第1話 無力さを知る夜があって
「……先輩………。…わたし………何で、こんな仕事してるんですかね…?」
嗚咽混じりで、涙声を振り絞る杏里の問いに、かけてやるべき慰めも納得させられるだけの答えも、何も言葉が出なかった。
スマートフォンのスピーカーからはひたすらに、どうにも出来ない悔しさに滲んだ泣き声としきりに鼻をすする音が、真っ暗な静寂の六畳一間を切り裂き続けた。
今まで俺はずっと、逃げ道を作ってきた。
理不尽を合理化するために構築した、より理不尽な理由。
上手く行かなかったときの、言い訳という自己保身。
事を丸く収めたいがために、上辺だけの同情で固めた諦念。
そしてそれらは全て、他人と深く関わらないようにするための、自己防衛規制。そうやって今まで上手くやってきた。そのはずだった。
なのに今、その杏里に対して、優しい言葉で上手くことを収める、ただそれすらも俺は出来ずにいた。
杏里は俺がこんな薄情な人間性の持ち主であることを知っている。それでも、いや、むしろだからこそ、俺の本心を訊きたいはずなのだ。
しかし、ただ黙っていることしか出来ない俺をよそに、泣き声は目覚ましの秒針のカチカチという音と同期しているかのように、刺々しく響いた。さっき不意に見たときにはてっぺんを向いていた短針が、もう大幅にその位置を通り過ぎていた。
翌日、杏里は仕事場に来なかった。
杏里がフレンチレストラン「ボヌール・シュエット」に入社してきたのは、ちょうど2年前の春のことだった。
ランチタイムの営業が終わり、ディナーに向けて料理の仕込みをしている最中、店長の蛭田から紹介を受けて挨拶を交わしたときのことは今でも覚えている。
「初めまして、金成杏里です!元気なのだけが取り柄なので、頑張りますんでいろいろ教えてください!」
お世辞にも美人とは言えない顔立ちだが、愛嬌のあるにこやかな笑顔が可愛らしい。だが、将来の希望に満ち溢れたように、瞳も声も生き生きとして生命力を感じさせるのは、俺とは真逆だ。
「…ああ、どうも…猪狩です。よろしく。」
「杏里ちゃん、ね!俺、星龍馬って言います。坂本龍馬の"リョーマ"。分からないことがあったら何でも訊いてね!」
ホール担当の同僚の龍馬は、若い女子と一緒に仕事が出来ることに舞い上がってか、俺が挨拶し終わるか終わらないかのタイミングで食い気味に、張り切ってアピールをしている。
「猪狩さんと龍馬さん、ですね!よろしくお願いします!」きらきらした笑顔で杏里はお辞儀をした。
「じゃあ、金成さんはこの人らにいろいろ教えてもらってね。あんたらは、料理長の休憩とユーゴの買い出しが済んだらそれぞれ挨拶させて。さとみちゃんと、あとバイトの連中には今度シフト入ってるときに。んじゃ、よろしくね。」
蛭田はそう言うと、ああ疲れた、などとぼやきながら杏里を残して厨房を後にした。
「疲れた、ってあいつ…今日のランチの客入り、ガラガラだったじゃねえかよ…。どこに疲れる要素あんだよ…。」
蛭田が出て行ったのを見計らって龍馬が小憎たらしく呟くと、「そうなんですか!?アハハハハ!面白い!」と杏里が純真な目をして大袈裟に笑った。
龍馬は自分のツッコミが受けたと思って得意気だが、俺には杏里の朗らかさが、どこか空々しく思えた。
わざとらしいというか、社交辞令的というか。
それはうがった見方だとは自分でも思う。
真っ直ぐな子だとか、明るくていい子だとか。
一般的に見たら良い印象を受けるんだろう、この娘は。
でも、俺は日陰者だ。名実ともに、蝙蝠か土竜の類だ。
希望に溢れた小さな太陽は、無作為にも程があると思わずにはいられないほど、仄暗い暗幕をじりじりと焦がすように照りつけてくる。俺は直感的に、
ああこの娘とは合わないな
と感じた。
杏里が龍馬と楽しく談笑しているのを尻目に、俺は野菜のテリーヌを仕込むために、皮を剥いて一口大に切った人参を入れた鍋にブイヨンスープを注ぎ、火にかけた。
「面倒くせえ。」
ため息とともに呟いた言葉は、ガスコンロの着火音とともにかき消えた。
今はこの人参だってまだ形を保ったままでいるけれど、火がしっかりと通ってしまった時に変に負荷を掛けてしまおうものなら、いとも容易く潰れたり崩れたりしてしまうだろう。
そしてそれは、不可逆だ。どんなに頑張っても、もう元には戻れない。
台無しだ。
希望なんてそんなもんだ。
夢なんか尚のこと。
俺はそうずっと思っていた。
あの晩、杏里から電話が来るまでは。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます