E05 父の想いがはせるままに

 ラウンジ『みかん』を後にしようとした時、黒樹は一つ大きな伸びをする。

 日差しの方を見ながら佇んで、何か、遠い記憶を引き寄せているのか。


「ふううー。やれやれだな。俺は、国立上野大學を出てパリに留学してから、帰郷したのはたったの二回だけ……。一回目は、じいさんのお葬式、二回目は、姉夫婦のお葬式だ。今から、直で二荒神町のホテルへ行く前に、同じ下野県にある黒樹のお墓に寄って行ってもいいかいな」


 ひなぎくは、二度頷く。

 黒樹の横顔に同情し、そっと心を寄せる。

 もしかしたら、黒樹のふるさとは、心の中で荒廃しているのかも知れないと思った。

 十七歳も年が離れているばかりではない。

 経験も何もかもが違うのだろう。

 子どもが五人もいる事実を目の当たりにして、生きざまを感じた。

 それに、奥様ってどのような方なのだろうかと想像する。

 か細い手で指を折ると、黒樹の家族は、両手が必要だと分かった。 


「ヤキモキしちゃうっEカップ! ひなぎくちゃんに訊いているの!」


 黒樹のかわいこぶりっこが出た。

 アラフィフになってもプリプリするのは恥ずかしいと、ひなぎくが止めても聞く耳を持たないから、もういい。

 シリアスを維持できないタイプはいると思うようにしている。


「分かりました、プロフェッサー黒樹。黒樹家のお墓に、私もご一緒してもよろしいですか?」


「お願いすっぺ。おっぱいい


 黒樹は、自分の漢の胸を持ち上げた。

 まな板なのに。


「いきなり、土地の言葉ですか。なじんでいらっしゃいますね」


「そうかもな……」


 今度は、シリアスモードか。

 壁に手をついて、黄昏始めた。

 子ども達にひなぎくもいるので、調子が狂ったのか。

 黒樹は、父と姉夫婦のお葬式では見せなかった憂いで、今更ながらに胸一杯になった。

 論語じゃないけれども、四十しじゅうにしてまどわずか。


「勿論だよ。今回は、子ども達も説得して行こうと思っている。アトリエデイジー予定地とさほど遠くない所だ」


 それには、ひなぎくも驚いた。

 ひなぎくが偶然学生時代に行って素敵だと思った二荒神町に、黒樹家の墓があるとは思わなかった。


「あ、あの……。プロフェッサー黒樹。私、そんなこと知らないでごめんなさい。黒樹家の――」


 黒樹は、その言葉を手で遮って、兄弟の中では少し上背のある和を目で探す。


「おおい、黒樹チームは揃ったか。リーダー和」


 和は、指先で点呼を取った。


「ええっと、ちまい方から、澄花ちゃん、虹花ちゃん、劉樹くん、俺、蓮花姉さん。……OK。父さん、皆いるよ」


 黒樹はツンと後ろに引かれた。


「パーパー、どこに行くの?」


 小さな子が甘えた口調で、黒樹のジャケットの裾を引っ張る。


「虹花か。何かダメだな俺……。墓まで涙を我慢できそうにもない」


 黒樹は、虹花からさっと目をそらそうとしたが、やはり振り向いてよく顔を見るべきだと思った。


「虹花は、あまりパーパーと話しをする時間もなく育ってしまったな」


 虹花をたかいたかいして、黒樹は黙想する。


 虹花、君は、足の指に障がいを持って生まれたっけな。


 六月六日の十一時、日本の国立上野大学付属うえのだいがくふぞく総合病院で帝王切開が行われ、まだ名前も知らない双子の君らが産まれてくれた。

 その日の遅い時間に、佐原悟朗さはら ごろう医師が、妻の個室にいらした時は嫌な予感がしたものだ。

 体重が重い方のこの娘の小指を触り、障がいを説明された時は、ショックだったよ。

 けれども、生後九ヶ月頃に手術をしましょうとご説明いただいた時は、救いを感じ入るばかりだったのを覚えている。


 何回かその病院に通ったが、いつ行っても、虹花ちゃんは可愛いね、本当に可愛いねとばかり、佐原医師から言われた。

 人として、この子を普通に扱っていらしたのは、佐原医師のお考えがあってのことか、本当に可愛らしいと思ってか、可愛がっていただいた。

 手術でどの指を残して、将来こうしますかと色々な話しを何回でもしてくださった。


 虹花の手術をすべく、生後九ヶ月になると、日本へと親子三人で向かった。

 所が、麻酔科との連携が難しく、手術をするかしないかで意見がまとまらない。

 病床は小児科で、付き添いは女性だけが泊まるので、黒樹は妻に任せて上の子のいるパリ市郊外の自宅に帰った。

 その入院は、妻には過酷だったらしい。

 虹花は、妻が夜中でも与えるミルクを飲まなかったり、離乳食を嫌がったり、寝付かなかったりした。

 妻は人目を気にするタイプだ。


 晶花しょうか――。

 今にして思えば、辛かっただろうな。


 パリへ帰った手術後も虹花は歩むのが遅くて、福祉保健局ラメール療育園にだってトレーニングをしに通った。

 特別な靴も医師の指導で専門の靴職人に頼めた。

 療育園に行くスケジュールを立てても、通うのが大変だ。

 その内に、妻が少々アルコールにはまって行ったのを見過ごしてしまったのは痛い。


 最後に、電話越しに、ばあさんは反対していたが、すがる思いで歩行器を使い出したら、あっと言う間にガラガラと引きずって歩き始めた。

 あんよが嬉しかったのかも知れないな、虹花。

 それが功を奏してか、今ではバレエだって習えるのだものな。


 黒樹の胸は想い出でやけたようになり、喉からこみ上げて来るものを止められない。


「下野県にバレエ教室があるか探してみよう」


 虹花を抱き上げて頬ずりをした。


「そうなの? ありがとうございます」


 虹花はひょいと黒樹から離れ、バレエのご挨拶で、小さな胸の前に片手を置き一礼した。


「澄花ちゃんも遠慮しなくていいんだぞ。音の感性がいいんだ。このままピアノを習いたいのなら、俺が探して来るよ」


 黒樹がかがんで顔を寄せると、恥ずかしそうに切り揃えてある前髪を直した。


 澄花は、小学校で、何のイジメの相談もしないで、自分のやるべきことは貫き通す子だ。

 ピアノの発表会の日、ドレスが要るのを黙っていたのに、蓮花と和が生地を用意して、劉樹が仕立てたりした兄弟の結束力を思い出す。

 黒樹は、泣きたい気持ちになった。


「パパ……。ありがとう……」


「劉樹お兄ちゃんは、何にも習い事をせずに六年生にまでなったけど、いいのか? 家政夫になるのか?」


 にこにことして、いつも無理をしていないかと心配しているが、劉樹の本音はどうなのであろうか。

 黒樹は危惧した。


「お父さん、まだ分からないぴくよ。でも、僕はきちんと結婚をしたいと思っているぴく」


 お父さんと言う呼び方は、黒樹が小さい頃、父をそう呼んでいた。

 ビビリっと来るのは想い出からか。

 この子には、かなわないと思っている。

 黒樹は、また、泣きたくなった。


「分かった。そうだよな。フランスでは、幼稚園が三年、小学校が五年、中学校が四年、高校は三年だ。日本に来て、小学六年から始めればいいな。劉樹お兄ちゃんも男の子だものな」


「和は、俺と一緒に高校を探しに出掛けよう。妥協するなよ」


 和は、小さく頷いた。

 何故か、今日の父さんはしんみりとしていると思った。

 黒樹は、子どもに気を遣わせていないかが気になった。


「そうっすね。父さん。ちまい方から先に探してやって欲しいっす」


「今日は、墓へ寄った後、ホテルに荷物を置いたら、俺はあちらこちらに手続きをして来る。一日では終わらないと思うが。取り敢えず蓮花に留守を頼むよ。一応の予定な」


 蓮花はしっかりと頭を垂れた。


「分かったわ。無理はしないでね、お父様。大学の方もいくつか当たっているの。後で相談させてね」


 ひなぎくが、ラウンジにある花で飾った綺麗な時計を見ると、もう十時半近くて結構時間が経っていた。

 黒樹と子ども達の様子を見ていて、時間とは宝物なのだと思った。

 

「そろそろ下野県ふるさとななつ行きの高速バスドリームサンフラワー号が出ますので、身の回りの物にスーツケースを持って、移動しましょう」


 小さな子から大の大人まで、これからの生活に不安であったり、夢を膨らませて歩く。



 ひなぎくは、成田の風に紛れて、黒樹の瞳から光るものを見逃さなかった。

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