E41 青いバラのむしばみ
暗い……。
深い穴に落ちたみたいだ。
私は、どうしたのだろう。
何かに心を揺り動かされて、それから……?
私は……。
……私は?
「……」
瞼を少し起こすと、一条の光が、瞳孔をえぐるようだった。
すっと、再び閉じてしまったが、優しい声に耳を傾ける。
「……ぎく」
誰かが、呼んでいる。
「ひなぎくちゃん、ひなぎくちゃん……」
ひなぎくは、目をしばたいている。
暫く見たこともない白い天井を見つめていた。
左右は、カーテンで仕切ってある。
腕がちくりとして気が付いたのは、点滴で血管確保をしていることだ。
それに、人差し指に酸素濃度計が挟まれており、同時に自動血圧計と脈拍計に繋がれている。
ピッピッピッピッ……。
機械的な音に点滴の羽虫程のぽつっぽつっとした音が聞こえる。
そうか。
ここは、病院?
「はーっ。起きたか、ひなぎくちゃん。今日は、十一月五日だぞ。日曜日だ。子ども達も全員来ているが、今は、
ひなぎくちゃん?
心の声が鈍く響く。
「これで、一安心したぞ。昏睡していたのだよ。眠ってた。よく眠っていたよ」
眠っていたのね、『ひなぎくちゃん』は。
「よかった、よかったなあ……。心臓に悪いぞ」
黒樹は病院のベッドに横たわるひなぎくの付き添いをしていた。
積み重ねできる椅子、スタッキングチェアに腰掛けていたが、せわしなく気配りをしている。
「何か飲みたいか? お水とかお茶とか」
部屋から徒歩三歩位の同じ二階にあるベンダーに小銭をぶち込み、ペットボトルで用意してくれた。
ストローも買って置いてくれたようだ。
「今日から、食事も頼むか? 多分最初はお粥だと思うがな。……後で、フルコースをいただこう。で、できたら、二人っきりもいいかもな」
黒樹はこんな時に不謹慎だが、照れてしまう。
喉がやられたみたいだわ……。
思うように声が出ない。
このおじさまは、親戚の方?
うううん、もっと身近な方のはず。
「お目覚めですか? 白咲ひなぎくさん」
ここは、ふるさとななつ市立総合病院だ。
「ちょっと、診察させてくださいね。付き添いの方は、あちらでお待ちください」
黒樹は、カーテンから追い出されてしまったが、終わると呼ばれて顔を出した。
婚約者だからな。
ついていてやらないと。
「はい。分かりました。体は、転倒した時に肩から肘に打撲ができていますが、けいれんなどはありませんでした。後は、ショックを受けているようなのですが、精神科の診察を受けますか?」
「は、はい。お願いします。そうでしたか、精神科ですか」
ぼーっとしているひなぎくに代わり黒樹が判断した。
「私が、精神科医です。この病院は、ご老人の入院が多く、白咲さんに合わないと思いますので、通院をすすめます」
深見医師は、いくつかのメモを取っていた。
「分かりました」
上着を手に立っていた黒樹が、メモを受け取った。
「黒樹さん、ご婚約されているそうですね。ご覚悟を持って接していただきたいと思います」
メモには、心神耗弱状態など聞いたことのある症状が三つ書かれてあった。
「これは、何でしょうか?」
黒樹の銀ぶち丸メガネを直した。
「精神科で、病名がつくのは極めて難しく時間の掛かることです。それまで、お仕事をお休みされるなどの場合、診断書をお出しいたしますので、その中からお選びください。安易に統合失調症との診断を下すと了見が狭くなります」
黒樹は、深見医師を頼りになりそうだと感心する。
「仕事は、始まったばかりでしてな。昨日、オープンした、アトリエデイジーの博物館学芸員としてです」
黒樹はたまらなかった。
念願のアトリエデイジーを開いたその日に倒れるとは、何て可哀想なのだとあわれんだ。
「そうでしたか。なるべく安静に。良質の睡眠を取らせることも念頭に置いてください。お仕事は、できないと思ってください。今は、休養の時期です」
深見の言葉、一つ一つに思い当たる節がある。
それに、気に掛かるのは、ひなぎくが打ち明けてくれた青いバラだ。
「退院は、意識がはっきりしてからにします。お大事に」
きびきびとして去った。
深見医師の去った入れ違いに、会釈して、小学校の校長先生、飯森緑がみえた。
「お見舞いに参りました」
校長先生は、礼の一字に尽くしていた。
「これは、どうもどうも。今、ひなぎくちゃんは、休んでおります」
黒樹は、スタッキングチェアから立ち上がり、深く礼をした。
校長先生から、お見舞いをされるとは、恐縮だった。
緑先生は、今でも変わらない、あたたかい方だ。
「深見医師は、私の娘なの。堅い所もあるけれども、心根の優しい子だから、安心して何でも相談してくださいね」
「そうだったのですか」
静まり返っていた。
「元気になったら、一昨日、アトリエデイジーのワークショップで作った切り絵を子ども達が持って来てもよろしいですか?」
「病状がよければ、ぜひともお願いいたします」
暫く経って、ひなぎくは目を覚ました。
「ひなぎくちゃん、どうした? 気分は」
ひなぎくが黙っていたので、黒樹から切り出した。
「病気の話をしていいか?」
ひなぎくが、自分で話すと言うので、黒樹は待っていた。
ひなぎくは、初めて青いバラを見た時のことを思い出す。
だが、上手く思い出せない。
でも、何か、大切な時だったことは思い出したようだ。
黒樹が思い出せないものはほじくるなと注意したが、ひなぎくは執着する。
随分とイライラとして興奮しているようだから、精神を安定させたくて提案した。
「俺はひなぎくちゃんと婚約する。式は飯森さんの所の教会で挙げよう。マリッジリングも買おう。来年の誕生日にしよう。ひなぎくちゃんの誕生日、五月十五日だ。それまで、時間はたっぷりある。少しでも休もう。焦ってはいけないよ」
それから、点滴を外すまで三日掛かった。
十一月八日水曜日にもなっていた。
黒樹は、病院からいくつかの薬を処方され、家へ連れて帰った。
子ども達は、皆、ひなぎくを心配して大変だったが、ひなぎくの南西の出窓のある「E」の個室に、病気と闘うためにベッドに入って貰う。
出窓には、寂しいからと、蓮花らに何かバラ以外の花を頼んで正解だ。
いくぶんか華やいだ部屋となる。
本来、楽しい同居が待っていたのに、黒樹は俺がいながらと残念でたまらなかった。
一週間後、十一月八日の水曜日、予約していた午前九時に、再び、深見医師の元に二人で来院する。
「前回のCTスキャンで、脳に異常はありませんでした。黒樹さん、ご婚約やご結婚もストレスになるのですよ。プライベートなことになりますが、時期などご相談に乗りますので、診察の時にいらしてください」
「結婚がストレスになるのですか? 二人で助け合いたいと思っていても? むむむ。難しい問題だな」
黒樹はしかめっ面を隠せなかった。
「白咲さん、いくつかの心理テストをしたいのですが、次回は大丈夫ですか? 別の医師に
ひなぎくは、気が付いていなかったが、口を開いていなかった。
ひなぎくは、疲れている。
何か、本当のことと妄想が混じっている。
『折角のアトリエデイジーが、思うようにいかない。お客は入っているのに、ワークショップとかうまくいかない。私のせいだ。皆がそう言っている』
ひなぎくの中ではそうなっている。
黒樹が相談して、米川の先生にも自宅へいらしていただいた。
楽しく小学生と触れ合えたのか、少し落ち着きを取り戻したかのようではあるが、無理が重なる。
深見医師は、お仕事は難しいと言われたが、春まで、お休みにし、二〇一八年四月八日、ピカソ没の日、再び、アトリエデイジーをオープンする。
それが、荒療治となり、涙することになるとは……。
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