第23話 シーズ・ソー・クール(20)

 風呂上りのジルの姿に、見てはいけないものを見てしまったかのように、チェスターは気まずげに視線を泳がせた。


「……何しに来たんですか」

「ジルさんに話したいことがあってですね……」

「話したい事??」

「あぁ、でも、ちょっと間が悪かったみたいだし、また今度でー……」


 そう言ってチェスターは立ち去ろうとしたが、ジルはシャツの袖口を掴んで引き止めていた。

 驚いて目を丸くするチェスターに、「あと一〇分。一〇分だけ待てるなら、話を聞くだけ聞きますけど」と告げる。


 約束通り一〇分後、身支度を整えたジルは、玄関前の外廊下で待っていたチェスターとアパートを後にした。立ち話も何だから部屋に上がれというジルに、チェスターが頑なに拒否したからだ。

 とりあえずアパートの近くのカフェにでも行こうかと思ったが、喫煙席は屋外のテラス席。通行人が行き交う中で込み入った話はし辛い。

 考えた結果、アパートから少し距離はあるけれど、図書館に隣接する例の公園に向かうことにした。あそこなら人は少ないし灰皿スタンドもあるからだ。

『今日は休みだから時間はたっぷりある』とチェスターも快諾してくれたので、散歩も兼ねて二人連れ立って歩き出す。公園へ向かう途中で見つけたポストに、書類の封筒を投函するのも忘れなかった。


「……で、話って何ですか??」

 奥の木陰のベンチに腰掛け、ジルはやや不機嫌を装って煙草に火を点けた。同じく、隣に座ったチェスターも煙草に火を点けていた。

「まずは……、母がジルさんに言ったことや俺が事実を隠していたことを謝りたくてですねー……」

「あぁ……、別に……、もう、気にしてませんよ」


 半分は本当だが、もう半分は――、嘘だ。

 アガサが先走ってしまったことは、今ではもう気にしていないのは本当だが――


「誰だって他人ひとに、例え親しい人や家族にだって言えないことの一つや二つ、あるんじゃないですか。逆に、私がそれを知ってしまったことの方が悪いな、と思ってるくらいですけど」

「あぁ、まぁ……、でも、結局、人に言えないことはするもんじゃない、と……、身に染みましたけどね」


 チェスターは煙草を灰皿に押し付けると、改まった顔付きでジルと向き合った。


「実は……、貴女のところへ行く前……、アビーに……、アビゲイルと会ってきたんです……。あいつには今、生まれたばかりの娘がいるらしくて……、勿論、俺じゃなくてあっちの子で――」

「………………」

「やり方はともかくとして、あいつが自分なりに幸せ掴んだんだって、ようやく悟ったんです。だから、離婚届にサインを」

「…………バッッッッカじゃないの?!何格好つけてんのよ!!貴方、いつもいつも人の心配ばっかりして!少しは自分の気持ちに正直になりなさいよ!!」


 気付くとジルはチェスターを全力で罵倒していた。

 彼を責めても仕方ないだろう、と冷静に諭す自分がいる一方、それ以上に、抱え続けていた思いをぶちまけてしまいたい自分が上回っていた。


「本当は、奥さんにだって言いたいことがもっと沢山あるんじゃないの?!我慢ばかりしてないで、文句の一つでも言えば良かったじゃない!たまには誰かを傷つけたっていいじゃない!!」


 頭の中がグチャグチャになりすぎて、自分でも何を言っているのか、もう訳が分からない。

 チェスターは唖然としたまま言い返すことができないでいたが、ジルの勢いが一旦止まると軽く咳払いし、重い口を開いた。


「……会う前は、あいつに文句の一つでも言ってやろうかと思ったけど……、……やめた。あいつの幸せそうな顔を曇らせたくなかったんですよ」

「…………どこまでお人好しなのよ…………」

「我ながら、大馬鹿者だとは思いますよー??でも、これが俺の性分なんでねぇ」


 肩を竦めてみせるチェスターの顔は憑き物が落ちたようにすっきりしている、ように見える。

 一年以上掛かってようやく、チェスターはアビゲイルを待つことを止め、自分の気持ちに見切りをつけることにしたのだ。


「……そう。じゃあ、とっとと新しい相手探したら。貴方ならダースで出来るんじゃない??」

「そんな体力と精神力と経済力がある訳ないでしょうー??一人で充分ですって」

「貴方は何でもかんでも抱え込もうとするから、一人で支えるのは苦労しそうだもの」

「じゃあ、貴女が支えてくださいよ」


 まるで軽い冗談を言うように、しかし、確かにチェスターはジルに、そう告げた。


「冗談は抜きにして」

「…………」

「今日、バツが付いたばかりで切り替わりが早すぎるでしょうけど」

「………………」

「俺は真剣に……」

「バッカじゃないの?!」

 チェスターが言葉を重ねるごとに俯いていく顔を、無理矢理勢い良く上げる。

「何、無理してんのよ。まだ奥さんのこと、完全に吹っ切れてない癖に」


 ジルはチェスターをきつく睨みながら、陽の光に透けて輝く蜂蜜色の髪を一房掴み、軽く引っ張った。思いの外力が強かったようで、チェスターは鼻先を顰めた。


「奥さんのこと、引きずりたければ一生引きずっていてもいいわよ。髪だって、一生長いままでも構わない。……私で良ければ、そんな未練がましい貴方ごと引き受けてやるわよ。……でも、今すぐはダメ。少しだけ、待っていて欲しい」

「待つ??」


 ここで何かを思い出し、チェスターは、あぁ……、と、納得の声を上げる。


「専属モデルの誘いを断ってでもやりたいこと、のため??」


 あのデザイナー氏の誘いを、ジルはその場ではっきり断っていた。

『モデルの他にやりたいことを見つけたから』と。


「もしかして、さっきポストに投函した手紙が関係ある――とか」

 チェスターの問いに、ジルは無言で頷く。

「……ショーの役に立つかもって、軽い気持ちで勉強し始めただけだったけど……、本格的にヘアメイクの勉強をしたくなってきたのよ。そろそろ、何か手に職つけて違う生き方をしたいって思ってたし……、専門の学校通うために資料取り寄せようかなって」

「なるほどねぇー」

 ジルは掴んでいた髪を放してチェスターからぷいっと顔を逸らした。

「いいんじゃない??ジルさん、まだ若いんだし、色んなことに挑戦してみれば??俺、こう見えても気はかなり長いから、待てと言われればいくらでも待ちますけどー??……と、いうか、むしろ俺みたいなオッサン、しかもバツ持ち、二人のコブツキ、複雑な血縁関係有りで本当にいいわけ……」

「それでも構わないから待てって言ってるでしょ」

「……はい、すみません……」


 物凄い形相で睨んでくるジルにチェスターは首を竦めたが、すぐに、もう我慢できないとばかりに吹き出した。


「……ジルさん、やっぱり格好いいですよねぇ。俺には勿体ないくらいだ」


 遂に、声を上げて笑い出したチェスターを睨み続けながらも、これからはこういう笑顔が増えて欲しい――、ジルは密かにそう願ったのだった。

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