第55話 ネヴァー・イズ・ア・プロミス(9)

(1)


『今日は早めに仕事に行ってきます。15時になったらヴィヴィアンに餌を、あと、水が減っていたら足すか、新しいのに交換してください。お願いします』


 リビングのテーブルにメモを書き残し、エイミーは部屋を後にした。メモ書きの傍の卓上デジタル時計は12:30を表示、平素の出勤時間より二時間以上前だ。

 出勤時間まで家にいたところで鬱々した気分が晴れはしない。起きてきたフレッドと顔を合わせれば、益々気分は重くなるだろう

 だから、バブーシュカに出勤する前に買い物に出掛けて気分転換しよう。そう決めたのだ。


 雨と霧に包まれた住宅街を通り過ぎ、最寄りの地下鉄の駅へと向かう。

 この駅は郊外の少し古い路線のため、地下鉄と呼ばれながらも地上を走っている。吹きさらしのプラットホームで電車を待つ間、手袋を嵌めていてさえかじかむ手を擦り合わせ、赤くなった鼻先までストールを引き上げる。コンクリート地面の冷たさがブーツの底から全身に染み渡るようで、自然と爪先立ちしてしまう。

 運行遅延は日常茶飯事だが、凍てつく寒さの時くらい通常運行であって欲しいもの。

 そんなエイミーの願いが届いたのかは分からないが、電車は定刻通り駅に到着した。


 週明け午後の車内、乗客の数は多くもなければ少なくもない。スーツ姿のサラリーマン、学生風の若者、子連れの若い母親、老夫婦等、幅広い層の人々が集まっている。エイミーは最前列車両に乗り込み、ロングシートの端の席に腰を下ろした。

 赤いペンキを塗った手摺に凭れかかり、車内アナウンスを聞き流す。

 これから向かう目的の場所――、お気に入りの服屋へ行くには三駅目で降りて別の路線に乗り換えなければならない。


 窓を叩く雨と流れていく景色をぼんやりと眺める。

 あれから一週間、フレッドは変わらず話し合いたがっている。口に出さずとも、ふとした瞬間に彼のもの言いたげな視線が痛い程突き刺さってくるからだ。

 あえて気付かない振りをし続けるのも限界はあるし、ちゃんと腰を据えて話し合わなければ。逃げずに向き合わなければ。頭では理解しているのに、いざその機会が巡ってくるとつい逃げてしまう。

 そうかと言って、いつまでも逃げていれば二人の間の溝も深まってしまう――、知らず知らず溜め息を吐き出せば、電車が二駅目に近づきつつあることに気付く。考え事に耽る余り、うっかり降り損ねてはいけない、と姿勢を正した時だった。


 後列の車両から突然、バンッ!と大きな爆発音と悲鳴が聞こえると共に火の玉が、エイミーのいる車両にまで飛び込んできた。


 幸いにも、車両の最前方にいたお蔭で火の玉が直接エイミーの身にまで降りかかることはなかったが、同じ車両の後方にいた何人かの身には降りかかってしまった。

 顔や衣服が焼けて泣き叫ぶ声、壁や床に着火し燃え広がっていく炎に、エイミー同様無傷の人々もパニックに陥っていく。

 煙と異臭を吸い込まないようハンカチで鼻と口を抑えると、徐行運転に切り替わった車内に緊急放送が流れ、その内容は乗客全員を更なる恐怖に陥れた。


「車内に爆発物が!」


 乗客は一斉に扉の前へ、我先にと押し寄せていく。

 エイミーもまた、迫りくる炎への恐怖に竦む身体を叱咤して立ち上がり、速やかに扉の近くに移動した。後列車両はすでに真っ赤な炎の壁に囲まれている。この車両に炎の壁が築かれるのも時間の問題だ。一分、三十秒どころか、一秒進むのですら酷く遅く感じてしまう。きっとエイミーだけじゃない、乗客全員がそう感じているだろう。

 恐怖心、焦燥、苛立ちが最高潮に達したかけたところで、電車はやっと駅に到着した。


「逃げろ!!」


 扉が開くと同時に、雪崩のように押し寄せた乗客がプラットホームへ飛び出していく。

 ぎゅうぎゅうと押しつ押されつも、エイミーは車両から無事に降車した。

 だが、降車する乗客の他に、事情を知らずに電車を待つ人達を巻き込み、プラットホーム内でも逃げ惑う人々の悲鳴と怒声が飛び交い、益々混乱を極めていく。

「いたっ!あ……!」

 濁流のような人波に流され、揉み合っている内にエイミーは押し倒されて波の中へと飲み込まれていく。

 起き上がろうとする度に蹴倒され、手や足を踏まれ続ける。頭を庇いながら、咄嗟に目についた太い柱の陰まで文字通り這う這うの体で目指していく。

 柱に辿り着くと下方に蹲り、鞄を胸に抱えて人波が行き過ぎるのをひたすら待ち続けた。


 もしも、この人波の中に爆破実行犯が混じっていたら。新たに駅構内に爆発物を仕掛けていたら。もしくは無差別に銃を発砲、ナイフで切りつけてきたら。

 今にも誰かが自分の髪か襟元を掴んできて、引き摺り倒してくるんじゃないだろうか

 次々と浮かび上がってくる悪い想像、けれど実際起こり得るかもしれない想像に、エイミーは全身の痛みも寒さも忘れ、歯の根が合わない程に震え続けていた。







(2)


 複数のサイレンが止むことなく鳴り続けている。

 黄×黒のポリスラインで封鎖された地下鉄の入り口前には警察車両や消防車両、救急車両が何台も停車し、多くの報道陣や野次馬がラインを囲んでいた。

 顔や身体に火傷を負い、担架で搬送されていく人々を尻目に、エイミーは構内の階段の端に腰を下ろしていた。

 報道記者やカメラを避けるべく、巻いていたストールをアフガン巻きにして髪や顔をすっぽりと覆い隠す。ストールの下のエイミーの顔は打ち傷や擦り傷、痣で赤く腫れ上がり、服もところどころ汚れ、ほつれている箇所もある。

 エイミーの他にも彼女と同じく顔に怪我を負い、途方に暮れた様子で階段に座り込む人が複数いた。

 しかし、彼、もしくは彼女達は皆、途方に暮れながらも、スマートフォンで誰かと連絡を取り合っている。


 今は一体何時だろうか。


『仕事に行けなくなった』と、早急に店へ連絡しなければいけないのに。

『思わぬ事故に巻き込まれたが、とりあえず無事でいる』と、フレッドにも伝えなければならないのに。

 人波に押し潰された時に運悪くスマートフォンを落としてしまった、らしい。傘も電車に置いてきてしまったみたいだ。


 この場に留まる人達の何人かにスマートフォンを借りようとしたが、パニック状態が抜け切れていないせいか、見ず知らずのエイミーが一言話しかけただけで激高したり泣き出されたため、断念せざるを得なかった。

 警察も現場検証で忙しなく動き回っていて、とても「電話を貸して欲しい」と言える空気ではないし、報道記者には安易に近づきたくない。

 人は緊急事態に見舞われた時、その人の本質が顔を出すというが――、エイミーの場合、気弱さ、臆病さが前面に現れてしまっている。


 言い知れぬ不安ばかりが込み上げてきて、涙ぐみそうになるのを堪える。

 泣いたところで状況が好転する訳ではないのだから――、と、洟を啜った時、頭上から聞き覚えのある声が降ってきた。

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