ユリの種
宮蛍
ホワイトバレンタインデー
二月十四日、バレンタインデー。
女性が意中の男性にチョコを筆頭としたプレゼントを贈ると同時に、自身の気持ちを告げる日。
男子も女子もワーキャー騒ぎ、一日中不整脈を抱える日。
もっともこれはあくまでも日本独自のバレンタインの楽しみ方らしく、オリジナルである遥か彼方の西洋の国々では純粋に感謝を伝える日らしい。ソースはネット。
友達や、家族や、仕事の仲間といった常日頃から仲良くしている人にお菓子をあげる。そこには恋愛感情は別に含まれておらず、またそういったものをあげるのも女性から男性であるとは決まっていないそうだ。日本でいうところの友チョコの概念こそが、向こうではむしろ一般的であると言えるわけだ。
まあ、別に今更日本のバレンタインがチョコレート会社の販売額増大のために仕組まれたものだとか、下らない陰謀論を提唱するつもりはない。そんなことしたって惨めになるだけなのは、高い授業料払って教えてもらっている。
要するに西洋諸国の例を出して言いたかったのは、別にチョコを贈る相手は恋愛感情を抱く相手ではなくてもいいということだ。友愛のため、親愛のため、敬愛のために贈っても問題はないということだ。
さて、それじゃあ私は一体誰にチョコレートを贈りたい?
一体、誰に想いを伝えたい?
二月に入って、寒さはついに本気を出してきた。吹き抜ける風が、とかではなく、根本的に空気そのものが冷たい。今まで自分が冷気と呼んでいたものよりも数度は低いであろう空気が服に覆われていない素肌の部分に触れる度、芯から冷えていくのを感じる。むしろ、身体の内側が不自然な熱を覚えていた。
今年の冬は本当にどこも冷え込むらしい。東京などはもちろん、避寒地沖縄も例年に比べればいくらか寒く、北海道に至ってはマイナス何十度の世界だそうだ。ニュースによるとドアノブが凍りついて家から出られなくなったところもあるとかなんとか。
そんな冬の寒さに辟易し、ため息をつくと白い煙が出てきた。子供の頃ならその現象に感動や興奮を覚えるのだろうが、今となってはもう見慣れた現象だ。というか、ここ最近ほとんど見ているような気がする。
その煙の数が、私が今日一日で抱えた不安や不満のように思えた。そして、その数は大きく増えることも減ることもなく、まるで一定の周期をもって循環しているかのようだった。
結局のところ、北海道で氷点下の世界が作られようが、今年の冬が異常なまでの寒さとなろうが、私の日常はそつなく、つつがなく回っていくのである。
退化も進化もせずに、変化することを止めて、殻の中に閉じ籠って静かに眠るように私の毎日は流れていく。それなりの苦さ、そこそこの辛さとともに鬱屈とした日々が私を取り囲んでいる。そんな感覚が私の心の中に鎮座して、消えてくれない。
もう一度ため息をついた。空に吸われるより遥か手前で霧散して、何か幻想的な演出を残すこともなく消えた。そりゃそうだ。何せ元は私が吐き出した息だ。そんな綺麗なものであるはずがない。
足は機械的に動いていて、決められた目的地に向けてその歩を進めている。生かされている、というほどの感覚ではないが、まるでこれが自分の人生ではないかのような気分を時たま味わう。いっそ本当に機械だったらとさえ思うこともある。そうすれば、こんな風に悩まなくてもいい。
歩いて、歩いて、歩いて、歩いて、歩いて、歩いて、歩いて・・・・・・。
私は、どこへ向かうのだろう。
答えの見えない問いほど恐ろしいものはない。しかし、向き合わないわけにもいかない。
考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて・・・・・・。
私は、どこへ向かうのだろう。
楽しみの少ない、喜びの少ない現世にとどまる理由を見失いそうで、もし本当に見失ってしまったら自分がどうなるのかも何となく知っていて、だから、言葉にしていない答えに鳥肌が立った。
・・私はどこに・・・
・・私はどこへ・・・
居場所も歩き方も分からず途方にくれる。迷子の幼児の気持ちを感じて、年甲斐もなくえんえんと泣きそうになった。
しかし一度泣けば、私はもう二度と立ち直れないような気がしていた。それはつまり、決定的なバッドエンドを意味する。
だから、だから私は・・・
そこまで考えてから、私は足を止めた。何も自殺願望に取り付かれたわけでも、虚しさの怪物にそそのかされたわけでもない。単純に目下の目的地に到着したのだ。
いつの間にこれだけの距離を歩いたのかと、目的地を示す光る看板を見ながら思う。その光に当てられて、私の頭に巣くったネガティブな思考、生き死にに関わる考え事はたちまち跡形もなく消えていく。そうすると、意識していなかった疲れをどっと感じて自然頭が少し呆ける。ぼーっとすると、車が次々と通り抜ける音を朧気だが感じる。今日も人は夜遅くまで活動しているらしい。
光る看板に書かれた文字は・・・、残念ながら詠めない。確かイタリア語とかそんな感じだった気はするのだが、意味と発音は覚えていない。
まあ、オーナーにもう一回訊けばいいか。
そう思ってから、私は店の入り口へと近づいていく。ドアにかけられた札は【CLOSED】だが、まだ照明は点いているので大丈夫だろう。
ガランガラン
昔懐かしいドアの開く音が、人の気配をなくしんと静まり返った店内に小気味良く響く。その音が心地よく鼓膜を揺らすと同時に、
「すみません、今日はもう閉店でして・・」
入り口からは見えない奥の方、厨房になっている場所からよく聞き覚えのある声がする。りんと鈴が鳴るような声、というわけでもないのにこちらもドアの開閉音同様よく響く。震えた空気が身体に染み込んでいくような気分だ。もっとこの気分を堪能しようと鼻から軽く空気を吸うと、入ってきた酸素や窒素によって心が洗われたような気持ちになる。不思議なものだ。そこらの店と内装で大きな変化はないというのに。
「あの、本当にすみません。今は片付けのための時間でして・・」
返事もせず、また帰る様子も見せないこちらをいぶかしんだのか、奥から近づいてくる足音が、声とともに聞こえてくる。あえてそれにも返事をせずに黙ってじっと待機しておいた。多分良いものが見れる。
「また明日以降来店していただけ・・・」
厨房とカウンターを仕切るためのレースを潜りながらそこまで言って、声の主はポカンと口を開けた。それからやれやれと首を横に振り始めた。うん、彼女の少し困ったような表情はやはりいい。
「まだ大丈夫?」
「駄目と言っても居座るでしょう?」
違いないと思って苦笑しながら、カウンターの方に歩を進める。あれは彼女なりのOKサインなのだ。ちゃんとサービスも提供してくれる。実際もう、厨房の方に戻ってコーヒーカップをガチャガチャと鳴らしていた。
「いつもごめんね、オーナー」
「そう思ってくれているなら、ちゃんと営業時間内に来てください、お客さま」
再びカウンターの方に戻ってきたオーナーに一応一言謝っておいたが、まあ確かに説得力が無さすぎる。別に申し訳ない気持ち事態は嘘ではないのだがなあ。
「いつものでいいんですよね?」
「うん、お願いします」
「かしこまりました」
一応確認をとるも、オーナーは既に私がいつも頼むブレンドコーヒーのサイフォンを持ってきていて、私の了承と同時にカップに注いでいく。放たれた湯気は豊かな香りを携えていて、飲む前からホッとした心持ちになる。本当にいい香りだ。
「どうぞ、ブレンドです」
「どうもありがとう」
目の前に差し出されたカップを両手で持ち上げてからフーフーし、程よく冷めるのを待つ。カップから伝わる熱がじんわりと身に染みていく。その至福を味わいながら、コーヒーに口をつけた。
「うん、いつも美味しい」
「それはどうも」
私の誉め言葉をクールに流しながら、オーナーは厨房の方に戻っていった。ちゃんと私の感想を聞いてから片付けに戻る辺りが最高に可愛いポイントだと思う。もしかしたら、今は嬉しくてニヤニヤが止まらなくなっているのかもしれない。それを隠すために早々に奥の方に引っ込んでしまったのかもしれない。そんな下らないことを妄想しながら、チビチビとコーヒーを飲んでいく。
ある程度飲んだ段階で一度カップを口から離して、揺らぐ黒い水面を覗いた。照明の明かりを受けて光沢を持ったそれが時たま写す自分の顔を見る。そうしていると脳が活動を初めて、思考の、記憶の手が伸びていく。
この店に初めて来てから、かれこれ半年が近く経っていた。たまたま仕事終わりにちゃんと喫茶店に入ってコーヒーを飲みたくなり、結果帰路から少し外れた通りにあるこの店についたのだった。初めて来たときも終業時間を過ぎていたのだが、オーナーは快く入店を許してくれた。以来私は週に一度のペースで仕事が遅くなりがちな木曜日に通っているのだった。
通っている理由は・・多分三つ。
一つ目は、純粋にコーヒーが美味しいから。今となってはここのコーヒーじゃないと違和感を感じて、飲む気がしなくなる程である。
二つ目は、オーナーの人柄が好きだから。必要以上に話そうとするでもなく、かといって無言でプレッシャーを放ってくるわけでもない。私が入店したら何だかんだできちんと対応してくれるし、時おり可愛い一面も見せてくれる。そういった所が憎からず思われて、ついついここに足を運んでしまう。
そして三つ目は・・・
「こちらもどうぞ」
そこまで考えたところで、顔の上の方からオーナーの声が聞こえてきた。同時に目の前にプレートが置かれる。そのプレートにはチョコレートケーキが乗っていた。
「私、頼んでませんけど・・」
「ええ、私も頼まれてません」
「ええっと、つまり・・、サービス?」
「いえいえ、お代は頂きますとも。定価の半額でいいですけどね」
「・・横暴ですね」
「横暴なお客さまには当然の行動ですけどね」
オーナーは笑顔のままそう言って、私にフォークを渡してきた。食べろ、ということらしい。そしてこうしてプレートに乗せて提供されてしまった以上拒否権はない。まあ、拒むつもりもないが何となくしてやられた気がするので軽口ぐらいは返しておきたい。
「追加料金払うから、オプションであーんとかしてくれません?」
「・・・うちはそういうサービスは行っておりません」
少し戸惑って顔を赤らめてから、オーナーは平静を装った口調で返答する。うん、想像して照れたオーナーが可愛いのでこの勝負は私の勝ちだ。
満足してから、チョコレートケーキにフォークを刺す。ブラウニー、で当たっているのだろうか。私はガトーショコラとブラウニーの違いをいまいち理解していないのでよく分からないのだが。細かいことは気にせずにズッシリと硬い感触をフォークを通して感じながら一口分を取って口に運ぶ。
「あっ、これ美味しい」
「・・良かったです」
そう言うと、オーナーはホッとしたのか綻んだ笑顔を見せた。それはいつものクールな表情とも、たまに見せる戸惑ったり照れたりする表情とも違う、私に初めて見せる純粋な喜びの表情だった。その可愛さたるや。この笑顔を貼っつけたビラを配れば、翌日からはアホな男客で繁盛間違いなしだろう。もっともそんなこと絶対にしないしさせないが。
「これ、バレンタイン限定商品なんですよ。基本カップルの方にのみ提供してるんですけど、ちょっと余っちゃったので特別に・・・」
「非リアで独り身の私にカップル用のモノを食べさせるとか、なんて残酷な・・。でも本当に、とっても美味しい・・」
笑顔のまま話し続けてくるオーナーに私もまた笑顔で言葉を返した。そのまま話題はバレンタインから取るに足らない世間話になって、私とオーナーは下らない些事について色々と語り合う。どうでもよくて、なんでもよくて、全然中身なんてない、生産性も発展性もない、無駄で無意味な会話の応酬を続けて、時間は緩やかに流れていって・・、
でも、それは私にとって充分すぎる程に幸せな時間だった。それこそ、死ぬ間際に思い出したいほどに。
昔、聞いたことがある。
どこに行くでもなく、ただ二人で時間を過ごすだけで幸せだと思える相手が、好きな人なのだと。
その意味においては、私はオーナーのことが好きだった。話しているだけで、そばにいるだけで、胸が温かい。ベタな表現だけど、それだけ真理に近いんだと思う。恋愛感情かどうかは分からないけど、一緒にいたいと思える、私にとってただ一人の存在だった。
だったら、私は・・
「ふぅ、そろそろ時間ですね。流石にこれ以上遅くすると私も帰れなくなってしまうので」
「そう、じゃあ私も御暇しないとね。ご馳走さまでした」
気付けば私が来店してから三十分以上がたっぷりと経っていた。カップの底には残ったコーヒーが乾いて染みのようになっていた。おかわりもしたんだけどなあ。不思議だ。
楽しい時間だけ、やたら早く過ぎる。
「会計お願いします!」
「はいはい。えーっとコーヒー二杯とケーキ一個が半額でー」
いつもそうだ。この店は入るときも出るときも私の心をどこかへ飛ばしてしまう。実際今だってオーナーの声はぼんやりとしていてうまく聞き取れていない。会計できないと困るので、とりあえず大きいお金を出しておいた。
「はい、じゃあお釣りです」
「ありがとう。ご馳走さま」
「いえいえ、お気を付けてお帰りください」
無事に会計を済ませてから入り口の方へと歩いていく。わずか数歩のその距離で、私は色々と考えた。いやほんと、脳ってこんなに考えられるんだなと感心してしまうほどに、多くのことを。
そのほとんどは言い訳で、やらない理由で、自分の臆病さを象徴するような見苦しい屁理屈で、本当に自分が嫌いになりそうだった。
私はずっと、ハムスターだったのだ。
循環する日常、停滞した毎日を過ごしてきた。自分がそういう枠組みに囚われていると知ってなお、私は変わることを怖れていた。
格好いい理由や、天才的な着眼点による逆転の発想があったわけでもない。
怖かったのだ、ただ単純に。
今よりも深い悲しみに、今よりも激しい苦しみに苛まれるかもしれないと思って、私は歩みを止めていた。そして、いつの間にかそれが私の当たり前になっていた。
でも、多分そうじゃない。いや、それだけじゃないというべきか。別に昔の私も間違えてなんかない。かつての私の選択を、私は絶対に否定しない。
立ち止まらないと人は生きていけない。歩き続ければ、人とか車とか壁とか、越えられない、ぶち破れない障害に必ずぶつかる。そして、それは時として命すら奪う。立ち止まることは必要なことだと、私は思う。
ただ、それが正解だったわけでもないという、本当にそれだけのことだ。
立ち止まって、足を止めて、歩みを止めて、それだけじゃ手に入らないものがある。私はそれに気づいた。
この店に通う三つ目の理由、それはこの店には何かがあると思ったからだ。私の日常を、閉鎖した毎日を変えてくれる何かが、この場所にはあると思ったのだ。
だって、今の私の一週間はこの日を中心に回っている。半年前には存在すら知らなかったこの店が、今は私のライフスタイルの中心となっている。それは確かに私の日常に起こった変化だ。
だから今、踏み出したい。そうすれば、その何かに手が届きそうだから。
臆病なのでこういう時、アニメや漫画に出てくる強い人の言葉を使いたくなる。そんな自分の弱さに苦笑して、でも今は愛おしくも思えている。
さあ、呟こう。
私は、明日が欲しい。
入り口の前、ドアノブに右手をかけたところで私は一度足を止めた。そして、深呼吸。弾む心臓をピシッと注意してから、心の太鼓をドコドコ鳴らす。自分を鼓舞するのだ。
大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫。
今だけは、逃げたくない。
「あのっ、オーナー!」
決意を固めてそう言いながら振り返ると、私の視界は立方体の物体によって支配された。それはどうやら見事な放物線を描いていたようで、私の顔の中心に緩やかに落下してきて・・
「危なっ!」
反射的にドアノブにかけていなかった左手で顔を覆うと、スポッと落下してきた物体は手のひらの中に収まった。どうやらそんなに大きいものではなかったらしい。
しかしこれ・・
「あれま、取られましたか。いつもの悪戯心のお返しも込めてあえて悪意あるタイミングで投げたというのに」
「・・苦がない人間だから、悪意とは縁遠いんじゃないですか?」
「その理論が正しい場合、私は愛で溢れた人間になりますね。まあ、私もそれなりに苦労しているのでちゃんと悪意や敵意は胸に持ち合せてますけど」
オーナーは涼しい顔をしながら、私の言葉に返すが、何を何故投げたのかは一切説明してくれなかった。半年の付き合いにおいて初めてのイベントで正直対応に困る。
とりあえず左手に収まったオーナーが投げたものを見てみる。小型で立方体、チョコレートのような茶色の包装紙でラッピングされていて、右端には金色のリボンが結ばれていた。かなり綺麗な包装で・・
ん?チョコレート色?
「これ、もしかしなくても・・」
「ええ。バレンタインチョコ、というやつです」
「いや、それならさっきサービスで押し売りされましたけど」
「意味が違うんですよ。チョコに込めた意味が・・」
「意味?」
「さっきのチョコレートケーキはオーナーである私からの、常連さんに対しての「サービス」です」
「はあ?それじゃあこっちは・・」
「友チョコです」
「・・・・・・・・・」
「お店の上での付き合いを取っ払った、私個人からのあなた個人に対する友チョコです」
「・・・・・・・・・」
「・・何かしらのリアクションを貰えないと流石に私も恥ずかしくなるんですけど。只でさえこんな気取った立ち振るまいしたことないのに・・」
「・・・・・・・ッハハ」
「何です?」
「アハハハハ。そっかそっか、これは友チョコかー。なるほどなー」
「なっ!馬鹿にしないでください」
「いや、馬鹿にはしてないんだけどね。でも可愛くって・・。・・ッハハ」
「やっぱり馬鹿にしてますよね!」
「本当に違うってば」
私は手を左右に振りながら違う違うと言葉を返す。顔からは、笑みが消えてくれない。やばい、嬉しい。
と同時に、少し悔しかったりもする。
折角腹をくくったというのに、先を越されてしまった。
だがまあ、だったらここから始めよう。
「それじゃあ、私からもこれを。友チョコ返し!」
ぷんすかと依然不機嫌なオーナーに、私は鞄から取り出したものを放る。こちらも見事なアーチを描き、オーナーの手元に無事収まった。何々と期待に胸踊らせてそれを見たオーナーは、しかし、呆れたような口調で
「・・明治ミルクチョコレートって、小学生じゃないんですから」
「「チャーリーとチョコレート工場」を見て以来、銀紙包装のチョコレートが好きでね」
「気持ちはちょっと分かりますけどね・・。ッフフ」
「今、馬鹿にした?」
「してませんよ。ただ、可笑しかっただけです」
どうやら彼女も、何となく笑ってしまうこの不思議を共有してくれたらしい。二人して控えめにアハハウフフと笑う。
そして、その笑いが止んだタイミングを見計らって私は切り出した。ここからは私のステージだ。
「・・何というか、まさかこんな立派なチョコレートを貰うとは思ってなくて・・。だから、お世辞にも高価とは言えない慎ましい明治ミルクチョコレートで一応お返しさせてもらったわけですが・・」
「別に気にしてませんよ。こういうのもまた乙なものですから」
「いや、私が気にします。だからそれは取りあえずのお返しというか、前金的なモノに当たると言いますか」
「ふむ?つまり、どういうことです?」
「だから、その、えっとですね、まあつまり」
「伝わりませんよ、そんなんじゃ」
「・・意地悪だね」
「朱に交わりすぎたみたいで」
そう言って頬笑むオーナーは蠱惑的で、魅力的で、眩しくて、素敵だった。その笑顔に照らされて羞恥心はシュワシュワと溶けていって、言葉がスルスルと喉の方まで競り上がってきた。
そして、空気が震えた。
「今度、正式なお返しのために私と遊びに行こう」
「・・それは他のカフェに対しての敵情視察も兼ねたものですか?」
「いえ、友達との純粋な遊びのための誘いです」
「・・だったら」
ゴクリと唾を飲み込む音が耳に届いて、自分の緊張状態を知る。手汗とかもすごいかいててめっちゃみっともない。
「・・・だったら?」
「だったら、喜んで受けます。一緒に遊びに行きましょう」
その言葉が鼓膜を通して伝わったとき、私の脳は爆発して四方八方に飛び散った。もちろん錯覚なのだが、それぐらいの衝撃だった。
「いいの?!本当に?!いいの?!」
「ええ、行きましょう。私も、久し振りに友達と外で目一杯遊びたい」
食らいつくように前屈みで確認をとる私に、オーナーは微笑をもって返す。返事はやはりイェス。今日はクリスマスではなくバレンタインなので正真正銘のイェスだ。
やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった。やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった、やった。
やったんだ、私は。
「今日はもう遅いので、細かい予定とか連絡先の交換とかは次回にしましょう」
喜びに溺れ、思考も朧になる私とは対称的にオーナーは冷静で、テキパキとこの場を仕切る。嬉しすぎて考えが纏まらないので、取り合えず言われた通りに動く。
「それじゃあ、私は帰るね。・・また来週」
「・・・ええ、また来週」
ドアを開けて外気に触れると、冬の寒さが容赦なく私を襲ってきた。身体はその冷気に喘ぐも、心の方は一向に冷える様子を見せない。
嬉しい、楽しい、喜怒哀楽の真ん中をスポーンと野球ボールで的当てして落としたような気分だ。
要するに、超ハッピー。
はぁと息をつくと白い煙が天へと吸われてゆく。つい小一時間前も見た光景だが、しかし、今は感じるものが違う。
幸福の力は偉大だ。世界が恐ろしいほど綺麗に見える。
もう一度吐いた息が昇っていく様子を見る。すると、今度は落ちてくる白いものが目に入った。
「雪だ・・」
呟いてから、その降り注ぐ純白の粒に手を伸ばす。儚くて、故に美しい。
「ホワイトバレンタインデーか。悪くないな。少なくとも、私好みだ・・」
雪の降る道を歩いていく。痛々しい自意識だが、何か物語の主人公にでもなった気分だ。
こういう日もある。
辛さも苦しさもある。
痛みも悲しみもある。
けど、その中には美しい何かもある。
だから、私は生きていく。
循環する日常は今日僅かに、微かに、しかし確かに変化した。
それこそが、最大のバレンタインデーの贈り物だと思った。
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