第59話 閑話 どこへもいけない子

 レッスンが始まる十五分前には練習室に入り、父がくるまでの間に軽く指を慣らしておく。ピアノを始めた十数年前より欠かすことのない、サスキアの習慣だ。


 姿勢よく椅子に腰掛け、指先を鍵盤に走らせる。特に前回のレッスンで指摘された箇所、自身が苦手とする箇所を確認のために何度も何度も繰り返して弾いていると、扉が静かに開いた。

 いつもなら開始時間丁度か少し遅れるくらいなのに――、驚きでつい指先に無駄な力が入る。思わぬミストーンを鳴らすだけに留まらず、演奏まで止めてしまう。


 まずい、練習が始まる前から父の叱責が飛んでくる。

 サスキアはギュッと目を瞑って覚悟を決めた。


「レッスンが始まる前も自主練習するなんて偉いわね」


 耳に飛び込んできたのは、父の平坦な冷たい声ではなく。鈴を転がしたような清涼感を持つ女性の――、サスキアにとっては怖気が立つ程忌まわしい声だった。


 瞑っていた目を素早く開き、扉の前に立つ女に座ったままで向き直る。父であれば椅子から立ってみせるが、この女に対し礼節を弁える必要はない。

 女は、サスキアが黒縁眼鏡越しに投げかける冷めた視線に臆するどころか、そんな視線などないもののように、花が綻ぶように艶然と微笑みかけた。

 ゴールドブロンドの緩やかな巻毛、快晴の空に似た青い瞳は三十歳を過ぎても尚変わることなく、自信に満ち溢れた佇まいが女の美しさに一層磨きをかけている。

 以前、写真で見た、父の今は亡き前妻もこの女と似た雰囲気の美人であった。父が本来好むのはこういう女性なのだろう。納得と同時に、父が母を選んだ理由は一時の気の迷いだと強く思い知らされる。


「もしかして、マクダウェル先生からは何も聞かされていなかった、とか。まぁ、先生もご多忙だから仕方ないわね。今回から貴女のレッスンは私が担当することになったの。よろしくね」

「冗談じゃないわ……!なんで、よりによって……」


 よりによって、父の長年の不倫相手なんかがピアノの専属講師を務めるなんて!


「貴女が先生だなんて絶対認めない。よくも私の前に、平然と姿を現せるわね。この屋敷には私だけじゃない、お母様もいるっていうのに。今すぐレッスン室から、いいえ、屋敷から出て行って頂戴!」

 椅子を引き倒す勢いで立ち上がり、女の背後にある扉に指を突きつける。普段は出すことのない自らの大声で耳や喉の奥が痛む。

「今日の所は帰ってあげてもいいけれど、後のことを考えるなら……、ねぇ??マクダウェル先生に叱られて困るのは、私じゃなくて貴女でしょうに」

「えぇ、そうでしょうね!でもね、例えお父様からきつく叱責されるよりも、貴女なんかに教えられるのは屈辱だわ!!出て行きなさい!!」


 無様に泣きながら部屋を出て行くまで、あらゆる多くの罵声を浴びせ続けやりたい。実際に泣きそうなのは自分の方だけど。目に滲む涙で女の顔だけでなく部屋全体がぼやけて見える。

 断固拒否の姿勢を示す為、グランドピアノの譜面板に並べた譜面を片付けだした時、「何事ですか、お嬢様」とノックの音がした。


「いいところに来たわ、スザンナ。アレンさんが帰るみたいだから、玄関までお見送りして」

「申し訳ございません、お嬢様。旦那様からの言伝で、お嬢様にはアレン様のご指導をしっかりと受けてもらうように、とのことです」

 大声を聞きつけて様子を窺いにきたメイド頭を使い、強制的に帰らせようと目論んだものの失敗、徐に歯噛みする。

「ほら、サスキアさん。時間ばかりが無駄に過ぎてしまうのは勿体ないでしょ。私もプライベートの時間をわざわざ割いてるの」

「お嬢様、我が儘を言ってアレン様を困らせてはいけません」


 女の美しい顔とメイド頭の老け込んだ顔がそれぞれ交互に迫ってくる。

 二人の圧に押され、一、二歩後ずさる。運悪くピアノ椅子の脚に踵が引っ掛かり、椅子ごと転倒してしまった。


「あらあら、大丈夫??」

「触らないで!!」

 サスキアは自分を助け起こそうとして、にこやかな顔で差し出てきた女の手を思い切り跳ねのけた。

「お嬢様!アレンさんに失礼ですよ!!」

「失礼なのはこの女じゃない!!失礼どころか厚顔無恥も甚だしい!!この女は、お父様と……!」

「何てことを……!この件は旦那様に全て報告させていただきますからね!!」

「好きにすれば??」

 冷たく吐き捨て、倒れた際にずれた黒縁眼鏡をサッと指で押し上げる。

「お嬢様、」

「今日のレッスンは中止よ」


 サスキアは素早く起き上がると、女とメイド頭を押しのけて扉を開き、レッスン室を飛び出した。後ろ手で扉を閉めた直後、室内ではメイド頭が女に謝罪し倒す声が扉越しに聞こえてくる。


『本当に申し訳ございませんでした。普段は大人しく物静かな方なのですが……、お嬢様には困ったものです。こう言っては何ですけれど、やはり奥様が甘やかした……、というよりも、奥様が養育を放棄されていた影響でしょうか。それとも、奥様側の血筋が強く出られたのか、少し情緒不安定なところがありまして……』

『サスキアさんはまだ思春期の、年頃の女の子ですもの。情緒が安定しないのは仕方ないことだと思いますわ』

『そう仰っていただけて安心です。まだ若いお嬢様はともかく……、せめてアレン様のような落ち着きを奥様がお持ちになっていれば……』


 ドンッ!と拳で扉を強く殴れば、室内の会話が途絶えた。

 父とあの女の関係はこの屋敷の関係者の間で公然の秘密であり、中には――、否、大多数の者が母ではなく、あの女、ナンシー・アレンこそが父の妻にふさわしいと、非常に腹立たしいが――、考えている。

 母があんな風になってしまった原因の一端はあの女にあるというのに。


 扉の前で立ち尽くしたまま、左手の親指の爪を噛む。

 袖口から覗く細い手首には、蚯蚓腫れに似た赤い傷痕が幾つも残されていた。

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