第46話 閑話 シーズ・ソー・ラブリー(5)

(1)

 

 帰りたい、帰りたいの。

 今のあたしはどこにも居場所がないの。


 あの人の望みに従って頑張ってきたのに。

 言葉遣いと訛りの嬌声、食事の作法とか、他にももっと色々と頑張って覚えようとしたのに。

 あたしはあたしなりに、一生懸命頑張ってるのに――、皆があたしを馬鹿にして笑うのよ!


 せめて、あの人との間に子供ができれば、あたしがあの人の妻だってちゃんと皆が認めてくれるんだって、意地悪なんかされなくなるんだって、信じてたのに。

 あの人もそう言ってくれてたから、ずっと、ずっと信じてたのに!


 帰りたい、帰りたいの。

 もう一度、全部やり直したいの。

 もう一度、昔の家族の元へ戻って、全部やり直したいの。

 じゃないと、あたし、あたし――


 









(2)


「奥様、屋敷に戻りましょう」

「イヤよ!あたしは絶対に帰らないわ!!」

「そういう訳にはいきません。それと、以前の訛りが強い言葉遣いはお控え下さい」


 かつてアルフレッド少年が成す術もなく立ち尽くしていた十字路の角で、今度は彼が呆然と見送っていた背中の主が知人らしき初老の男に向かって喚き散らしていた。

 男は、近くの石塀に沿うように停車させたリムジンへ彼女――、アビゲイルを乗せようとしたのだが、アビゲイルは負けじと栗色の髪を振り乱し、滅茶苦茶に両腕を振り回しては抵抗を示した。


 家族の目を盗んで家を飛び出すなんて、かれこれ十六年振りくらいだ。

 あの頃と今では、自分の心境も置かれている状況も全く違うけれども。


 十二時の鐘が鳴っても解けない恋の魔法にかかっていてさえ、あの頃は家に帰りたくないなんて微塵にも思わなかった。

 きっとアビゲイルが無意識下では周囲の人々の庇護の下、愛ゆえに甘やかしてくれていると無意識に理解していたからなのだろう。

 それに引き換え、マクダウェル家に入ってからのアビゲイルは四六時中周囲の厳しすぎる視線に晒され、些細な言動や振る舞い一つで叱責や失笑、または冷笑を浴びせられる日々を過ごしている。


 始めの二、三年は夫のアルフレッドが庇い続けてくれていたし、何より彼に愛されている自信のお蔭で平気でいられた。

 しかし、いつまでたっても上流の生活や人々に馴染めないアビゲイルに業を煮やし始めたアルフレッドの心は次第に離れていった。

 近頃では、彼女が失態を犯しても庇い立てないどころか無言で嘆息してみせるのみ。


 夢から覚めて過酷な現実に晒されたアビゲイルは、昔の生活に戻りたくて仕方がなくなっていた。

 現実から目を背けたい余りに、きっとチェスターは自分がマクダウェル家に馴染めず、いつか戻ってくると信じているし、自分の帰りを待ち続けているに違いない、という希望的観測に縋りたかった。

 なぜなら、チェスターは勝手に家を飛び出しあげく彼との家庭を捨てたアビゲイルを許してくれただけでなく、彼女の幸せすら願ってくれたのだから。

 今の不幸に打ちひしがれるアビゲイルの姿を知ったら、昔と変わらず助けてくれる、と――



 狂ったように腕を振り回すアビゲイルに男は少し躊躇したものの、そこは男と女の力の差。増してや、小柄で人一倍非力なアビゲイルを捕らえることなどいとも容易い。

 すぐに羽交い絞めにされたアビゲイルは、リムジンの助手席に押し込まれた上でシートベルトまできっちり絞められしまった。

 年の割に随分と機敏な男の動きに呆気に取られている隙に、男は助手席の扉を閉め、素早く車体を回り込み反対側の扉を開けて運転席に座った。


「ねぇ、あたし、帰らないってば!お願い、車を停めて!!」

「奥様、危険ですから大人しく座っていただけませんか」


 リムジンが発進しだすとアビゲイルは声と表情に悲壮感を漂わせて、ハンドルを握る運転手の腕に縋りつこうとした。男は左手をハンドルから離し、アビゲイルの腕をそっと押し返す。


「あたし、帰りたくない……」

「本気でオールドマン家にお戻りになるつもりだったのですか??」

「ええ、そうよ!だって、きっとチェスターはあたしを待ってて……」

「……残念ながら、チェスター・オールドマンは先月、再婚しました」

「え……」


 見る見るうちにアビゲイルの顔から血の気が引いていく。アビゲイル自身も頭頂部から順に全身が冷えていくのを嫌でも感じざるを得なかった。革の座席の冷たさが下半身から伝わってくるのも手伝い、寒気すらも覚えてしまう。

 男は憐れみを含んだ目でちらとアビゲイルを一瞥し、数瞬間を置いてから再び口を開く。


「再婚相手の女性はジル・ギャラガー。元モデルで現在は彼が経営する美容院で働いています。年齢は今年で二十八……」

「嘘!嘘よ!!チェスターは、あたしを待ち続け……」

「おかあさま」


 幼子特有の高い声が後部座席から聞こえてきて、アビゲイルは男以外に同乗者がいることに初めて気がついた。

 声の主は、胸元に有名私立小学校の紋章が入った濃紺のブレザー、薄灰×濃灰のチェック柄のプリーツスカート、ブレザーと同じく紋章入りの濃紺のハイソックス姿で、背筋をピンと伸ばして後部座席に座っている。

 褐色がかった栗色の長い髪と瞳、揃いの黒縁眼鏡(アビゲイルがずっと愛用していた赤縁眼鏡は家風にそぐわないからと使用を禁じられた)こそアビゲイルに似ているが、整った顔立ちは父譲り。しかし、まだ六、七歳の年頃にそぐわない、冷たく醒めた眼差しは両親のどちらにも似ていない。


「おとなしくお屋敷に戻ってください」

「サスキアが……、スペイシー初老の男さんに話したの……??」

「はい。おかあさまが、わたしとおとうさまを置いて、お屋敷を出ていくのを見たって。スペイシーさんだけじゃないの、おとうさまにもおはなししたから」

「そんな……!」

 後部座席に向けた顔を更に青褪めさせていくアビゲイルに、サスキアは表情一つ変えず淡々と事実だけを述べていく。

「ひどい、ひどいわ!サスキア、あなたは何てひどい子なの!!」


 アビゲイルはサスキアを恨みがましく睨み付けると、あああ……と何度も頭を振っては我が身の不幸にどっぷりと酔いしれていく。

 サスキアの人形のような顔が一瞬、苦しげに歪んだことなど当然見てもいなかった。

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