君を描こう

 六月。梅雨に入るこの時期特有の湿気をふんだんに含んだ香り、熱帯雨林の中に充満していそうな匂いが鼻に付く度に私の心の不快指数は上昇していく。雨は嫌いじゃないが、まとわりつくようで鬱陶しいこの空気はどうにも好きになれない。ムシムシとした暑さがさらに私のイライラを倍増させる。髪が汗をかいた頭皮にペタペタとくっつく感触が実に不愉快だった。

 もっとも、私が今汗を流しているのは気温だけが原因ではないのだが。

 いつもなら一人マイペースに歩む講義棟までの道を、今日の私は足早に進んでいる。運動不足の身体は小さく悲鳴をあげ、ふくらはぎの辺りが熱を帯びているが、私はそれでも早歩きをやめない。

 理由は主に二つ。

 一つは時間的にあまり猶予がないこと。講義が始まるまであとどのくらいかは知らないが、いずれにせよ悠長に歩いて間に合うほどは残ってない。

 だがまあこんなものは大した要因ではない。数分遅れならば、別に痛手にもなりはしないのだから。

 私が身体に鞭打ってまで歩くのは、むしろもう一つの理由によるところが大きい。

 その理由とは、私が現在手を引いている彼女だ。小さな手は女性的な柔らかさを帯びていて気持ちいいが、今はあまり堪能する余裕もない。

 私はつい数分前、友達にしつこく絡まれ困っていた彼女の前に颯爽と現れてその友達を撃退、姫を助ける勇者のごとく彼女の手を取ったのだ。・・・嘘だ。本当はもっと格好よくない強引なやり口、私がもし男だったら学生相談センターに駆け込まれてもおかしくないやり方で彼女を無理やり連れ去ってきた。思い返してから情けない姿だと思う。

 振り返って私に大人しく手を引かれる彼女を見ると、彼女は顔を地面と平行、とまではいかないが大分俯けて歩いていた。靴しか見えてないようなその体勢を維持するあたり、私のリードを信頼してくれているのだろうか。分からない。さっきから無言で、私からも特に何も話しかけていないので空気が重い。だから湿気は嫌いなのだ。

 思わずため息が出そうになった。何で私はこんなことをしているのだろう。そして、何であんなことをしてしまったんだろう。

 自分から人には関わらない。

 つい二ヶ月前に立てたばかりの目標を早々に放棄した自身の振る舞いに名付けられない感情が渦巻く。自分で自分が分からないという経験は随分久しぶりに味わった。

 もう一度ちらっと後ろに視線を飛ばし、彼女のつむじを見る。彼女との関わりも薄っぺらなその場かぎりのものになると思っていたし、そうするつもりだったというのに一体何故私は関わってしまったのだろう。

 講義棟までの短くて長い時間、私は四月から始まった自身の大学生活、そして彼女との付き合いを見直してみることにした。きっとそうすることに大した意味はないけど。




 彼女を初めて見たのは大学一年生の四月だった。同学年で同学部だったので必然的に参加するイベントも同じようなものになった。彼女は皆の中心で音頭をとったりすることができるような快活な人間に見えた。だから、端でチビチビジ一人料理をつまんでいた私でも、顔と名前はしっかり記憶に残っていた。


 彼女と本格的に関わるようになったのは五月中旬、大学内にはすっかり五月病菌が蔓延し、自主的自宅謹慎に勤しむ学生がぞわぞわ出始めた頃のことだった。私は授業料がもったいなかったので、常に講義には真面目に出ていた。幾らかは私自身の#仕事__・__#やら何やらで稼いだ分から出していても、親から出してもらってる部分も多い。私大に通わせってもらってる以上、あまり無駄にしたくなかったのだ。

 そんなモチベーションで出席していた一般教養科目の講義のときに、彼女は話しかけてきた。すごく自然に「横、いい?」と聞かれてしまえばノーとは言えないのが日本人感性である。彼女の近くには以前見かけたときに一緒にいた女子数名は誰一人としていなかった。その事について軽く聞いてみると、

 「みんな遊びにいってるの。講義なんて真面目に受けなくても卒業できるからって」

 彼女とは講義が始まるまで世間話やら大学の雰囲気についてやらを話した。もっとパーリーピーポーな感じなのかと思っていたが、こうして話してみると理知的というか、案外鋭い観察眼を彼女は持っていた。それに話好きではあるのだろうが、講義の間は黙々と板書していた。このときから私の彼女に対する評価は変わり、私は彼女と徐々に関わるようになった。


 五月の終わり頃には五月病患者向けのワクチンでも開発されるのか、講義にも人の活気が戻ってきた。私はざわざわと騒ぐ集団やあの空気感があまり好きではないので、正直少し嫌だった。そして、それはどうやら彼女も同じだったらしい。関わるようになってから二週間弱ではあったが、それでも彼女の人となりは何となく掴めてきた。

 まず、真面目な性格だ。一緒にご飯を食べるとき、必ずいただきます、ご馳走さまを言うし、私にも言うことを推奨してくる。おかげで今ではすっかり食林寺で生きていけるぐらい食材に感謝を込めるようになった。オンオフに関わらず、しっかりした気性で、タイムスケジュールとかもある程度組んで行動していた。

 次に、世話焼きだ。うすうす感づいてはいたが、やはり彼女が私に声をかけたのにはいつも一人で行動している私を気遣った面があったらしい。大きなお世話だと言いたいが、実際ボッチであったことは否定できない。食事をあまりとらない私を見かねておにぎりを買ってくることもあったし、私のノートを見てアドバイスをくれることもあった。ともすればお母さんのようなうざさではあったが、それはどうやら彼女なりの好意と厚意らしい。

 最後に、多分何かしらの目標を持っている、と思われた。予想の域をでない推測ではあったが講義、というよりも学業全般に対する態度がモラトリアムを求めて進学する人間とは明らかに違っていた。それに、普通の大学生よりは明らかにバイトをいれていた。普通が分からないので何とも言えないが、私から見てもやや働きすぎな気はしていた。


 そんな風に彼女を少し理解した今日この頃に、ちょっとした事件が起こった。

 私が例のごとく一人でキャンパス内を歩いているとき、前方に女子数名を捉えた。その中には彼女もいた。いつものようにかしましく話しているのだろうと思いそのまま横を素通りしようと思ったが、近づくにつれていつもとやや違う空気を肌で感じた。女子群団がおしゃべりしていると言うよりは、彼女とそのお友だちが話していると言うべき雰囲気を放っていた。聞き耳を立てながらすれ違うと、「いいじゃん、行こうよ」「いやこれから講義だから。それに今月ちょっと厳しいし、私は遠慮しとくよ」というやり取りが聞こえた。どうやら友達が彼女を半ば強引にどこかに遊びにつれていこうとしているらしかった。彼女も断りたいのだろうが、相手に気を使っているのかやや返答が断定的ではない。主張が平行線をたどり、妥協も合意もできないままいたずらに時間を浪費しているのだろう。お互いの声にはやや緊張感のようなものすらはらまれている気がした。

 私は逡巡したのちに無意識で動かしていた足を止め、そして百八十度方向転換。そのまま彼女の元へと歩を進めた。依然勧誘と拒否は交点を見つけられていないらしい。


 柄じゃない。本当に柄じゃないことをしようとしている。

 こんな形で他人に関わろうとするなんて、きっと昔の私が見たら嘆くだろう。

 だが仕方がない。

 困った彼女を放ってはおけない。

 彼女には一方的に押しつけられたが、貸しがある。

 ならこの機会で返済させてもらうことにしよう。

 ・・・それに、

 あんな学の無さそうな輩と彼女がいるのはどうにも不愉快だ。


 私は彼女を含んだ女子数名の中に割り込み「すいません。ちょっとこの子に用事あるんで」告げながら彼女の手をつかみ、一方的に引っ張っていく。

 「はっ、いやあんた急になに?っていうかそもそも誰?」

 「えっ、ちょっ、ちょっと待って待って」

 不快を表す女どもの声も、動揺する彼女の声も一律に無視し私は大股で歩いていく。彼女にまとわりついた粘着質な何かを振りきるように出口を目指す。彼女の意向を全く考慮していないが、とりあえずこの場から早期撤退するのが今は優先だ。

 彼女はまだ戸惑っているようだが、それでも抵抗したり暴れたりはせずに私の歩調に合わせてついてきてくれた。助かる。ここでやめてとか叫ばれたら私は二度とこのキャンパスを平穏に歩くことができない。


 私はそんなこんなで彼女の手を引っ張って、現在彼女の講義のある講義棟までの道を足早に進んでいるのだった。


 回想に耽っている内に、いつの間にか随分と移動していたらしい。彼女がこの後受けるであろう講義が行われる部屋の前に私と彼女は立っていた。繋いでいた手を離し、私は彼女と一歩距離をとる。一応時間は大丈夫だと思ったが念のため確認すると、・・問題なさそうだ。後三分ちょっとある。おまけに次の講義の教授は遅刻癖で有名だ。とりあえず彼女の学びへの影響を避けられたことに安堵する。

 彼女は無言だった。ここに来るまでもそうだったが、今こうして向かい合っていてもなお無言だ。下を向いていて、言うべき言葉を探しているように見える。


 ・・・駄目だな、私は。

 私の都合で勝手に助けたのに、その結果彼女を困らせている。優しい彼女はきっとありがとうかごめんなさいを告げる。本当の気持ちをなにも告げずに多分この場を丸く、上手く誤魔化そうとする。

 ・・・駄目だな、私は。

 今までの私らしくないことをしたのなら、最後までそれを貫くべきだろう。

 人に自分から関わったのなら、最後まで相手を求め続けるべきだろう。

 さあ、覚悟と勇気を今振り絞れ。時間は刻一刻と進んでいるのだ。


 「あのっ!」

 発した一言目は震えていたのだろうか。彼女はビクッと反応し、私を恐る恐る見上げた。戸惑ったようなその仕草が、表情が愛おしく思える。守ってあげたいなんて、柄ではないけれど。そもそも今現在彼女を怯えさせているのは私だ。

 「講義・・・終わるまで待ってる。・・だから、その後お茶でもしない?」

 言った。初めて人をどこかに誘った。あまりの緊張で足から力が抜けていくのを感じる。よく分からないけど目から何かがこぼれそうだった。駆け抜ける羞恥に体温を上げられ、今度は私が下を向く。

 長かった。体感時間は軽く一時間を超えている。精神と時の部屋に連れてこられたような気分を味わうことおよそ数秒、

 「うん、わかった」

 彼女はそう返事した。顔を向けることができないので表情は分からないが、少なくとも声音はそんなに怖くない。

 オーケー、してくれたのだろうか。本当に?

 「それじゃあ、また講義終わった後に」

 彼女はそう続けて、それから数秒後にドアの開閉音。くつがドアに吸い込まれていく様子を私は見届け、そして近くのテーブルに腰を掛けてから頭を突っ伏した。

 行ってしまった。そして言ってしまった。

 数分前からの己が行動を振り返り、込み上げてくる恥ずかしさにオーバーヒート。味わったことのない種々の感情が形を求めて酸っぱい液体と共に喉を競り上がるのを感じた。・・・気持ち悪い。

 そもそも彼女の承諾は本物なのだろうか。彼女がとりあえずその場しのぎで言った可能性は大いにあるし、私が幻聴を聞いている可能性も考えられる。出てきた彼女に(うわーこいつほんとに待ってた)みたいな視線を向けられたらどうしよう。不安に襲われて、思わずこの場を離れたくなった。とはいえ私から誘った以上逃亡の一手は私には使えない。

 周りを軽く見回しても、あの女どもは影すらなかった。助かる。彼女の出待ちをしているところを絡まれたら今度こそ逃げられないし、結局彼女と女どもを分断できない。そうなると、私のささやかな勇気が意味をなさなくなってしまう。私は行動には結果がほしいのだ。背負ったリスクと労力に見合うだけの結果が。

 右見て左見て、最後にもっかい右を見る。昔懐かしい安全確認を済ませたあと私は時計を確認した。彼女が出てくるまでには一時間以上ある。

 一時間かぁ。

 ただ待つにしては長すぎるが、#仕事__・__#をするにはやや足りない気もする。だが彼女と話すのなら、今後も付き合っていくのなら、#仕事__・__#の話は多分有効だ。

 とりあえずやってみますかね。ここまできたら出し惜しみする方がもったいないし。

 そう思ってから私は荷物の少ない鞄に手を突っ込み、お目当てのモノを取り出したのだった。


 ざわざわという騒音を引き連れた集団が扉から吐き出されたのを耳で捉えると同時に、私の心臓は急勾配の坂を上り始めた。忘れていた不安が激しい主張を始める。学校へ行こうじゃないのだからもう少し大人しくしていてほしい。私はできる限り落ち着いて机の上に広げたものを鞄へと入れていった。人にはあまり不躾に見ら「あっ、本当に待っててくれてたんだ」れたくない。

 えっ!?

 顔を上げると彼女が視界に写る。驚きと微笑みと戸惑いを足して三で割ったような表情をしていた。どんな表情だそれ。パニックになりそうな頭を強引に落ち着かせようと努力するも効果はない。

 「大丈夫?気分よくなさそうだけど。話しかけない方が良かった?」

 「・・・いや、大丈夫。うん、問題ない。それじゃあ行こうか、うん」

 心音をけたましく感じる程度には動揺していたし、正直彼女を見てからかなり酸欠気味だか、ここで逃げるわけにはいかない。準備は整っているのだ。なら、後はそれを存分に活かすだけだ。

 「そう、じゃあ別にいいけど・・・、どこでお茶する予定なの?」

 「あぁ、それは・・・・・・」

 ヤバッ、考えてなかった。いつもどこかに行くときは、集団の後ろにひっそりいて言われるがままに付いていく役だったからな、私。悲しい習慣というか、習性が目的地を自分で決めることを完全に忘れさせていた。・・・しまったな。

 「えっと、・・どこか行きたい場所とかある?」

 「あれ、考えてないの?そっちから誘ってきたからてっきり・・」

 「・・・面目ない・・」

 何してるんだ、私。何が準備は整っているだ。段取りをいろいろ間違えているだろう。いやそもそも初めの一歩を踏めてすらいないじゃないか。自分の無能っぷりに嫌気がさし、それに伴って気持ち悪さが再来する。久しぶりに味わった感覚は実に最悪なものだ。

 「あはは、決めてないんだ。」

 情けない醜態をさらし、悲嘆にくれている私とは対称的に、彼女は何が面白いのか笑っていた。嗤っていたわけではないと思う。思いたいというべきかな。

 彼女はひとしきり笑ったあと、何かを納得し、そして租借するような仕草をしてから

 「うんうん、仕方ないよね。それじゃあ私行きたいところあるから付き合ってもらっていい?」

 そう申し出てくれた。私からすればありがたいことこの上ない提案だ。一も二もなく返事する。あまりに前のめりすぎて発声できずに首だけで返事する。痛い。

 「それじゃあ、行こうか」

 そう言ってから彼女は前を歩く。私は後ろから付いていく。隣に並んで歩くのは何故か躊躇われた。


 「行きたい場所っ、てここ?」

 連れられてきたのは、おそらく全国どこにでも二桁はあるだろう某カレーチェーン店だった。スパイシーな香りながら日本人好みする味付けで、大人から子供まで大人気らしい。辛さを選べるのも人気のひとつなんだとか。私はあまり外食しない人なので来たのは数えられる程度だ。

 「そう。・・もしかして、カレー苦手だった?」

 「いや、大丈夫。あんまり来ないからちょっとね」

 話すと彼女もそうなんだとだけ言ってそのまま入店。私もドアが閉まらない内にするりと身体を店内に入れる。「二名で」勝手知ったる様子で近づいてきた店員にピースサインを見せてから、彼女は案内されるのを待たずに空いている席に足を進める。何というか、パワフルだな。

 席に座った彼女は、私にメニュー表を渡してくる。「決まったの?」「私はいつも同じの頼んでるから」そうなのか、待たせるのも申し訳ないので無難に普通のカレーを頼むことにした。辛すぎても甘すぎてもダメなノーマル味覚の持ち主なので、辛さも中ぐらいのものにする。「大丈夫?」「うん、もう決まった」私が返すと、彼女は店員を呼び注文を済ませる。彼女のメニューはよく分からなかったが、とりあえずやたら辛そうな名前の商品だなと思った。辛党というやつなのだろうか、何回かご飯を一緒に取ったときはそんな素振り特に見せなかったが。

 「かしこまりました。それでは少々お待ちくださいませ」

 店員が機械的に接客を済ませ、レジにオーダーを通しに行くのを見送ってから、渡された水に口をつける。よく冷えた水が蒸し暑い外を歩いた身体に染みて気持ちいい。机にコップを置くとカロコロと氷が心地いい音をたてた。

 向かい合って座ると、自然彼女のことを視界に捉える。彼女もまた冷水を楽しんでいた。見たところ、もうあまり気落ちしていないらしい。その素振りを見て、今日の私の行動を思い返してしまう。一瞬で身体が熱くなって、再びコップを仰いだ。カレーの選択は結果的に悪くなかったかもしれない。汗をかいてもごまかしが利く。

 無言というのも辛いし、私から誘った以上話題もこちらから提示するべきだろう。ということで、ちょっと頑張ってみる。

 「・・随分慣れてるんだね、ここ」

 「ん?あぁ、私ここの店長」

 「うぃ?!」

 「を目指しているバイトだからね。さっきの子も知ってるし」

 彼女は事も無げに言った後、私のリアクションを見て笑っていた。うーむ会話一合での敗北か。結果笑顔なので悪い気はしないが、一本とられたようで少し悔しい。

 私も彼女を驚かせたいと思い、少し話題を考えていると彼女は急に態度を改め、そして控えめに言ってきた。

 「ねぇその、さっきはありがとう。助けてくれて」

 「・・いいよ、別に」

 彼女に礼を言われてわずかにむず痒さを覚えるも、言ったことは嘘ではない。ツンデレとかじゃなく本心だ。私は彼女のためにあの行動を取ったのではない。動いた理由はもっと独善的で傲慢で自己中心的なものだ。むしろ非難されても文句は言えないような行動だろう。勝手な状況判断で、彼女の今後の交友関係に差し障りが生まれるかもしれないのだ。なので、本当に彼女に礼を言われるようなことはしていない。といっても、そう話しても多分何も益はないだろう。ここは彼女にも納得が行く理由を提示した方がお互い気を使わずに済む。

 「五月頃、私に話しかけてくれたでしょ。そのお礼。だから気にしなくていいよ」

 「そっか・・・。うん、良き報恩であった。大義である」

 「そういうキャラだったけ?まあ、殿のお役にたてて光栄です」

 下らないノリというか、適当なキャラ設定での茶番をしてお互いに笑う。思えば彼女と二人でいるときにこういう掛け合いをしたのは初めてかもしれない。いつもはもっと薄い世間話に興じているからなあ。どちらが本当の彼女なのかは分からないが、この空気はあまり気まずいものじゃないし、嫌いなものでもない。

 「そっちこそ良かったの?あの子達、友達だったんじゃないの?」

 「友達かと言われると分からないかな。一緒にいて嫌じゃないし、楽しいと思うこともあるけど、いつでも一緒にいたいとは別に思わない。少なくとも今回はちょっと困ってたから、ああいう風に引っ張ってもらえてすごい助かった」

 「そっか。なら良かった」

 「うん、ありがとね」

 微笑まれてドキッとする。可愛いなと素直に思った。この笑顔のためにあの労苦を背負ったと思えば充分価値のあるトレードだろう。

 それからはしばらくいつものように談笑していた。途中でカレーも運ばれてきたので、それを食べながら話した。彼女はやはり辛党らしい。一口いただいた彼女のカレーは私が食べるには刺激的すぎた。ヒーヒー言いながら水を飲む私を見て彼女は笑っていた。チクショウと思うがいい笑顔だったので何も言えなかった。うーん悔しい。

 そしてお互いご馳走さまをしたあとも、お腹に入ったカレーの消化を待ちながら話をした。当たり障りのない、表面的な会話。平凡で普通のやりとりに安堵と不安を覚える。

 本当にこのままでいいのだろうか。これじゃあ結局なにも変わっていないんじゃないか。

 もう一歩距離を詰めたい、詰める必要がある。あのとき行動したのには、もっと大きな理由がある。根拠もないのにそんな錯覚に囚われる。

 「今度、私と遊びに行かない?ちょっと遠くまで」

 気づけば私の心は声という形を求めていた。発してからしまったなと思う。とはいえ訂正もできない。というかしたくない。会話の流れをぶったぎる不自然な提案だが、それは私が出した一つの答えなのだ。彼女とより深く関わるという私の出した結論のための手段だ。彼女の答えを待つ他ない。

 「えぇ、それはちょっと。なんというか私はその・・・」

 うーん、答えづらそうだが少なくともいい返事は聞けなさそうだ。

 だから、アプローチを変えてみることにした。今度はちゃんと準備が整っているから多分大丈夫。

 「ごめん。誘い方が悪かった。それじゃあ私の手伝いをしてくれない?私の仕事の手伝いを」

 「仕事?仕事ってどんな仕事?というか、まずあなた仕事してるの?」

 彼女は驚きと疑問をもって私の言葉に反応する。うんうん一本取り返せただろうか。

 私は鞄から#スケッチブック__・__#をとり出し、そしてそれを彼女に手渡す。

 彼女はおずおずとそれを受け取り、それから中身を見た。

 「うわっ!上手い・・・。これ、あなたが書いたの?全部?」

 「そう、これが私の仕事。まあ、これで生活できるほどのお金は稼いでいないからバイトの亜種みたいなものだけど」

 私はそれから、叔父が画商めいたものをしていること、小学校の終わりから私は絵を描き、気に入った絵を叔父が買い取っていること、今では取材のための移動費をもらえる程度には私の絵に価値がついていることを話した。あまり人には話してこなかったことなのであまり上手くは語れなかったが、彼女はそれでも興味深そうに最後まで聞いてくれた。

 「と、言うわけで私は現在画家もどぎとして活動しているの」

 「へぇー。それで、私にその・・先生のお手伝いをしてほしい、と。具体的には何をすればいいの?私、絵描きの才能悲しいぐらいないよ」

 「先生はやめてよ。先生は・・・。手伝いに関しては大丈夫。手伝いって言っても高さ把握するために立ってもらったり、私が描いたものに思うところがあれば言ってくれたりすれば別にいいよ。まあ、絵になる風景を探してくれたりしたらなお助かるけど。ちなみに移動費はこっちが負担。給料は・・・中学生の小遣い稼ぎ程度しか出せないと思うけど、一応ゼロではないかな」

 「なるほど・・・。今の話聞いてる感じだと、その役割私である必要ないんじゃない?むしろ、私以外の絵上手い人に頼んだ方が総じてメリットあると思うんだけど」

 「そんなことないっ!ってことはないよ、実際。でも、私はあなたがいいの。あなただから・・・お願いしてるの」

 言って、いつの間にか理由から合理性がかけていることに気づく。こっちの方も結局準備不足とは本当に情けない。欲したものに対して、子供みたいなアプローチしかかけられない自分が惨めに思える。

 彼女は何事か思案しているようだった。その頬がやや上気しているように見えたのは気のせいだろう。彼女にとっては負担以外の何物でもない提案なのだから。

 やっぱり無謀だったかな。今まで自分から関わろうとしなかった人間が、やり方も知らず、練習もしないで求めるにはあまりに高望みだったのだ。人生そんなに都合よくない

 ごめん、やっぱり忘れて

 そう言い出そうとしたその時、

 「うん、いいよ」

 彼女が返事した。思考が一瞬フリーズした後、激流のごとく感情と血液が頭に昇ってくる。

 「いっいっいいの?本当に?ホントのホントに?」

 「うん、いいよ。面白そうだし、少なくても給料発生して日帰り旅行できるわけでしょ。なら充分魅力ある提案じゃない?」

 「そうかもしれないけど・・その・・・ 、何かやりたいことがあるんじゃないの?バイト一杯入れてるし。私から提案しといてなんだけど、この手伝いまあまあ時間拘束しちゃうよ?それでもいいの?」

 「ああ・・。まあ、確かにそういう意味では確かに旨味は少ないんだけどね・・。でも多分この手伝いすることにも、きっと意味はあると思うよ。そして、それは多分私の目標にも繋がっていると思う」

 彼女はハッキリとそう言った。そこに躊躇や遠慮はない。彼女は本心から私の提案を受け入れてくれている。そう思うと嬉しくて身体が熱くなる。目頭もちょっと熱くなってしまった。恥ずかしくて顔をうつむけてしまう。情けないなあコミュ障。

 「ただし、一つ条件があります」

 彼女はそんな私を見て少し笑ってから、続けてきた。私はその言葉と同時に姿勢を正す。何だ何だ、いったいどんな条件だ。流石に私は蓬莱の玉の枝なんて持ち合わせてないぞ。

 唾をゴクリと飲み、彼女の言葉の続きを待つ。そんな私の様子が面白いのか、彼女は真面目にしていた顔を崩してから言う。

 「クリスマス、一緒にイルミネーション見に行ってくれない?」

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 予想の斜め上すぎる彼女の条件に頭がクエスチョンマークで埋め尽くされていく。何故?何故?何故?何故?

 「私、イルミネーション好きなんだ。だから、それをあなたと見に行きたいの。・・・駄目?」

 可愛く小首を傾げられてはノーとは言えないのが日本人の悲しい性だ。仕方ないな。とりあえず条件達成のためにも、彼女との縁をクリスマスまでは続けないとな。

 彼女は笑う。何が面白いのかは分からないが、笑っていた。私も気づけば笑っていた。しょうがないな、うん。よく分かんないけど今すごく幸せなのだから、笑ってしまうのも仕方ない。

 楽しみだな、彼女との仕事。何だか今ならどんな絵でも描ける気がする。苦手だった人物画でもきっと。だって、私は美しい人間を今初めて見つけたのだから。

 彼女にモデルを頼むのはまた今度にしよう。もっと仲良くなってから、もっと彼女を知ってから、もっと私を知ってもらってからでも遅くはない。

 何はともあれ、今は目の前の彼女の姿を覚えておこう。

 きっとこれは私にとってかけがえのない思い出になるから。


 筆を動かす。網膜に焼き付いたイメージを閉ざした視界の中で見て、その輪郭に合わせて鉛筆をなぞらせていく。

 時間をかけて丁寧に写しても本物の魅力には到底及ばない。私のスケッチブックの中に眠る彼女はまだまだの出来映えだ。

 お願いだから、ずっと私のそばにいてね?

 いつか、もっと上手に君を描くから。

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