E12 朝までEな

 ひなぎくは、ジンベースのマティーニだよと透明なグラスに透明な世界のカクテルを黒樹にすすめられた。

 黒樹にしてみれば、酒に付き合って欲しい。

 一緒に心をほぐしたい気分なのだ。

 ひなぎくは、これまで酒の席で酔った記憶もない。


「本当に飲めないのですよ。困ったわー」


 ほんの二杯目のカクテルにひなぎくが頬に手を当てて悩んでいたら、あらあら美味しそうなカマンベールチーズがアラカルトにあったわと、ちょいちょいと食べる。

 折角なので、マティーニに一口、口を付ける。

 ひなぎくは、もう、びっくりした。

 頭がぐらりと来て、何故かおトイレに行きたくなる。

 これがお酒なのかと初めて知った。


 それを見ていた黒樹は、カマンベールをバゲットでいただくアヒージョ、カマンベールときのことベーコンとのとろけるサラダ、カマンベールのプチミルフィーユ鍋、アボカドレモンのとろりカマンベールをずらりと並べて貰った。


「カ、カマンベールチーズづくしだわ! カマンベール祭りなの!」


 こんなに食べ物にキラキラとした瞳を見せることは少なかったひなぎくは、迷わず黒樹にねだった。


「私も食べてもいいですか?」


「いやあ、ひなぎくちゃんが食べるんだよ。お乳、大きくなあれって」


 四杯目のジンをいただいていた。

 黒樹は寂しいシングルファーザー生活で、子ども達が寝静まった後のアルコールは欠かせないのだ。

 耐性はイヤでもつく。

 泥酔したい位だ。


「何ですか、プロフェッサー黒樹。お乳って。よく見ているようですけれども。うなじも」


「そうかも知れないな。ひなぎくちゃん」


 黒樹は、よく食べるひなぎくにご満悦であった。

 ばいんばいんの眼福もいいが、元気な若さを見るのはこの上なく幸せだ。

 ただ、次々とお皿を空にするだけなのだが。

 女の幸せを見ている時、漢は酔いつぶれていたいんだよとの小さな声に、ひなぎくは気が付かなかった。

 随分と酔いが回っているようで、いつもと違い、注意力散漫になっている。


「明日のアトリエデイジーの建設予定地の下見、ヘロヘロなら連れて行かないぞ」


「え? 学校探しが先ではないのですか?」


「建設が始まってから、転校手続きをしてもいいよ。蓮花と和は編入試験もあるし、劉樹と虹花と澄花の小学校は、急ぐか。この温泉郷は、学区域が特になく分校がある位だから、近くの本校がいいだろうな。坂の下にある、俺の母校でもある二荒神小学校ふたらしんしょうがっこうだよ」


「私も付き添います。家政婦扱いでいいですから」


 ビリビリするなと思いつつも、大好きなカマンベールチーズをいただくのに、マティーニを喉に運ぶ。

 コク、コクリと。

 かなり感覚が麻痺しているので、香りはもう楽しめない。


「おお、見方によっては不倫か愛人だな」


「やだあ、二人とも独身でしょう」


 黒樹は、気を許しているひなぎくが可愛いと微笑んだ。

 ひなぎくの口から、禁句の独身が出てくるとは意外だが、いつもは、真面目でお堅い所も目立つ位だから、これ位が程々だ。

 少しあおるかと、意地悪な文言を放った。


「そうだよなー。バージンひなぎくちゃん」


「……たまたま、ですよ」


 それには、ちょっと傷付いたみたいだった。

 飼い猫がすねて遊んでくれなくなったように、そっぽを向かれてしまった。


「まあ、焦らない。急いだって仕方がない」


「急いでませんし、遅くもありませんし、終電はまだです」


 少々ふらつきながらマティーニで一人乾杯をした。


「ひなぎくちゃん、ごちゃごちゃだよ。それに、終電なんてないよ。もう行ってしまったよ」


「今、何時かしら?」


 黒樹が肩をトンと叩くと、ひなぎくは急に体を起こした。

 ぶつぶつと呪文のような言葉を吐いている。


「バーに時計は無粋だろ」


「そろそろ、明日の為にも寝ないと。明日は学校、明日も学校、制作しないと生き残れない……」


 ひなぎくは、ほんのり薄化粧を香水にして、うつらうつらとしている。


「ははは。ひなぎくちゃん、アール大学大学院の頃の夢か? たまには宵越しもいいぞー。お支払いはアラフィフのおじさまが持っちゃう」


 黒樹は、本音らしきひなぎくを見られて、また、ご満悦だった。

 何せ建前しか聞いたことがない位に何でも背負いこんでしまうタイプなのだ。

 頼られたいのに、頼られたことがない。

 留学という大きな海の中で泳ぐには、よそ見もできない苦労があったのだろう。

 とうとう、ひなぎくは、拳を上げてて立ち上がった。


「私だって、これからバリバリ働くのだから。もう、学生はおしまい。社会人として自立するの。絵画教室の先生をやっていたけれども、食べて行ける収入にはならなかったし」


「アルバイトなら、そんなものだ。一日中は働いていられない」


 黒樹は、もっともっと苦労している学生を知っている。


「仕送りのお返しをしないといけないですね。白咲の家に。聞いてしまったの。電気店でも働いていた祖母の年金からも出してくれたとか。小菊こぎくおばあちゃん……」


 ひなぎくが、今度は、しおれる。

 忙しい人だと黒樹はいつもながらに思う。


「誠実なゆっくりステップでいいのではないかい。踊る時は、スローのステップで」


 カラリとジンのグラスを鳴らした。


「アトリエの立ち上げ、ゆっくりしてたら、赤字だるまになりませんか? 額面金額が支払われなくなったら、不渡り手形ですよ。不渡りは二回でどうなると思いますか? お、お、お、おとーさん、倒産ですよだわ」


「それはそうか。各方面、バリバリ行こう!」


 黒樹も一人乾杯をした。

 ひなぎくが、普段よりラスボス扱いになっているのが可笑しかった。

 パニックになった時の早口ひなぎくは観光客にも売れるとも考えたが、人前ではとてもおとなしい。

 自分だけが知っているひなぎくもいいものだ。

 独占欲かな。

 こんな酔いしれ方は、ひさかたぶりだ。


「私は、もう食べられなーい」


「全部、綺麗に食べているよ! 乳太郎め! どう突っ込み入れたらいいのか分からないだろう」


 ひなぎくは、バーから、どうやって帰って来たのか分からない。

 何時か分からないが、ふと目が覚めると、五〇三号室の座敷で黒樹と並んだ布団に横向けに寝ていた。


「危なくなかったかしら。困ったわねー」


 既に浴衣を着ているのに気が付いていない少しうっかりの乳太郎だった。


 ひなぎくは、アルコールで物忘れが激しい。

 だから、今までも飲めたことを覚えていない。

 かなり注意しないと、自分で自分の首を絞めることになる。



 まだ、そのことをよく分かっていなかった。

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