第58話 ネヴァー・イズ・ア・プロミス(12)
(1)
耳にする言葉全てが私を否定し、傷つけるから。少女は大きなヘッドフォンを装着した。
これで、母が真っ赤な顔で喚き散らそうが、父が侮蔑を込めて短く吐き捨てようが。今もまた、目の前に立つ両親は少女に酷い言葉をぶつけてくるけれど。
私には何も聞こえない。全然気にならない。
家族という名の、最も遠い他人の言葉なんていらない。必要ない。
『そうかな』
突然肩を叩かれ、少女の心臓は大きく跳ね上がった。
悲鳴を飲み込んで振り返ると、少し冷たそうだけど綺麗な顔の少年がいた。
『あれを見てみろよ』
ヘッドフォンを装着しているのに、どうして少年の声だけは聞こえてくるのだろう。
しきりに首を傾げる少女に向かって少年は、彼女の両親の間に挟まれる形でひっそり佇む金髪の少女を指差した。金髪の少女は、気遣わしげな視線を控えめに少女へと送り続けている。
『あの娘も両親と同類って思っているんだろ??でもさ、ちゃんとあの娘の声を、よく耳を澄まして聴いてみたこと、ある??』
少女は困惑気味に何度も頭を振った。
だって、聞いたところで――、どうせ、私のやること成すこと否定するに決まってる!
『話をする前から決めてかかるの、良くないと思うけど??』
少年は奪うように、少女の頭からヘッドフォンを取り外すと、小さな背中を優しく押し出す。
『先入観とか思い込みとか取っ払って、互いに腹割って話してみれば??』
受付カウンターの奥、各診療科に続く廊下から足音が、コツコツコツ、響いてきた。音が待合室に近づくにつれて、エイミーの肩に力が入る。足音の正体が白衣姿の若い金髪女性だったからだ。
背格好からもしかして、と、視線を無為に泳がせる。膝に置いたキャスケット帽を被り、顔を隠そうかどうしようかと迷う。
キャスケット帽のつばを撮み、そわそわと落ち着きなさげなエイミーを、フレッドは本を広げたまま横目で窺っていた。
受付カウンターの前で事務員と話す白衣の金髪女性は背格好こそ似れど、アナイスではなかった。そもそも、アナイスが通う大学の付属病院じゃないし、まだ研修医ですらないのに大学以外で白衣姿になる筈がない。
ホッとする反面、赤の他人と知って残念にも思う自身に、エイミーは酷く戸惑っていた。一週間と少し前は二度と顔を見たくないと拒絶心しか抱けなかった癖に。
ジョーンズ嬢との一件から、対話次第で、アナイスの場合は徹底的に対話すれば、もしかしたら――、などと淡い期待が心の片隅に芽生えてしまったのか
もしくは、『壁を作られているみたい』とジョーンズ嬢に言われたことが、思いの外胸に突き刺さったのか。
思えば、アナイス始め、家族との対話を試みたことなど一度もなかった気がする。
どうせ自分の話など真剣に耳を傾けてくれる訳がない。話したところでまともに取り合ってもらえる訳がない、と、話す前から結論付けてひたすら沈黙を通していただけ。無言で背中を向け続ける自分に、彼らも自分への苛立ちと不信感を募らせていたかもしれないのに。
分かって欲しい、分かり合う前提での対話を望まなければ――、例えば、今まで抱えてきた気持ちをぶつけるだけでも、自分にとっての大きな変化が生まれないだろうか。
「エイミー」
思考の海に深く沈んでいると、ふいにフレッドに呼ばれて現実に引き戻された。
視線でTVを観るよう促され、受付カウンターの右側にあるTVに目を向ける。
画面の中で知性的な顔立ちの男性キャスターが淡々と記事を読み上げている。一切の訛りを排した言葉遣いは国営放送局のニュース番組だろう。
男性キャスターの背後に映し出されたのは、地下鉄車両の床に置かれた黒いリュックサックが突然発火、爆発音と同時に炎を周囲に飛散させる映像――、昨日の地下鉄爆破事件現場をスマートフォンで撮影し、ツ××ターで公開された動画だった。
『火薬の調合量が甘かったために最小規模の爆発で済み、死者も出なかったのが不幸中の幸い。明らかに素人が製作したものであり、某組織によるテロではなく模倣犯の悪質な悪戯の可能性が高い』という解説と共に、何度も繰り返される爆発映像から目を離せず、硬直するエイミーの手をフレッドがそっと握ってきた。少し骨張った手は冷たかったが、構わず握り返した。直後、エイミーの受付番号がカウンターに表示された。
(2)
やっとのことで診察室に呼ばれた後も検査予約や説明の度にまた長い時間待たされ、病院を出た時にはもう西日が傾いていた。
急いで警察署に出向き、スマートフォンの紛失届だけは提出したが(紛失による利用停止は昨日の時点で電話会社に連絡して停止済み)、所謂病院疲れに加えて食事も朝食べたきりで(待ち時間に一旦近くの店に出向いたが、昼時の混雑のため入店を断念)、空腹も限界を迎えている。同じく病院疲れで早く帰りたそうなフレッドには悪いが、帰る前にどうしても何か食べたかった。
「お腹が空きすぎてフラフラするから、食べてから帰りたい……」
「わかったよ」
我が儘を言うエイミーが珍しいからか、態度に出さないだけで自分も空腹だからか。フレッドがすんなりと頷いてくれたので、警察署の傍にあるサンドウィッチチェーンのカフェに入店した。
入り口の扉を潜ると、ふわりと鼻先を掠める木の香り、頭上に降り注ぐ暖かな照明の光、黄煉瓦風の壁紙と、自然志向な雰囲気の内装が疲れた心身を僅かに癒してくれる。店内は昼時程混雑しておらず、二人掛けのテーブル席や窓際のカウンター席にぽつぽつと一人、もしくは二人連れの客がまばらに座っていた。
「注文と会計は俺が済ませるから、エイミーは席を取っておいてくれ。いつものお気に入りを頼めばいいか??」
「うん、お願い」
白木の二人掛けテーブルに着席するなり、ぐったりとエイミーは机上に突っ伏した。二週間後に検査、更にその後も。最低でもあと二回病院に行かなければならないと思うと非常に気が重い。
「エイミー、疲れているのは物凄くよく分かる。痛い程分かるが、とりあえず起きてくれ。でなけりゃ、あんたの分まで食べちまうぞ」
「それはダメ!」
素早く顔を上げれば、二人分のサンドウィッチと飲み物のトレーを手に、呆れ顔のフレッドが見下ろしている。
「充分元気じゃないか」
「わっ」
トレーを机上に置くと、フレッドはエイミーのキャスケット帽のつばを無造作に引っ張り下ろす。
「ちょっと!」
ババッと帽子を外して抗議の声を上げる。エイミーとはサイズと色が違うキャスケット帽を外し、フレッドは知らん顔でコーヒーを飲み始めた。もっと文句を言い募りたいところだが、何にも勝る空腹に負けてサンドウィッチに手を付ける。
タルタルソースで和えたザリガニのぶつ切り肉、ルッコラ、レタス、ホーステイルをライ麦パンで挟んだホットサンドは、新鮮な野菜とザリガニの歯ごたえある食感が好きで、この店でのお気に入りメニューだ。
空腹の勢いでかぶりつこうとしたが、口許の傷が引き攣れて思わず顔を顰める。
「大丈夫か??」
「うん、少し傷が痛んだだけ。気にしないで」
フレッドに心配かけまいとエイミーは取り繕うように笑い、今度こそサンドウィッチにかぶりついた。本当は大きく口を開けると痛いし、痛みで好物の味が半減してしまうのが残念でならないが。
痛みを堪えながらサンドウィッチを完食した時には、フレッドはすでに自分の分を食べ終わり、温くなったコーヒーを啜っていた。
「ねぇ」
「なんだよ」
「待ち時間の間、ずっと考えていたことがあるの」
紅茶を一口飲むとエイミーは姿勢を正した。
いつになく改まった固い表情に、フレッドは反問することなく静かに次の言葉を待つ。
深呼吸を一回、二回、三回――、数が増えるごとにエイミーを見つめる薄灰の双眸に不安の影が宿り出す。それでもフレッドは辛抱強く待ち続ける。
店内は仕事帰りと思しき客が増えてきて空席がどんどん埋まっていく。にわかに騒然とし始める中、この席だけは静寂が保たれている。
緊張で舌が縺れそうになりながら、エイミーはゆっくりと話を切り出した。
「顔の怪我が完治したら、両親に会って欲しいの」
あの、冷たくて骨張っているけれど、温かな手が傍にあるのなら。
振り返って、彼らと対話する勇気が持てそうな気がする。
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