E42 怪盗を追うな

 二〇一八年四月五日の金曜日、黒樹家では、子どもが五人もいるのに、さほど騒がしくない。

 黒樹と劉樹の作った朝ごはんの後、それぞれに自分の世界へと向かう。

 

「温泉で滑り過ぎたわ。残念ねー。あはは。皆、行ってらっしゃい」


 蓮花は国立の下野大学美術学部絵画科に見事に滑り、アトリエデイジーで学芸員補になっていた。

 最初はショックだったようだが、今は、笑って言える程にはなっている。


「行ってきやっす。皆も気を付けて」


 和は、地元から離れた進学校の下野県立三つ葉みつば高等学校に合格し、編入を嫌って一年生から始めている。

 学ランに三つ葉のボタンが似合っていると先輩の黒樹悠から言われて照れた。


「お父さん、ひなぎくさん。行ってくるぴ……。ぴくはやめるのでしたぴ……。ついついです」


 劉樹は、ふるさとななつ市立神郷かみさと中学校へと進学し、紺のブレザーにストライプのネクタイが一つ大人に輝く。


「行って来ます。パーパ―、ひなぎくさん」


「行って来ます。パパ、ひなぎくさん」


 虹花と澄花は、米川の分校で四年生に進級し、白咲の家で新調して貰ったランドセルも明るい。

 低学年クラスで最高学年となり、気持ちも引き締まる。



 四月八日の日曜日、この日はピカソ没の日であり、ピカソとその生き方を企画した記念として、再び、アトリエデイジーをオープンした。

 深見医師が、仕事は無理だと言っていたのだが、生き甲斐になればと黒樹は押し切ってやらせてみることにした。


 不穏なことに、アトリエデイジーを震撼とさせるできごと、いや、ひなぎくと黒樹を揺さぶるできごとが起きた。


 怪盗ブルーローズの出現である。


 五月六日の日曜日、三度目のブルーローズの予告が届いた日だ。


「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアノ・デ・ラ・サンテシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ、つまりはマラガ市役所出生届による名の『ピカソ』のキュビスム一連の作品展示コーナーを見てください……! キュビスム原点の『アヴィニョンの娘たち』さえなくなっています。プロフェッサー黒樹」


 黒樹は、こんな状況でも突っ込まざるを得ない。


「早口だな、ひなぎく! あー、すまん。思わず呼び捨てになってしまった。ひなぎくちゃんね、はいはい」


「呼び捨てでも構いませんよ」


「いや、お嬢ちゃんにそんなガサツなのは似合わないですよ」


 怪盗ブルーローズは、アトリエデイジーに来る度に故意に停電させる。

 今回は、集中豪雨のせいで電気が落ちたのであって欲しいと、ひなぎくと黒樹は、見回りをしている。

 まだ、午後三時であったが、風雨も強く、閉館時刻を早めたばかりだった。


「だからさ、ひなぎくちゃん。『ピカソ』の名前が長いよって突っ込みを入れてもいいかい?」


 黒樹は、ひなぎくが暗がりで怖い気持ちにならないよう、にこやかな声音にした。

 ひなぎくも大人だ。

 それ位は察しがつく。


「プロフェッサー黒樹、何事も正確にです。『ピカソ』と呼ぶのは、あだ名のようですわ」


 お堅い所もあるひなぎくは、やんわりと『ピカソ』の長い名前を主張した。


 懐中電灯を手に二人は館内を見回っていた。

 

 ひなぎくは、黒樹に振り向かせられ、彼越しに向こうの窓を見た。

 窓が瀧に支配されていように流れる雨の中、黒樹はゆるりと顔を寄せて来る。

 ひなぎくは、心の臓がリズムをみだし小刻みに打ち始めたのを感じた。

 その刹那、稲光がドンと来て目が眩む程痛かったので、さっと顔をそむけた。


「神様に叱られますよ」


 暗がりの中、ひなぎくは、頬を赤らめた。

 心の中で顔を見ないで欲しいと唱える。


「え? また、神様の話?」


 冷やかしではないが、黒樹は無神論者だった。


「信仰の自由ですよ」


 まったりとしたひなぎくに戻った。

 黒樹も本来の仕事を思い出す。


「青いバラのメッセージは見つかったかい? ひなぎくちゃん」


 黒樹は、少しウエーブのかかった茶の前髪から熱い眼を光らせ、怪盗ブルーローズが来た時のいつもの台詞をこぼした。


「……いいえ。まだです。なくなった『ピカソ』のレプリカは、もう持ち出されてしまったでしょう。その証拠になる一輪の青いバラを探しています。あるとすれば、このキュビスムのブースのはずですから」


 ひなぎくは、黒樹に抱かれたまま捜索を続けている。

 この子のそんな面白い所が気に掛かると黒樹は笑いたくて涙をこらえた。 

 黒樹の少し長い髪がくすぐったくても、相も変わらず、ひなぎくは気にしないようにしている。

 集中力は半端なことではない。


「多分、代表作を逃さないはずです。ここは、『ピカソ』の愛人ドラ・マールをモデルにした『泣く女』のあった所です」


 ひなぎくが懐中電灯で照らそうとした時、雷がバリバリと光りを大きく放った。

 一瞬、『泣く女』のレプリカの掛かっていた所を照らす。


「見えました。また盗まれてしまいましたよ。ほら、怪盗ブルーローズが盗んだ印の青いバラが一輪、置いてあります」


 すると、すっと黒樹がひなぎくから離れ、青いバラを懐紙で拾った。


「何の為にこんなことをするのだ。説明して欲しいな、怪盗ブルーローズ」


 ドンと後から来た雷の激しい音に、黒樹の抗う声は消し去られてしまった。

 ひなぎくは、青いバラを見つめて頷く。


 暫くして、停電の中、稲光が去って、ごうごうと雨の音がしていたのが、静まって来た。

 ひなぎくが恐る恐る触れた青いバラで指を切ったので、黒樹が血を吸う。


「あ……」


 ひなぎくの吐息の後、黒樹がブレーカーを起こし、アトリエ内は明るくなった。

 二人は休憩コーナーへ行き、ひなぎくは白いマグカップにコーヒーを黒樹には黒いマグカップにカフェオレマックスお砂糖を入れて一息つき、分析を始めた。


「四月八日の日曜日が再オープンの日で初回、四月二十二日日曜日で二回目、三回目の今日、五月六日の日曜日、大型連休最後の日に怪盗ブルーローズが現れたのだな」


 青いバラの花びらが、黒樹に握り潰された。


「初回に盗まれたのは、一九二一年制作の『海辺の母と子』ですわ。海辺でたわむれる慈愛に満ちたまるい母と子の絵で、オルガ・コクローヴァを一九一七年に妻にし、写実的な新古典主義の時代のものだわ」


 ひなぎくは、コーヒーも飲まずに話す。


「二回目には、一九〇一年制作の『青い部屋』ですわ。女性が寝室で入浴しており、壁にはロートレックのポスターが見える絵で、ピカソは貧困にあり、カンバスも買えず、別の絵の上に重ねて描いた青の時代のものだわ」


 黒樹もカフェオレマックスお砂糖を飲もうともしない。


「三回目には、一九〇七年制作の『アヴィニョンの娘たち』が一つですわ。アフリカ彫刻に影響を受けた裸婦群の絵だわ。それと、一九三七年制作の『泣く女』は、顔を大きく描いた愛人の絵で、いずれもキュビスムのものだわ」


 ここまで、ひなぎくが語ると、黒樹はため息をついた。


「ふー、それらが盗まれた訳だな」


 黒樹は、ひなぎくの自作自演ではないかと疑った。

 だからこそ、奇行に付き合った。

 まだ、青いバラのショックによる病気が治っていないのだと、ほとほと困った。


「ひなぎくちゃん、結婚式は諦めようか。深見医師が、無理だと仰っている」


「え? 私、元気ですわ。どうしてなの?」


 ひなぎくにとっては、目を丸くするしかない。


「もう少し、休養が必要だということだ。家事は勿論難しいようだし、アトリエデイジーを休んでもいいのに、毎日開けようと固執するだろう?」


「ですけれども、私は、自立したくて」


 それがままならないのは、黒樹が分かっていた。

 一旦、病気になってしまったら、治る日を指折り数えるのではなく、ともに生きることを考えなければならない。


「ひなぎくちゃん、約束の五月十五日のお誕生日に結婚しような。その白く細い指に合う、マリッジリングを探しに行こう。結婚は、華やかな式を挙げることだけではないってことだ」


 黒樹は、手で潰したバラを眼光で刺した。


「青いバラ……。この手にしているのは遺伝子組換えによらないものだ。レプリカさ。でも、花言葉は、遺伝子組み換えで作られたアプローズと同じく、『夢、かなう』だ」


 夢、かなう……。



 ひなぎくの胸に響いた。

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