第62話 シーズ・ソー・ビューティフル(3)
(1)
「オールドマンさん」
カウンターに戻ると、今度はダーネイ嬢の方から呼びかけてきた。
「お客様がお見えです」
「お客様??」
今日は外部監査も会議もなければ業者との打ち合わせ予定もない。
首を捻りながら、カウンター内の返却側にブックトラックを戻す。
「その方のお名前は??」
「あ……、すみません……」
「……聞くのを忘れたんですね」
「すみません、カウンター業務に追われていて……」
「次からは気をつけてください。それでお客様は今どちらに??」
「玄関ホールのロビーでお待ちです……」
辛うじてため息を押し殺す。あそこは自動扉が開く度、冷たい風が吹き込んで寒いのに。
その一方でまだここに来て日が浅く、基本的な作業を覚えるだけで精一杯の実習生にそこまで求めるのは酷だと諭す自分もいる。
「分かりました。玄関ホールに向かえばいいんですね」
カウンターに戻って早々、急な来客の応対をしなければならないとは。
幸いカウンター業務の混雑は落ち着いたし、事務所でのデスクワークも急ぎがないのは救いだ。
「凄く綺麗な奥様ですね」
「は??」
何の脈絡もなく飛び出したダーネイ嬢の発言に思わず間抜けな声が漏れた。発言元のダーネイ嬢は眼前のフレッドではなく、どこか遠くを見つめる目で続ける。
「いえ、お客様はおそらくオールドマンさんの奥様じゃないかと思ったんです。気品ある落ち着いた美人で雰囲気がよく似てましたし、オールドマンさんについて随分親しげに話していらっしゃいましたから」
フレッドは再び首を捻った。
客観的な観点からエイミーを見た場合、『綺麗』というより『可愛い』だと思う。
小柄だし、おまけに二十四になっても未成年に間違われるくらい童顔だ。声も高めで若干舌足らずな喋り方なので、初対面かつ短い会話のみで『気品ある落ち着いた美人』と評されるのは有り得ない。おそらく人違いだが、説明するのも話がややこしくなりそうで面倒臭い。今は謎の来訪者の元へ急ぐのが最優先事項であり、休憩時間に「妻とは全然違う人だった」と一言伝えればいい。
しかし、エイミーじゃないとしたら、一体誰なのか??
自分と雰囲気が似ていると言えばメアリ、落ち着きがあると言えばアンナが真っ先に浮かぶが、彼女達のいずれも今は仕事中。図書館に来る筈がない。
どちらにも宛てはまらないが美人という点だけならジルもか。ジルも今は仕事中だが。
まさかと思うが、過去に関係した女の誰かか――、と危惧するも、ざっと思い返してみたところで『気品ある落ち着いた美人』は誰も当てはまらない。(遊び相手として意図的に避けていたし)
やはりダーネイ嬢が言う通り、エイミーで間違いないのだろうか。
ダーネイ嬢は少し恍けたところがあるし、などと考えながら、玄関ホールのロビーへと急ぐ。
この図書館は古い教会を改増築したもので、玄関ホールはかつて礼拝堂だったという。見上げる程に高い吹き抜けの天井はステンドグラスで、きらきら七色に光り輝いている。
それはホールの端にあるロビーも同様で、向かい合う二脚のソファーに腰掛ける女性、あれが『お客様』に違いない――、の髪をも輝かせていた。
遠目で確認した時から胸騒ぎは始まっていたが、『お客様』に近づくごとにざわざわ雑音が大きくなっていく。自然と遅れていく歩調を無理矢理速める。
「久しぶり。貴方と会うのは10年ぶりくらいかしら」
懐かしくも忌まわしい、清涼感ある美しいソプラノボイスが心臓を優しく突き刺した。
天窓の光を浴びた金の長い巻毛の艶も、皺やシミが見当たらない白磁の肌と空色の瞳も全くくすんでいない。自信と余裕に満ち溢れた笑顔と物腰もまた、彼女の魅力をより引き出している。
一〇年振りに再会したナンシーは当時と変わらない、否、あの頃よりも一層美貌に磨きが掛かっていた。
(2)
トイレの流水音が淡いベージュタイルの壁に反響する。洗面台で手を洗いながら、真正面の鏡に映る顔が緊張で強張っている。
鏡の下側の物置台には二人分の歯ブラシとコップが並び、空いたスペースにはトイレットペーパーでぐるぐるに包まれた細長いものが置かれていた。
手を洗い終わった後もエイミーは洗面台の前から離れなかった。
息を詰めてトイレットペーパーに包まれたものを見つめ、五分程経過してようやくそれを――、妊娠検査薬を手にした。包んでいたトイレットペーパーは洗面台の下のゴミ箱に捨て、廊下に出る。
心臓の鼓動がいつになく速い。バクバクと痛みさえ感じる程に。
息苦しさに軽く胸を押さえながら薄目で恐る恐る結果を確認する。赤いラインは表示されていない。陰性だ。
残念なような、ホッとするような――、複雑な気持ちで大きく息を吐きだす。再びトイレの扉を開き、サニタリーボックスに検査薬を捨てる。
新居への引っ越しを機に、ピルの服用含めて避妊を中止していた。今現在、予定日から10日以上生理が遅れており、念のために検査してみたのだが......。
月経不順以外に妊娠の兆候はなく、単純に引っ越し等環境の変化による一時的な症状だろう(そもそもピル服用は避妊目的というより、不順気味な生理周期を正常に戻すためだった)とは思っていた。あくまで念の為に自宅で簡易的な検査を行ってみた。それだけのこと。
「さすがに気が早かったかな……」
思っていた以上にがっかりする自分に苦笑が込み上げてくる。陽性反応が出たら出たで気が動転したかもしれないのに。
「さ、気を取り直してお昼食べよ!何食べようかなぁ、簡単だしサラダにしよっかなぁ!!」
気分を切り替えるべく大袈裟なくらい明瞭な声でひとりごち、キッチンに入る。
冷蔵庫の余り物で適当に何か作るか、面倒臭ければレタス、キュウリ、トマトを切ってサラダボウルに放り込み、オリーブオイルと塩で食べるか。
菜食主義では決してないけれど、野菜さえあれば生きていけると豪語するくらいエイミーは野菜を食べるのが好きだ。
大きめのサラダボウルごと抱え込んで一人でサラダをむしゃむしゃ貪る姿を目撃したフレッドに『あんたはウサギか』と呆れられたことも。
冷蔵庫の野菜室を開きかけたところで、ヴ―ッ、ヴ―ッ、と、リビングで充電させているスマートフォンのバイブが鳴り響いた。
冷蔵庫の扉を一旦閉めてリビングに移動、テーブルの上で震えるスマートフォンを手に取る。
地下鉄爆破事件の際、落としたスマートフォンは奇跡的に発見され、手元に戻ってきた。液晶画面がひび割れていたので修理には出したものの、中のデータも無事で今もまだ使用している。
「ハロー??どうしたの、アルフレッド」
『いや、特に用事はないんだが……、なんとなく、エイミーの声が聞きたくなったんだ』
「えぇ??なにそれー」
珍しいことがあるものだ、とくすくす笑ったが、すぐにフレッドの様子がおかしいことに気付く。
「……ね、何かあった??」
朗らかな笑い声は早々に引っ込めて神妙に尋ねれば、途端にフレッドは口を噤んでしまう。
拒否というよりも迷いを感じ取ると、エイミーは急かすことはせず静かに次の言葉を待った。
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