第36話 アバウト・ア・ガール(3)

(1)


 演奏を終えて間もなく、青年は雨が降りしきる中、バブーシュカを後にした。残されたフレッドは元いた席へ、ゲイリーとエイミーもカウンター内に戻っていく。


「エイミーも何かってみれば??」

「え、私??うーん、でもなぁ」

「大丈夫だって、今なら俺とフレッドだけしかいないし。それにさ、いつも言ってるけど、エイミーは歌も鍵盤も自分で言う程下手じゃないぞ、なぁ??」 


 何でいちいち俺に振るんだよ、と内心舌打ちしつつ、「別にオープンマイクで演る分にはいいんじゃないか??」とだけ言っておく。

 我ながら素っ気ない気もするが正直反応に困るし、他に何と言えばいいというのか。


 エイミーは鍵盤で弾き語りするのだが、ほろ酔い状態で気が緩みきっている時以外、人前ではなかなか演奏しようとしない。

 本人が乗り気でない以上、余りしつこく言うのもどうかと思うが、少々強引な質のゲイリーは「じゃ、俺、卓の方行くわ」と、エイミーの返事を待たずに音響卓の方へ行ってしまった。


「ちょっと、ゲイリーさん!私、まだやるって……」

 言ってないのに……、と、言葉を尻すぼみにさせながら、エイミーは小さく肩を落とす。

「ステージに立つと緊張するから嫌なのか」

「嫌って訳じゃないけど……」

 エイミーはフレッドではなく、カウンターの天板に視線を落としながらぽつりと呟く。

「……歌もピアノも好きだけど私には才能ないから。妹と違ってコンクールに入賞したこととか一度もないし、人前で演奏していいレベルなのか……」

「妹??」


 フレッドの問いにエイミーはしまった、と一瞬だけ言葉を詰まらせたが、すぐに「うん、双子の妹がいるの。双子って言っても二卵性だから私と全然似てないけどね」と、答えてくれた。


「妹はね、チビの私と違って背がスラッと高くて、地元でも評判の金髪美人なの」

「へぇ」

「ピアノだけじゃなくて勉強もスポーツもできて、チアリーディングとかボランティアやってたりして凄く活動的で……、皆に優しくて気配りも出来る、自慢の妹なの……、あ、いらっしゃ……」


 視線をカウンターに落としたままだったせいか、激しい雨の音で扉が開く音を聞き逃してしまったのか。

 新たな客がまた一人来店したことに、エイミーはすぐに気付けなかった。エイミーの話に集中して耳を傾けていたフレッドも同様に。

 しかし、新たな客の顔を見た途端、エイミーの青白い顔は益々青くなり、フレッドに至っては露骨に眉を顰めた。


「どもども、ゲイリーさん!おひさしぶりっすー!今夜はひっどい降りっすよねぇ!」


 彼が床を歩くごとに、スニーカーの靴底がキュッキュッと鳴るのがひどく耳障りで不快だ。

 日に焼けた浅黒い肌、若い割にやや小太りに近い体型。全体的によれて皺が目立つネルシャツにくたびれたジーンズと、格好こそ冴えないが、人を食ったような不遜な笑顔。


「おぉ、ブノワじゃん!久しぶり!!いつ帰国したんだよ?!」

「ふっふっふ、そいつはぁ、ひみつー、ですよぉ??」

「何だそりゃ、訳分からんノリは相変わらずだなぁ。最後にここに来たのは二年前だったっけ」

「でしたっけぇ??僕、あんまり覚えてないっすけどぉ、ふと思い立ってひっさびさにバブーシュカ寄ろっかなぁ、と思ってー」


 苦虫を噛み潰した顔のフレッドとは対照的に、ゲイリーはブノワと軽口を叩き合っている。

 先程、ベーシストの青年に感じたものの比ではない、こめかみに血管が浮きそうなくらい強い苛立ちをどう抑えるか。気を落ち着かせるため、二杯目を注文しようとした、が。


「エイミー??」

「…………」

 まるで身を隠すかのように、エイミーはカウンター内の床にしゃがみ込んでいる。

「あんた、何やって」

「……シーッ!」

「…………」

「……ちょっとしばらくの間、厨房の片付けしてくるから。悪いけど、注文はゲイリーさんにお願いします」


 そう言い残すと、エイミーはしゃがんだままカウンターの奥に続く厨房へと移動してしまった。

 接客業にあるまじき態度の数々にフレッドはすっかり閉口したが、普段は明るく真面目に仕事に打ち込むエイミーのこと。余程の理由があってのことなのか。


「おーい、エイミー。ブノワにギネス・ビールを……」

「……エイミーなら厨房の片付けの最中だ」

「えぇ?!そっか、じゃ、俺がやるよ」

 ゲイリーは特に気を悪くする風でもなく、カウンターに戻ってブノワのビールを用意し始める。

「エイミー……さんって、ここに立ってた赤毛の娘っすかぁ??アッ!どもども、フレッドさん、おひさしぶりっす!!いやー、久々に会ったのにぃ、相変わらず超―っ、男前っすよね!」

「……そりゃどうも」


 あろうことか、ブノワはカウンター席へ、それもわざわざフレッドの隣の席に腰を下ろした。二年前、散々迷惑かけておきながら、どの面下げてへらへらと話しかけてくるんだ。


「にしてもぉー、赤毛のエイミーさん!チラッと見ただけだけど、いいっすねぇー、カワイイっすねぇー」

「おいおい、帰国早々、もう女の尻追っかける気かよ。エイミーはダメだぞー、うちの大事な看板娘だからな。お前みたいにふらふらしている奴にはやれん」


 フレッドの煮えくり返る肚の内を察したか、エイミーを守るためか。おそらく両方だが、ジョッキを受け渡しつつゲイリーがやんわりとブノワに釘を刺した。


「やだなぁ、ゲイリーさんオヤジくさいすっよ??それに、僕、カワイイって言っただけで、別に口説こうとか思ってないしぃー」


 ブノワはゲイリーの忠告をひらひらと手を振って笑い飛ばしたが、だらしない笑みに紛れて粘着質な視線を厨房に注いでいた。


「んじゃ、また改めてー、しくよろーっす」

「……」


 二杯目のグラスをゲイリーから受け取った横から、ブノワは中身が三分の一程減ったビールジョッキを押し当て、勝手に乾杯してきた。ガラスとガラスがぶつかり合う、冷たく硬質な音がやけに大きく響き、フレッドの機嫌を益々傾けさせる。

 フレッドの不機嫌さを知ってか知らずか、もしくは知った上でわざとやっているのか。残り三分の二をぐいぐい飲み干すと、ブノワはダンッ!と勢い良くジョッキの底を叩きつけるようにカウンターに置き、席を立った。


「ゲイリーさーん、また来ますー」

「あれ、もう帰るのかよ?!」

「えぇ、まぁ、今日はちょっと顔出したかっただけなんでー」

「帰る前に一曲弾いてかないか??」

「へへ、今日はちょっと、やめときますわぁ。僕の超絶スーパーギターテクは今度来た時に披露しますからぁ」


 名残惜しげなゲイリーに飲み代とチップを、「あと、赤毛のエイミーさんの♪」と彼女の分のチップを置いて、「また来まっす」と言って、ブノワは雨の中へと消えていった。




(2)


 ブノワが帰ったのを見計らうかのように、エイミーが厨房からそろそろと顔を出し、カウンターへ戻ってくる。


「エイミー、これ、さっきの客から」

「私に……??何にもしてないから受け取れないけど。ゲイリーさんが取っておいたら??」 


 チップを手渡そうとするゲイリーの腕をエイミーはそっと押し返す。ゲイリーは怪訝な顔をしたものの、特に何も言わずに小銭を自分のズボンのポケットに押し込んだ。

 二人の応酬を眺めていたフレッドの中で、エイミーへのある疑惑が浮上する。けれど、彼女と二人きりにでもならない限りは口に出すのが憚られる内容だし、いざ聞くにしても慎重に言葉を選ばなければ。

 ゲイリーがほんの少しでもこの場から離れる機会を窺ってみるが、そういう時に限ってチャンスは全く巡ってこない。時間ばかりが刻一刻と過ぎ、雨は未だ止む気配がない。


「あーあ、この分だと今夜はもう客は来ないかもしれないなぁ」


 壁時計の秒針はもうすぐ一〇時一五分を指そうとしていた。ブノワが来て以降、新しい客は誰も来ない。

 いくら週初めの雨降りの夜とはいえ、バブーシュカにこれだけ客が来ないのも珍しい。


「エイミー、今日はもう上がっていいぞ。この分なら俺一人で片付けしてもすぐに終わるから」

「え、でも」

「タイムカードは俺が押しておくし、メアリにも明日俺の方から説明しておくから」

「いいんですか??」

「まぁ、何とかなるだろ」

 エイミーはうーん、と小さく唸ってしばらく考え込んでいたが、やがて「ん、わかったわ……」と頷いた。


「俺もそろそろ帰るか」


 飲みかけだった四杯目のグラスを一気に煽り、空いたグラスとエイミーへのチップを置いて席を立ち、支払いを済ませる。エイミーから話を聞き出すのはまた今度、別に今日じゃなくてもいいだろう。


 外に出て雨量を確かめれば、霧雨が髪に、鼻先にポツポツ、ポツポツと落ちてくる。帰る前に一服、と、店の軒下でジャケットの内ポケットから煙草の箱を取り出し、一本咥える。

 煙草と共に箱から出したライターで点火、しようとするが、何度試しても上手く点火してくれない。イライラと煙草を軽く噛んでは何度も点火を試みていると、突然、ボッと炎が上がった。炎は煙草には着火せず、ほんの一部分だけだが前髪を焦がした。

 雨降り独特の埃っぽい臭いに加えて、焦げ臭くて嫌な臭いがフレッドの周辺を漂う。焦げて白く縮んだ毛先を指で撮み、咥えていた煙草に再び火を点けることなく灰皿スタンドに放り込んだ時だった。


 バブーシュカの裏口に当たる場所、雑居ビル一階の非常扉付近で、エイミーのかすかな悲鳴が耳に飛び込んできたのだ。







(2)


 考えるよりも先に身体が動き出す。

 急いで店を回り込んだフレッドの目に信じ難い光景が――


 エイミーの傘は開いたまま歩道に転がっていた。

 黒い傘を差した男が、非常扉の前でエイミーの腕をがっちりと掴んでは自らの方に引き寄せようとしている。

 エイミーも引っ張られまいと腰を低く落として踏ん張り、尚且つ必死に腕を振り払おうとするが、男の力相手ではびくともしない。


「嫌っ!離して!!」

「ダーメダメ!オッケーって言ってくれるまでー、離さなーい」


 男の声を聞いた途端、カッと頭に血が、それも全身の血が物凄い勢いで上っていく。


「私はもう、あなたなんか好きじゃない……!つきまとわないで!!」

「お前さぁ、オレにそんな口利いていいわけぇ??アレ、バラしちゃうぜ……って、うわ、いてててて!!!!」

「エイミーから手を離せ、今すぐにだ!」


 男――、ブノワの背後から傘を差している方の腕を思いきり捻り上げる。投げ出された黒い傘が歩道に転がり落ちていく。

 フレッドに一喝されても尚、ブノワはふへへへ……と、にやけていたが、栗色の双眸には彼への畏れが強く滲みでていた。


 ブノワは素直にエイミーの腕を離し、フレッドもまた捩じり上げていた腕を乱暴に放り出す。

 バランスを崩して濡れた歩道に尻餅をつくブノワに構わず、フレッドは青褪めた顔でぶるぶる震えるエイミーとの間に割り入る。これ以上、エイミーをブノワの歪んだ視線に晒したくなかった。


「なんだよ、エイミー。もしかしてさぁ、こいつとデキてんのぉー??」

「え、ちが」

「なるほどねぇー、だったら、オレなんかもう、どうでもいいよなぁー」

「だから、ちが」

「でも、こいつも相当遊んでるぜ??」


 拗ねたように唇を尖らせ、フレッドをこいつ呼ばわりしてくる厚顔さ。最早怒りを通り越し、呆れ果てるより他がない。

 投げかける言葉が見つからない代わりにわざと大きく舌打ちすれば、エイミーの肩がびくりと跳ねる。しまった、怯えさせてしまったと後悔する傍で、ブノワは素知らぬ顔でさっと立ち上がった。


「げ、くっそ、パンツまで濡れちまったじゃん!ま、いーや。邪魔者は退散しますよっとー」

 ブノワは濡れた尻を抑えて傘を拾い上げると、くるっと二人に背を向ける。

「おい、待て」

「イヤですよ、ま、せーぜー仲良くすればぁ??」

「だから、待てって……!」

「あ、そうだ!エイミーの初めての男、僕なんでー」


 勝ち誇った顔でこちらを振り返っての捨て台詞は、フレッドがエイミーに抱いていた疑惑、『エイミーのトラウマの元となった恋人=ブノワでは??』を、証明してしまった。  

 否、ブノワだけじゃない。

 フレッドの背後でも、エイミーが顔だけでなく耳や首筋まで真っ赤にさせ、顔を覆って何度も頭を振っていた。


『三年も前にちょっと付き合っただけの女に今更未練たらたらになってて!!連絡したけど無視されたあげく、SNSで速攻ブロックされたんだって!!』


 昨夜、シエナが面白可笑しく語っていた話がふと過ぎり、心がしんと冷えていく。

 さりげなく逃げ出すブノワを追いかけなくてはと思うのに、それ以上に恐怖と羞恥に打ちのめされたエイミーを放っておけなかった。


「フレッド、一体何が……」

「……今頃気づいたのかよ……」


 非常扉の重たい扉が開き、心配そうに扉の影から顔を出したゲイリーについ毒づいてしまう。彼を責めるのは筋違いだと分かっているが、もう一足早く来てくれれば、ブノワをこの場に留め置けられたのに。


「ゲイリー、片付けてる最中悪いんだが……、エイミーと俺を店に入れてくれないか。少し、話がある」

「あぁ……、それは構わないけど」

 エイミーの傘を拾い上げ、閉じ直してから彼女に差し出せば、色違いの目がおどおどと見上げてくる。

「……言いたくないことは無理して言わなくてもいいけど」

「…………」

「付き纏われて困ってることは正直に話した方がいいと思う」

「…………うん…………」

「とりあえず店に戻ろう。話はそれからだ」


 差し出した傘をエイミーがおずおずと受け取ると、フレッドは空いている方の手を取って入口へと引っ張っていく。

 よくよく考えれば男への恐怖心に駆られる女性に対して軽率且つ、無神経だったかもしれない。だが、この時のフレッドにほぼ無意識のうちに行動していた。

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