「自分の伸びしろ可能性の提示」でしかないんじゃないか、っていう話。

しかもここまでくると「客観的事実」まで曲げることが可能だからな、万能()

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